ポリゴン | ナノ



  
女神と聖母



十分後。

「――そういうわけで、この子が明日からウチにくる環っち」

あれから。どうにか帰ろうとするわたしを引きとめて説得した黄瀬くんは疲れ切ったカオを隠す余裕もままならず、ヨロヨロと上げた掌でわたしを指し示した。「み、水無環です」向かいに座るお二人の目がわたしに向けられてたじろぐも、なんとか名乗る。

「はじめまして。黄瀬くんにはいつも、えっと……お世話になっています……」
「あはは。いい子じゃん。涼太のカオなんか立てないでいいのに」
「……姉ちゃん……」
「こちらこそ、いつも涼太がお世話になってます。ほら京子、あなたも挨拶なさい」
「はいはーい。私は長女の京子。この家のアイドルでこの家の中で一番決定権あるから、よろしくね☆」
「……キモッ」
「ぁあん?」
「ヒッ!!」

わたしの持参したお菓子は現在お茶うけに使用されており、黄瀬くんと京子さんのやりとりを見ながらまだ微妙に落ち着かない心にフィナンシェという名の栄養を送り込む。お母さんの洋子さんは席を立ってリビング内で追いかけっこを始める二人を総スルーして紅茶とお菓子を召し上がっている。…………なんか、個性的なご家族だなぁ。その上、揃って外見は皆さん整っているのがなんとも言えない。

「環っち、助けて……!」
「……ごめん、黄瀬くん……。女神には逆らえない」
「女神!?」
「なんか私、環ちゃんとは仲良くできそうだわ」
「だからなんで今ので!?」
「環ちゃん?私の事は京子様かお姉様って呼んでいいのよ?」
「じゃあ……お姉様で」
「欲しいの!?こんな姉でも欲しいの!?」
「このお菓子、おいしいわねぇ」
「恐縮です、聖母様」
「あれ、環っちそんなキャラだっけ!?」

――黄瀬一家、恐るべし。
(お父様にはまだ会っていないけれど。)


「…………うぃース」
「おう。――どした。ヤケに疲れてんな」
「センパイ……ッ」
「ばんわー」
「……お前は元気そうだな」

黄瀬家でのドタバタですっかり心が疲弊してしまったらしい黄瀬くんには珍しく笠松さんも同情的に「少し休んでから入れ」と告げた。わたしに「あいつの姉ちゃん、そんなにスゲェのか?」と耳打ちしてくるということは、まぁ日頃から愚痴というか、家族の話をしているらしい。「とんでもない。とっても美しい方でした」と返し、度の入っていないメガネを指で押し上げて、わたしもマネージャーの仕事に入る。けれどベンチに前かがみで座りこんでいる黄瀬くんが気になって、ジャグに水を入れてからはなんとなく黄瀬くんの近くにそれを置いてドリンクの準備をする。

「……お兄ちゃん、ごめんね。疲れたでしょ?」
「ん?……いや、まあ、疲れたけど。でも環っち気に入られたみたいだし、よかったよ」
「気に入られたのかは謎だけどね」
「いや、あんな楽しそうな姉ちゃんは珍しい……から余計怖い」
「とってもきれいな人だよね、お姉様」
「マジでそう呼ぶの……!?」
「浩太くんも可愛いし。お母様も優しいし。あーほんと羨ましいお兄ちゃん」
「……何なら浩太か姉ちゃんどっちか持って帰っちゃえば」
「え、ホント?わー、どっちにしよっかなぁ」
「悩むのね……あ!なんなら、いっそオレをお持ち帰りでも」
「お兄ちゃん!死んじゃやだあっ!」
「……え、逆接!?」

意味のない雑談を少しして、黄瀬くんはそれから練習に入って行った。わたしは作業をしながら、ほんの一時間前にわたしを見送ってくれた美女二人の顔を思い浮かべ、頬を緩める。あんなきれいな人たちの顔を、これから毎日見られるのか……。目が肥えそう。眼福、眼福。目の保養、とも言う。あんなハイレベルの美人なんて、多分今まで見たことが無いな。将来あんな風になりたい。希望を持つだけはタダだ。

「なあ環ちゃん。姉ちゃんがものすごい美人ってマジですか?」
「マジです女神でしたお姉様は」
「よーし黄瀬。今日は黄瀬の家にお呼ばれすることにするわ」
「いやっスよ」
「あ、もちろん環ちゃんのこともオレはマジだから」
「ちょっ、何また口説いてんスか!」
「フッ。油断大敵だ」
「カントクー。お兄ちゃんと森山センパイがサボってるんで、代わりに水無入りまーす」
「あ――!!」「あ――!!」

夏休み中の居候についての打ち合わせは、事前に許可を頂いていたため、つつがなく進行した。明日七月二十日は終業式なので、わたしは一度家へ帰り、荷物を持って黄瀬くん宅へ転がり込む。部屋はお姉様と同室。何の不満もない。というかむしろお姉様に申し訳ない気持ちでいっぱいなのだけれど、お姉様は美しい笑みで快く引き受けてくれた。「まさか環っちが姉ちゃんシンパに回るとは……」とぶつぶつ呟いている黄瀬くんの背中を押して、コートへ促すと次は得点板など試合の準備に取り掛かる。やれやれひとまず本日最大のノルマをこなし終えて一段落、そして今からはまた別の課題に取り組まなければならない。全ての準備をし終えてから、度の入っていない邪魔なだけのメガネを外し、上のジャージを脱いでTシャツ姿になると、これまた風ではたはたと揺れる袖をぐるぐるとねじり、肩口あたりに押し入れてタンクトップ袖にすると軽く肩を回す。最近ようやく履き慣れてきたバッシュの紐を結び直して気合いを入れた。

「水無、入りまーす」


「じゃあ、今日はこれで失礼します」

おじゃましました。と軽く頭を下げて、黄瀬宅を出る。日も暮れてすっかり暗くなってしまったけれど、電車がない訳ではない。「送るっス!」と言って聞かなかった黄瀬くんを仕方なく引き連れて、駅までの道を歩く。――練習は夕暮れまで続き、へとへとになって家へ戻ったわたしと黄瀬くんを迎えてくれたのは浩太くんの捨て身のダイブとお姉様の美声の『おかえり』と洋子さんのおいしい手料理だったものだから、すっかり遅くなってしまった。

「おいしかったね、肉じゃが」
「そスか。よかった」
「あーあ。これからしばらくはあんなきれいな人と生活出来るのかぁ。役得だね、役得」
「……女の子が使う言葉じゃないっスよ、それ」
「着替えは今日ちょっと運べたし、あとは月曜にまた運ぶから。お姉様によろしく言っといてね」
「うース」
「勝てるといいよね」
「ん?」
「大輝くんにもだけどさ、海常。毎日あれだけ頑張ってるんだから……やっぱり、勝ってほしいよ」

車道の喧騒とは切り離されたように、人気のない歩道で静かに響いた。わたしが呟いたそれに、黄瀬くんは意外そうにわたしを見る。

「なに」
「や……環っちがそこまで応援してくれてるなんて、思ってなかったから」
「してるよ。みんな、先輩とかも、いい人だし……頑張ってるし。楽しそうだし。そんな姿毎日のように見せられたら、そりゃあ応援もしたくなるよ」
「……ふーん?」
「そのニヤニヤ、やめてくんない」
「環っちって、ホントたまーに素直でカワイーッスよね」
「やめてくんない!マジやめてくんない!」
「はいはい。恥ずかしいんスよね?褒められると照れちゃうんスよね?見つめられると素直におしゃべり出来なくなるんスよね?」
「それどんなTSUNAMI!?」





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