「……というワケで、今日から環っちが特別コーチになりまっス!パンパカパーン!」 「パーンじゃねぇよアホ!!」 「ぶへぇっ」 後ろの黄瀬くんはパーン!とぶっ飛ばされた。もちろん黄瀬くんの無駄にいけてる顔面を殴打したのはさすがキャプテンの笠松さんであり、彼は地に伏した黄瀬くんに向かって「いきなり何言ってんだテメ!」と怒鳴ったわけだけれど。黄瀬くんはしばらく頬を押さえて震えていたけれどすぐに取り直して起き上がる。 「いきなりじゃないっスよ!ちょっと前から考えてて、ホラ環っちのOKもあるし」 「そりゃいつだよ」 「ゆうべっス!」 「いきなりじゃねーか!」 「でもカントクの許可だってちゃんと貰ったっスよ!だから環っち引き取りに誠凛行って来たんじゃないスか」 「それはいつだ」 「今朝方に」 「それもいきなりだバカ!」 また殴られた。「つーか何で先にオレらに言わねーんだよ!」と三度殴られる。その度に小さな悲鳴が聞こえるのだけれど、笠松さんは全く気にした様子はない。小掘さんや森山さんや早川さんも、あまりの笠松さんの剣幕に何も言えず、成り行きを見守っていた。いや、そろそろ助けてあげないと。黄瀬くん死ぬかも。と思い、とりあえずまだ何やら言い合っている様子の二人の間に入ってみた。 「か、笠松さん。すみません、その……主将も通さず勝手にこんなこと企てて」 「あ?あー……気にしてねーよ。悪い。何かコイツのニヤけたツラがイラついてついシバいちまっただけで」 「よかった」 「え、オレそんな理由でシバかれてたんスか!?」 「うるっせ!」 「いたっス!!」 再び地に伏した黄瀬くんを屈んで覗き込む。「先に話しとけばよかったのに」というか、皆さんもう話は聞いているとばかり思っていたから、この驚きようにこっちが驚いたわ。暗にそう言うと、黄瀬くんは俯せたまま顔だけ上げて、アハハと笑う。「驚かせたかったんスよ〜」との返事に思わずぺしぺしと頭をはたいてしまった。「アハハ。痛い痛い」 「……ま。監督が認めてんならオレらは従うよ。水無の実力はこないだ見たし、それに広輔からタコが出来るぐれー聞かされてっから」 「ど、どうも」 「このバカからも色々聞いてるしな」 「……何話してんの?」 「主に環っちの可愛さについて」 「死んでください」 「丁寧語……!?」 「ホントのことなのになー」とむくれる黄瀬くんを放置し、一度笠松さん達に向かって軽く頭を下げる。よろしくお願いします。と言うと、向こうも返してくれて、とりあえず一安心。はじめっから話をつけておいてくれれば、不要な心配だったのに。今日は全体的に機嫌がいい日なのか、すぐにまたヘラヘラしはじめた黄瀬くんにこれ以上の説明を求める気になれなかったのか、笠松さんは「で、具体的には」と詳細を促してきた。 「わたしが担当するのは主にワンワンです。だ……青峰くんとの勝負を避けられない黄瀬くんには、とにかくストバスの感覚を掴んでもらうことから始めなくてはいけませんから」 今まででも時間さえあればわたしや先輩達と遊んでいたのだから、そこらへんは時間をかける必要はないとは思うけれど──なにぶん、実はストバスの動きは実践で黄瀬くんに真似された試しがないため、その辺は曖昧なのだった。 わたしのプレイスタイルも田原のトリッキーなプレイスタイルも、黄瀬くんにコピーされたことがない。 それが意図して真似しないだけなのか単純に真似できないのか、それともその向こう側に大輝くんを見てしまい真似しようとも思わなかったのか。 それはわからない。 けれど今回、黄瀬くんは大輝くんを、大輝くんを以てして倒そうとしている。 恐らくそれしか道はない。 そう感づいているのだろう。 だから、わたしを誘った。 大輝くんを見て、大輝くんだけを追いかけて、いつまでも大輝くんしか見なかったわたしを誘ってくれた。 大輝くんのことすら本当は見えていなかったわたしを、誘ってくれた。 「夏休みに入るまでは土日だけのお付き合いになりますが……精一杯やらせていただきますので、よろしくお願いします」 「こちらこそ、よろしく頼む」 だから── だから、わたしは。 「短期コーチ?」 「そ」と頷いてごはんを一口。毎度のことながら夜遅く帰ってきたわたしをお母さんはおかえりとだけ迎えて作り置いてあった夕飯を温めて出してくれた。その間にお風呂に入っていたため、湿った髪の毛が首に張り付いてうっとおしい。──長くなったな、髪の毛。前髪はその都度長さを揃えているけれど、後ろは伸ばしているから手をつけていない。なんとなく髪の毛を気にしながら、咀嚼したごはんを飲み込んだ。 「家にも来たことあるでしょ。黄瀬涼太くん」 「ああ。あの、犬みたいな子」 「……人の友達を犬にしないでよ」 「まんまじゃない」 「サインもらっといてよく言う」 「うふ」 「きもい」 「あっそう。じゃ、デザートの梨はいらないんだ。切ったのに」 うふって。 母親らしい反撃に出られたためわたしは黙るけれど、全く笑わずに真顔でそれを使う神経は娘にも理解できない。「ごめんごめん」と謝れば、薄く笑って梨の入った容器をお茶碗の脇に置いてくれた。 「──で、その黄瀬くんのコーチをするって?」 「インハイのためにね。大輝くんと準々決であたるから」 「ワオ。三つ巴」 「三つ……?」 お母さんはたまにわけのわからないことを言う。軽く首を傾げるも「そんなわけで、夏休み前半まで食い込むかも」と説明する。月末の夏休みまでは土日に、夏休みになれば平日も足を運び練習することになるだろうと告げると「ふぅん」お母さんは向かいの椅子に座った。頬杖をついてわたしを見つめてくるので、首を傾げた。 「なに」 「いや、大変そうだなって」 「そりゃあね」 「練習のことじゃなくてさ」 「じゃあ、なに?」 「通学?通勤?どっちでもいいんだけど、神奈川まで通うわけでしょ。毎週。夏休みだと毎日か。電車乗り継いでさ。交通費でおこづかい飛んじゃうね」 「…………」 「交通費でおこづかい飛んじゃ」 「二度言わんでいい!」 そうだった。 平日に神奈川まで行き来するのは時間がかかって大変とか疲れるとかそういう以前に、まず金銭面で問題が出るんだった。思わず、お母さんを窺う。「おこづかいは増やさないよ」と微笑んだ。そうだ、この人はこういう人だ。黙り込んだわたしをニヤニヤとチェシャのような笑みを浮かべて見つめるお母さんは、ついでとばかり、わたしに強大な爆弾を投下する。 「コーチだかカントクだかは別に、好きにやればいいけどさ。私達、夏休みは旅行行っちゃうよ?」 「…………は!?」 「ヨーロッパ中の名所を回る海外ツアー、一ヶ月の旅」 「…………」 「あんた来ないんでしょ?だったらその間、どうにか生活してよね」 「…………」 「そういうこと自分達子供で決めちゃうのは自主性があってまことによろしいことだけど、決めるなら細部から最後まで抜かりなくきっちり決めてね。私達は口を挟まないからね」 「…………」 見事に爆発した。 ← → |