「――色々と、お世話になりました」 朝。靴を履く間置いていたリュックを担ぎ、着替えの入った大型トートを肩にかけた。見送りに並んでくれている黄瀬家の面々に告げると、お母様は「またいつでもいらっしゃい」と気のよい言葉をくれお姉様は「今度はそっちに泊まりに行くわ」と宣言しこーちゃんは「…………」むっすりと不機嫌そうにわたしをただ睨む。同じく運動靴を履いて準備万端の黄瀬くんは「コラ、浩太」眉尻を上げてこーちゃんを見下ろすのだけれど。 「挨拶ぐらいしろよ」 「……ふん」 「そんな態度だと、次遊びに来た時、環っち遊んでくれなくなるぞ」 「…………っ」 やはりまだ複雑な心境なのだろう。 昨日の敗戦といい今日のお別れといい、十歳ちょっとの少年の夏にはいささか刺激が強すぎたようである。――などと軽く捉えることができる程度には、わたしも立ち直っていた。黄瀬くんの言葉にピクリと反応を見せわたしを見上げるこーちゃんに、わたしも屈んで目線を合わせた。 「こーちゃん。じゃあ、わたしもう行くね?」 「…………」 「今度、ワンピースのDVD持って行くね」 「……そん時、オレとも遊んでくれる?」 「…………」 抱きしめた。 うん、遊ぶ遊ぶ。と繰り返し、こーちゃんのちょっと硬い髪の毛を掌でぐしゃぐしゃとかきまぜて精一杯の親愛を表現したつもりである。こーちゃんもいつもなら暴れて抵抗したりするのだけれど、この時ばかりは大人しく、更に愛しさがこみ上げた。 「あー!コータだけズルい!!っスよ!!」 「もう!行くっスよ!ホラ!」勢いよく引き剥がされ、手首を掴まれたまま家を出ることになってしまったため、開け放たれた扉から三人が完全に見えなくなってしまう前に、大きく言った。 「ありがとう!」 「一ヶ月という短い間でしたが、皆さんと一緒に練習出来て、本当に楽しかったです。ありがとうございました。冬も、一バスケファンとして応援しています。頑張ってください!」 勢いよく頭を下げると、晒した後頭部をガシッと掴まれた。驚いて顔を上げようとすると「こっちのセリフだ、バカ!」と叱咤される。そこへ少しずつ重さが増していき、一斉にてんでバラバラ、グチャグチャに髪をかき回されていいようにされながら、表情が分からないのをいいことに、わたしは少しだけ泣いた。お礼の言葉、お別れの言葉、再会を願う言葉、そして愛の籠った(?)言葉など、みんなが好き勝手に言い始めるのでうまく聞きとれないけれど、この人達の、この騒がしさが好きだったと、今は素直に感じられる。 「ハイ一分たった!みんな終わり!終わりっスよ!今すぐ離れて!」 「何するの黄瀬くん」 「環っち、何を黙って受け入れてんスか!」 「さっきからちょいちょい邪魔するよね。せっかくの感動のシーンを」 「初心を思い出すっスよ環っち!環っちは最初、そんなキャラじゃなかったハズっス!もっとクールに!ドライに!」 「初心?」 「そう、初心!」 「あい・へいと・ゆー」 「ユー……ってオレ!?ってコレ懐かしい!!」 「そーゆーコトじゃないっスよおっ」と泣き出してしまった黄瀬くん。いつも騒がしい人物だけれど今日は一段と酷いな。テンションが全く掴めない。黄瀬くんによって解放された頭にはまだぐわんぐわんと先の衝撃や手の温もりが残っていて、なんだか心まで温かい気持ちになった。「こちらこそありがとう、水無」と武内監督も笑顔で最後に握手を交わした。 「もー。みんなして環っちと仲良くなりすぎっス!」 道中、また更に機嫌の悪くなった黄瀬くんが一歩前をどしどしと歩く。その長い足でどんどん歩かれたらとてもじゃないけど追いつくことができないだろうに、なんとか一歩後ろをキープできているのは、黄瀬くんがそれでもわたしを気にかけてくれているからである。どう返事していいのかよくわからずに「ご、ごめん……?」と謝れば顔だけこちらを振り向いて、少しだけ表情を緩めてくれる。 「環っちはもうちょっと、当初の警戒心を取り戻した方がいいと思うっスけどね」 「警戒心?」 「こうも好かれるまま好かれて、しかもすんなり受け入れちゃわれると、今までのオレの努力は何だったのか真剣に考えたくなるっスよ」 「はあ…………」 「ホラ今!辛辣な言葉でオレの胸を突き刺していいタイミングっスよ!」 「黄瀬くんってやっぱりマゾなんだよね?」 そういう認識で合ってるんだよね? と尋ねると「それは違っスけど」と返される。言っている意味がよくわからない。消化不良らしく、ぶつぶつと呟きながらすっかり前を向いて歩いている黄瀬くんに、不意に伝えたくなった言葉があって、少し駆けて隣へ並ぶ。 「警戒とか、する必要がなかったんだと思う。だって、黄瀬くんの家族と仲間だから」 「……え?」 「あと、黄瀬くんが今まで頑張ってくれたから、今のわたしがあるんだと思うし……」 「……環っち?」 「だから、えっと。なんていうか……」 その先の言葉を思い浮かべて、少し迷う。不思議そうにこちらを見ている黄瀬くんに、余計に言いだしづらくなる。言い淀んで、淀んで、淀んでいるうちに、ふとそらした視線の先にもう見慣れてしまった駅を捉えた。 「……じゃ。わたしはこれで」 「待って待って。何言いかけたの今?」 逃げようとした。 腕を掴まれた。 「は、離してくんない!」 「環っちがどもった!え、何?何言おうとしたの?」 「今度言う、今度……50年後あたりに!」 「それもう言う気ないよね!?」 しっかりと握られた腕に振りほどこうと奮闘するも空しく、悲しいかな男女の力の差。離す気の毛頭ないらしい黄瀬くんは続きを促してくる。「だ、だからっ――」くそ、振り払えない。 覚悟を決めて、抵抗を止める。 黄瀬くんの握力も少しだけ弱くなる。 (油断をしている様子はない。) …………まあ。 油断してないのなら、 「――わたしが……り、涼太くんのことっ、信頼してるってこと!」 不意を突くまでである。 「…………へ?」 呆けたカオ。 を確認して、掴まれたままの腕を回しながら引っ張ると、大きな手はすんなりと外れる。 「あっ!」 「じゃ、じゃあわたし、これでっ」 「ちょ――環っち!」 スタートダッシュ。 これさえ獲れれば怖くない。 出遅れた黄瀬くんを後に、走り出す。 すぐさま追いかけてくる黄瀬くんに、わたしは速度を緩めないままショルダーバッグから財布を取り出してスイカを当てて改札を通り抜け、猛ダッシュ。人ごみをすり抜け階段を駆け下り、奇跡的なタイミングで乗車待ちしている電車に滑り込んだ。間に合った……!そして逃げ切れた!「環っちっ……」バン、と窓を掌で抑える黄瀬くんに負けないくらいにわたしも息が切れ切れ。ぜえはあ、肩で息をする。扉が閉まり終え、じきに動き出すであろう電車の中で、なんとか余裕を持ち直した。 「ばいばい!また遊ぼうねっ!」 二度目のカオ。 ゆっくりと端へ切れていって、すぐに見えなくなった。少し、勿体ないと思って、けれど案外またすぐに見られるのかもしれないと思うと、胸が弾んだ。完全に駅を出た電車の中、息を調えがてら壁に寄り掛かる。この一ヶ月の奮闘を思い返して、笑ってしまう。そういえばわたしから黄瀬くんにあの一言を投げるのは初めてだったかもしれない―― 「…………ありがとう……」 うん、楽しかった。 また遊ぼう。 ← → |