「やっほー!環っちやっほー!」 ────と。 妙にハイテンションの黄瀬くんが部室に駆け込んで来たのは、6月ももう終わりの30日、雨天により屋内活動を余儀なくされたストバス同好会であるわたし達三人がお菓子を広げ雑誌を並べ、ついでにDVDをそこらへんに散らかしてNBAプロモを観賞していた放課後のことだった。「……りょお!?」と先輩は瞬間花が咲いたように飛び上がって驚きと喜びを体現し、「ほはへほーひは」と田原はポッキーを詰め込み過ぎて言葉になっちゃいないがいたって冷静に黄瀬くんを見やり、そしてわたしは後ろを振り向かないまま「……うるさいよ」そう言ってリモコンの一時停止を押したのだった。 「相変わらずクールっスねー。そんなとこがいいんだけどっ!」 「気持ち悪いよ」 「いーや。涼はよく分かってるね」 「つか、確実にお前の影響だろ」 「つーかさ。お前がここ来んの初めてじゃね?」その点にだけは少し驚いたらしく、田原がポッキーの袋を差し出して言う。そう言えばそっスね、と黄瀬くんは受け取り一本を口にくわえる。そういえばそうだ、とわたしも今更ながらにそう思った。一応他校だし県跨ぐわけだし黄瀬くんは部活も仕事もあるしで、こんな真っ昼間から会うことは少ないしましてや直に誠凛まで来たことなんて、本当に4月の練習試合ぶりである。ていうか、今回は迷わなかったんだ。と感心したりしなかったり。 「黄瀬くん、部活は?」 「休みっス!ま、言ってもセンパイ達自主練してるんで同じっスけど。IH近いんで」 「あれ。じゃー涼なんでここに?」 練習はいいのか、と首を傾げるもっともな先輩に黄瀬くんは「ふっふっふ」得意げに笑って、わたしの方に寄ってくる。「…………」何か嫌な予感がしたのでそこから離れようと腰を浮かすと、けれどガッチリ肩を掴まれて叶わなかった。「逃げちゃ駄目っスよー?」やっぱり《あの件》のことでわざわざやって来たらしい。昨日電話で話したばかりだというのにご苦労なことだ。目は全然笑っていない黄瀬くんに降参のポーズで応じて、苦笑する。それに満足したのかにんまり笑顔になった黄瀬くんは次の瞬間にわたしの手を掴んで引き寄せてきた。 「環っち借りてきまーす!」 あれ、 なんかデジャヴュ。 「わーん!涼が水無ちゃん取ってったー!」オモチャを奪われた子供そっくりの反応だな、とかなんとか思いながら、文句を垂れる先輩を背中に、手を引かれるまま、わたしは黄瀬くんと部室を後にした。 「もう来たの?」 「うん」 「──早いね」 「こんなもんスよ」 「そっか」 「うん」 「──いつ?」 「準々」 「遅いね」 「そっスか?」 「うん」 「頑張ろーね」 「うん。頑張ろ」 徐々に大股になっていく歩み。 弾む息に、そっと目を伏せる。 駅まで走って、電車を乗り継いで、駅に着いたらまた走って、時間をかけてわたし達が辿り着いた先は海常高校だった。ここに来るのも久しぶりだな、と相変わらずの大きさに少し気圧されていると、「こっちっス」と引っ張られる。放課後、帰宅部の下校ラッシュの時間帯ではなかったものの、それでもちらほらと見える海常生がまじまじとこっちを見てくるのが少し心細くて──繋がれた大きな手を握り直す。振り返った黄瀬くんは安心させるように優しく、「大丈夫だから」と笑った。 「今年のIHには東京・秋田・京都にそれぞれ『キセキの世代』がいる。東京の桐皇・秋田の陽泉・京都は洛山だ。──こいつらはまず間違いなく、ベスト8争いには食い込んでくるだろう」 体育館へ向かうと、聞こえてきたのは笠松さんの声。ミーティング中か、と二人顔を見合わせて、話の内容が内容だけに遮ってしまうのもアレだと思い、扉の近くに揃って身を隠し、耳をそばだてるようにする。 「そのうちウチが最初にあたるのは準々決勝。相手は桐皇学園だ!」 京都と秋田の高校とあたるのはその次、準決、決勝だという。どちらにしても桐皇か海常は三連チャンで挑まなければならないということだ。 「桐皇にいる『キセキの世代』はエース、青峰大輝。……こいつは強ぇ」 ──いや、 『どちらにしても』とは違うか。 「これまでの試合は全てダブルスコア、その半分以上に青峰が絡んでる。前に試合した誠凛も、決勝リーグじゃコイツに手も足も出なかった」 握りしめる。 握り返された。 「だが当然負ける気はねぇ!優勝すんのはウチだ」 力強い声。 相当な器だ、と思った。 「で、さしあたっての対策だが──」と聞こえたところで、わたしは勢いよく引っ張られ、引っ張った本人である黄瀬くんの胸に飛び込むこととなる。「ちょーっと待ったっス!」胸板に鼻をぶつけた衝撃に悶絶するわたしに構わず肩を掴んで押しながら、黄瀬くんは体育館へ入って行く。わたしはされるがまま、再び彼の身体に顔をぶつけないようポカンとしてこっちを見ている笠松さん達へ近付くだけである。 「黄瀬!?」 「お前も練習に──」 「ってか環ちゃん?」 不思議そうにわたしと黄瀬くんを交互に見つめる、海常レギュラーの先輩方。あれ、この反応は何なのだろう。とわたしも黄瀬くんを見上げる。「対策ならもう考えてあるっスよ」彼は今日一番の笑顔で言い放つ。 「環っちに付き合ってもらうのが一番っスよ!」 付き合って。 その言葉に、わたしは目を見開いてア然とすることしか出来なかった。とても間抜けな顔をしているだろうことは予想できたけれど、でもどうリアクションしていいかわからないし、わたしの脳は何の答えも弾き出すことはせず、ただ黄瀬くんを見上げていたのだ。そんなわたしに気付いたのか、困ったように頭をかいて、黄瀬くんは苦笑した。そして補足説明と言わんばかりにポツリポツリ、言葉を続けるのだ。 『環っちは、本当にそれでいいんスか?』 『……いいっていうのは──』 『青峰っちのこと、目標でもあったはずっスよね?だから悔しがってる』 『…………』 『このまま「女の子」になって、本当にいいんスか?』 『…………』 『──最後に一回だけ、オレに付き合ってくんないスか』 前後に少し言葉が付け加えられて、どうやらそれが青峰くん繋がりのバスケ絡みな話題であることに気付き、わたしは『どういうこと?』と続きを促した。 『今年のIH、いつか桐皇とあたるっス。間違いなくウチが優勝する──けど、青峰っちが最難関になるのも確実なんス』 『うん』 『オレは中学で、青峰っちと数えきれないほど戦って……一回も勝てなかった』 『うん』 『どうしても勝ちたいんスよ』 『……うん』 『オレが、青峰っちのライバルになる。青峰っちを止める。だから環っちに協力してほしいんス』 ──ライバル。 それは──大輝くんが一番願っていたもの。喉から手が出るほど欲しくて欲しくて仕方がなくて──でもそんなものはないのだと気付いた。 だから今の投げやりで適当な大輝くんがいる。 ライバルが出来れば、自分と互角の、自分より強い人間が現れれば大輝くんは止まるだろうか。 昔の大輝くんに戻ってくれるのだろうか。 『……言っとくけど、わたしは別に、今の大輝くんが嫌いではないんだよ』 『じゃあ、好き?』 『それは、うん』 『昔の青峰っちと、どっちが好き?』 その質問には答えられなかった。 大輝くん本人が変わってしまったのもあるし、 当時のわたしの未熟さ盲目さを思い出すと、それだけで恥ずかしく、色々と申し訳ない気持ちになるからでもある。あの時のわたしは恋に恋する女の子──人の気持ちなんて何にも考えなかった、ただの盲目のガキだったからである。 けれど── あの頃の大輝くんは、今思い出すだけでもかっこよかった。記憶の中の『青峰くん』に、うっかり惚れ直しそうになるくらい、素敵な男の子だった。 それだけは間違いなく断言できるのだ。 『環っちには、青峰っちより──オレのこと、一回だけでいいから、信じてほしいんス』 『…………』 『環っちが必要なんスよ』 そして、 わたしが力を貸せば── 黄瀬くんは越えられるのだろうか。 『オレと一緒に、青峰っちに勝とう』 差し出された手は、 ほんの少しの希望と共に、冷えたわたしの手を温めてくれた。 『……泣くほど悔しかったんなら、無理して諦めることないんスよ』ポンポン、と頭を叩くリズムがひどく優しくて、しばらく顔を上げられなかった。 ← → |