ポリゴン | ナノ



  
もうこんなに遠い



『あの男の子、いつも待ってるよ』

小雀さんはいつもそれだけ告げ、わたしを見た。
わたしがその言葉に答えたことはないし、あのコートへ行ったこともない。
そんなわたしを、小雀さんがどんな風に思っていたのかは知らない。
もう、知りたいとも思えなかった。

『バスケ、やめるの?』

中学生最後の日、小雀さんは言った。
小雀さんは埼玉の高校へ進学するらしいと、相変わらず人気者の彼女のことは噂で聞いた。わたしは何となく家から近くて何となく学力に合って、何となくで誠凛に行くことを決めたけれど、彼女がどうして埼玉なのかは分からない。分かろうとはしないと決めていた。

『せっかく好きになったのにやめちゃうなんて、もったいないってあたしは思う』
『…………』
『続けんだよ!』

ただ黙って俯くだけのわたしに、小雀さんは言う。

『あたしも、やるから』
『…………』
『やめちゃダメだよ!』

ねえ――小雀さん。
わたし、あなたに一つだけ聞きたかった。
あの日、あなたは一体どんな思いであの子に殴られ、どんな思いであの子を殴ったの?
どんなことを思った?
何を感じた?
ズタズタになったあの子を見て、
わたしは怖かったよ。
ただ怖かったよ。


第3Qの初っ端から、やはり火神くんと青峰くんの勝負でいくことにしたらしい誠凛。黒子くんは温存のためだろう一旦ベンチで休んでいる。──大人しく温存させてくれるような相手なら良かったのだろうけれど。土田先輩と水戸部先輩のブロックをものともせずシュートを決め、リスタートからの速攻による火神くんのレーンアップを防いでから、青峰くんは可笑しそうに──笑う。

その笑顔は最初で最後、わたしが見た試合で青峰くんが浮かべていたそれと同種で。
──それよりももっと、邪悪で。
過去にわたしが見ていた、あの優しい笑顔ではない。
わたしの好きだった、あの無邪気な子供の笑顔はもうなかった。


ああ──遠いなあ。


あの日二人がどんな勝負でどんな結果になったのかは知らないけれど──実際、火神くんは想像以上ではあるのだろう。少なくとも、青峰くんに多少のやる気を出させる程度には。

笑って、笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って──

「──リズムが、変わる」

ここから先は、
もう誰も立ち入れない。

愉しそうに火神くんを翻弄し、
可笑しそうに先輩達を一笑し、
青峰くんは勝ち続ける。

「バックボードの裏からは……さすがに考えたこともないや」

本当に、読めない。
圧倒的なバスケをする人だ。
それだけは昔と同じ。
この人がすると――全部が違って見える。
いつだってそう、走っても走っても、どんなに上手くなっても相変わらず途方もない実力差を感じさせてくれる人だった。
あまりにあっさりと、その差を見せつけてくれるものだから、わたしは素直に憧れることが出来たのだろうけれど──今は、どうだ。ただ、遠いと感じるだけだった。
鼻の奥がツン、と痛い。
身体が、胸が熱くなってきた。

「──はは……」

漏れたのは笑い声。
掠れて、濡れた笑い声だった。

わたしは笑う。
かつては憧れ、なりふり構わず追いかけたその姿が遠くて、遠くて遠くてどうしようもなく遠い。手摺りにもたれ、腕に顔を少し埋める。青峰くんがボールを持つ。その度に少しずつ、確実に引き離されていく。

今すぐここから逃げたい。
──けれど足が動かない。
目をつぶってしまいたい。
──だけど目が離せない。

「────青峰くん」

少し足を止めた間に、背中なんて見えなくなっちゃった。前は、それでも時々振り返ってくれていると信じることが出来たのだけれど。

「────青峰くん」

辛い、わけではない。
切ない、とも違う。
けれど泣きたい。
泣きそうだよ。

──淋しい。
──淋しいよ。
──淋しいなあ。

「────青峰くんっ!!」

精一杯の声で叫んだ。
本当に、勝手だよね。
滲む視界の中で、青峰くんがこちらを見てくれたような気がするのは──思い上がりも甚だしいけど。
それでほんの少しだけ気持ちを軽くするぐらい──許してくれたらいいなぁ。

頭を優しく撫でてくれる手が、あの人のものであればいいのに。今も変わらずにそう思ってしまうのは、あの人が全然分かってくれなかった乙女心ということで、どうか許してほしい。


「諦めるのだけは絶対、嫌だ!」

クラスメートの声が聞こえた。
誠凛のベンチの声も。
日向先輩。
伊月先輩。
水戸部先輩。
土屋先輩。
そして黒子くん。

誰一人諦めることなく試合は最後まで、全力で行われた。けど負けた。

「環っち……大丈夫スか?」
「…………頭がボーッとする」

あれほどいた観客も試合が終わると続々と席を立ち、人の姿も消えてきた。挨拶も終わったため選手も控室で、緑間くんは先程会場を後にしている。隠していた顔をゆっくりと上げると、泣き止むまでずっと頭を撫でてくれていた黄瀬くんがこちらを覗き込んでいた。

「水、飲む?」
「……飲む」
「目、赤くなってる」
「……ほっといて」

瞼をやんわりと触ってくる指に目を閉じると、ジワジワと疲れ目が響いてくる。ちょっと眠いな、と思いながら、くすぐったいのに払えないのは──こうして傍にいてくれることでわたしが救われているからだ。うひひ、と明るく笑いながら涙で乾いた頬を撫ぜ始める黄瀬くんに「ありがとう」と言うと、やっぱり彼は笑った。

「……なんで笑うかな」
「環っちのカオが面白いからっスよ」
「……あい、へいと、ゆー」
「アハハ。久々に聞いたソレ!」
「……井原先輩とか、どこ居たんだろ」
「ああ、秀徳のメンバーと一緒に観てたみたいっスよ。メール来たんで」
「……秀……って緑間くんの?」
「緑間っちは別で来たみたいで、秀徳の場所教えたら会わないよーにってココで観てたってワケ」
「……ふーん……」
「緑間っち、制服にサングラスでビックリ箱装備スよ。笑った笑った」
「……彼は占いを信じる度に何か大切なものを失っている気がするのは気のせいかな」

黄瀬くんとは出会ってから今まで、数えきれないくらいの話をした。それはバスケの話だったり学校の話だったり音楽の話だったり友達の話だったり、色々な話をした。黄瀬くんは笑って泣いて、時に怒って拗ねて、でも最後にはまた笑った。わたしはいつも、笑わなかった。楽しいと思っても、嬉しいと感じても、笑わなかった。泣きたいと思っても泣くことはなかったし、だからいつも、同じカオしか見せていなかった。わたしは多分、彼にものすごく失礼なことをしてきたのだろうと思う。

「……ごめんね」
「ん?」
「ありがとう」
「……うん」

初めて、本当に、心の底から、向かい合えたような気がした。

「──やっぱ、思った通りっスね」
「何が?」
「笑顔が、可愛い」
「────……」
「オレ、嬉しいっスよ。環っちのこと、初めてちゃんと見えたような気がして」

濡れた目じりを優しく撫でる手は温かい。
少しずつクリアになってく視界と、黄瀬くんのカオ。嗚咽が収まって何だかこそばゆくなって、撫で続ける手から少しだけ離れた。

「何でよけるの!」
「やめてよ恥ずかしい」
「えー。楽しいのに」
「楽しいってなにが」
「……。ねー環っち」
「なに」
「青峰っちに、会いに行こ」
「…………」

返事出来なかった。
そんなわたしに黄瀬くんは笑って「往生際悪いっスよ」と言う。
そんなことは、もちろん分かっているつもりなのだけれど。

「なんだったらオレもついてくし」
「なんで黄瀬くんがついてくるの?」
「…………」
「だからなに」
「環っちは本当に少し、男心を勉強してほしいっスよね」
「ごめん。意味が分からない」

――とは言うものの、まあ。
なんだかんだでもう見ちゃったし。
「んー……」唸りながら、近くの空いている席に座る。そして数十秒ほど、考え込むように手を組むポーズをしてたっぷり間を置いた後、口を開く。

「まあ、夏休みになったら」
「遅っっ!!何そのチョイス!」
「少なくとも期末テストを超えてからでないと……悲惨なことになりかねない」
「えー。勉強なんかどーだっていーじゃんスかぁ」
「この前の実テなんかもう……ヒドかった……数学」
「……あ、そう」

初めて黄瀬くんにどうでもいいような目で見られた。いや、これはそういう軽い話ではないと説明する。緑間くんの電話で青峰くんの名前を聞いただけでああなんだから、会って話なんかして最悪の展開になったらどう責任をとってくれるのだ。「えー」と微妙そうなカオをする黄瀬くんに説いていた時だった。

足音が一人分、近づいてくる。

時計を見るともう七時になろうとしていて「ゲ」と声が漏れる。黄瀬くんと顔を見合わせ、閉館にならないうちに出よう、というか館員の人に怒られないうちに。と立ち上がった瞬間だった。

「────環」

だから。
期末テストが。
と、考えたのは間違いなく現実逃避だった。




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