ポリゴン | ナノ



  
子どもの世界



普通の家庭に生まれた。
普通の人間に生まれ、平凡な人間に育った。両親は健在で、わたし達三人家族は経済的にも特にこれといって不自由を覚えることなく慎ましい日々を送っていた。一人娘であるわたしはごく普通に大事にされ、ごく普通に愛情を注がれ、普通に生活していた。好きなものは読書と音楽。誕生日に買ってもらったヘッドホンは学校じゃあ没収されてしまうので、行き帰りにだけ装着し、回り道をしながらゆっくりゆっくり歩く時間が好きだった。大好きな音楽を聴きながら探検して、自分の知る世界を少しずつ広がっていくのを感じると嬉しかった。あまり社交的ではなく、友達はそんなにいなかったけれど全くいないというわけではなかった。そんなわたしも、少し積極的になれているような気がして、鼻歌なんか歌ったりして。

そんなある日、いつものように気の向くがまま歩いていたら偶然バスケットコートを見つけた。当時のわたしはヘッドホンつけて本ばかり読んでいたからスポーツなんて体育でしかしたことなくて、バスケに対しても興味なんてなかったから、そのまま通り過ぎようとした。通り過ぎれば良かったのだと思う。でも、そこにはあの人がいたから。

『…………すご』

力強く、それでいてしなやかな跳躍。派手な音を立ててボールを叩き込んだその人は三人の高校生を相手に戦っていた。リバウンドで相手が点を取り返そうと狙うもあっという間にボールをスられ、敵をかわしリング下へ潜り込みシュートを打つ。当然のように、入った。視線はそのままに指の感覚を頼りにヘッドホンの電源を切った。耳から外し、立ち止まっていた足は必然的にコートへ近付いていく。フェンスに指をかけ、顔を近付けると、もっとよく見えた。

褐色の肌にブルーの髪。
タンクトップから伸びる腕は筋肉質で、わたしから見ても綺麗なラインを描いていた。
その身体が、風を切る。
走り、跳んで、投げて、駆ける。
見たことがないわけではない動作一つ一つが、やけに輝いて見えた。

一瞬でオちた。

『すごいっ!』
『……何、オマエ』
『すごいっ!今の、ダンクって言うんだよねっ!お兄ちゃん、すごいっ!』
『…………』
『バスケ、上手なんだねっ!』

男の子は青峰大輝と言った。

肌の色黒なのは生まれつきだった。年はわたしと同じで、バスケが強い中学のバスケ部にいるらしい。小さい頃からずっとバスケが大好きで、部活以外にもこういったフリーのコートで練習したり勝負しているのだとか。最初にしていたのは片手で、最後のは両手のダンクなのだとか。こうして女の方から男に声をかけることは、逆ナンと言うのだとか。怒っても笑いながら謝ってくるのだとか。わたしがシュートのまね事をするとコツを教えてくれたけど感覚的すぎて理解するのにしばらくかかって、けど段々うまくなって、10発中10発とも入るようになった時は手を取り合って一緒にはしゃいで喜んで、我に返ってお互い少し照れたりなんかして。彼はわたしに色々なことを教えてくれた。バスケの魅力もうまくなることへの喜びも身体を動かすことの快感も、それ以外にも、多くのことを教えてくれた。

『おー環。見とれんのはいーケド、そんなんじゃ一回も抜けねーぜ』
『なっ、み、見とれてないしっ。ていうか元気すぎ!部活の後なんでしょっ』
『照れんなよ。逆ナンしてきた時たぁエライ違いだな』
『逆ナン違う!っていうか友達に言ったら、あれってナンパじゃないって教えてくれたんだけど!』
『っていうか、スキありすぎ』
『あ』
『はいオレの勝ち〜』
『…………むぅ』

それは多分、初恋。
初めてだった。
初めてだったから、淡かった。

『スネんなって』
『ふんだ。青峰くんなんて、もー知らないんだから』
『だぁから、なんで苗字なんだよ。前は大輝っつってたじゃねーか』
『……それはー……』
『それは?』
『……なんかニヤニヤしてるのが気持ち悪いから言わないっ』
『だーれが気持ち悪いって?』
『あ・お・み・ね・く・ん・が!』
『テメ!』
『あははっ』

淡い淡い恋だった。
だから、すぐ消えた。
ほんの些細なきっかけで、
無くなってしまった。
雪が溶けるように、
名残だけを掌に残して。

『……そんなに仲よかったんなら、なんで?』
『…………』
『環っち』
『さっきも言ったでしょ。わたしが悪いの』
『…………』
『怖がった』

少しずつ変わっていく人達が、
少しずつ変化していく関係が、
わたしは怖かった。

わたしはまだ子供で、
あの関係がただ楽しかった。
だから怖かった。
大人になることへの準備が、まだ出来ていなかったのだ。
そしてそれは、
今でも。

『今も、怖い』




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