朝。起きてリビングへ顔を出すと「おはよう」と柔らかい声がかかる。エプロン姿で手にはフライパンを持つお母さんはいつものように朝から忙しそうなのだけれど、今日はやはりそれも一塩である。「待ってね。今からホットケーキ焼いてあげるから」とキッチン内をあっちへ行って作業をし、こっちへ回って作業をし、とにかくパタパタとせわしないお母さんにわたしは椅子に座ると軽く息を吐いた。 「何溜め息吐いてるの。朝から辛気臭い顔しちゃって」 「辛気臭くて悪かったね。わたしはいつもこんなカオだけどね」 「溜め息吐いたら幸せが逃げるんだって。ついでに運も逃げるよ」 「逃げればいいさ」 「そりゃああんたはいいんだろうけど。体育祭に縁起でもないよ」 「…………はぁ」 今度はわざとらしく息を吐いた。晴天良好なり、本日は体育祭である。通常こういった行事はとことん裏方に徹し、どちらかというと本番よりも当日までの仕込みの方に力を入れるのを良しとするわたしにとって、例え応援団に属する牧江ちゃんがファイヤーめらめらしていたとしても、お父さんが休みをとりお母さんがお弁当を用意していたとしても、黄瀬くんから頑張れメールが来ていたとしても、井原先輩が頑張ろうコールをかけてきたところで、さしてやる気に影響は出ない。というか、ことごとく面倒臭くて仕方がなく、出来ることなら欠席したいのは山々なのだけれど、残念ながらこの2週間近く徒競走とリレーの練習を延々と繰り返されたわたしは自分がどうやら欠けることの許されないポジションにいることに気付いてしまったため、サボることも怖くてサボれない羽目になってしまった次第である。だから嫌なのだ。わたしにそんな役を振らないで欲しいのに。 「おまたせ」 「……お母さん。これは何?」 「ホットケーキだけど」 「何枚あるの!これ!」 「八枚だけど?」 「何でわたしが首を傾げらんなきゃならないの?わたし?わたしがおかしいの?八枚って枚数を異常だと思うわたしの頭がおかしいの?」 「どうでもいいからさ。さっさと食べちゃってよ」 投げやり気味に言葉を発するお母さんにこれ以上物申したところで仕方がない。恐らくわたしは大人しくフォークを握り、頬張り、そして残りが四枚になったところで席を立ちお父さんを起こしに行くことになるだろう。諦めて、やっぱり溜め息を吐いてしまった。 「赤団のー!勝利を願ってー!」 「フレー!フレー!あーかーだーん!」 「フレッフレッ赤団!」 「フレッフレッ赤団!」 「いっけー行け行け行け行け青団!」 「いっけー行け行け行け行け青団!」 「おっせー押せ押せ押せ押せ青団!」 「おっせー押せ押せ押せ押せ青団!」 気合い、入ってるなあ。と、牧江ちゃんの背中を見上げて、思う。グラウンドは只今三年生の短距離を行っており、入場門の近くには二年生がスタンバイしているというので、台の上に立ち、一年生だけでもノリノリで応援している牧江ちゃん達応援団のミナサマ。その後ろのテントで、わたしは体育座りでボーッとしているわけである。他の応援団だってもちろん団特有の応援文句をスピーカーなりメガホンなり肉声なりで叫んでいるわけで、当然グラウンド内はそれはもう騒がしく騒々しい。言葉を重ねる程に、やかましかった。井原先輩に「オレの勇姿見てね!応援してね!そして惚れてね!」と念を押されたけれど、わたしの重い腰はどうやら上がりそうにない。三年生の競技の結果と得点がアナウンスされ、退場門へ行進し終えたらしく続いて二年生入場の旨が告げられる。先輩が一体何番目に走るのか。青団が今一体何点獲得しているのか。特に興味がなかった。 「水無さん」 と、呼ばれたような気がした。周囲の音声が大きいため、空耳かもしれないとも思ったけれど、振り向いたら黒子くんが存外近い位置に座っていたので気のせいでは無かったらしい。 「黒子くん」 「どうも」 「学校来てたんだ」 「…………。二年生、走りますよ?前行きましょう」 「あー……そうだねぇ……」 「ボクも体育祭はあまり好きじゃありませんが、先輩の応援はしたいです」 手を引かれて、ついそのまま立ち上げられてしまった。前のロープギリギリまで迫り応援するクラスメート達を避けて、何とか空いているスペースに黒子と二人並ぶと、そこからは列に並ぶ先輩が見えた。これはリレーではなく、単発の100mなので手際よく次から次へとスタートゴールを繰り返しており、見ていく中には田原と水戸部先輩の勝負や、相田先輩が何気に一位でゴールしている姿もあった。井原先輩の番が来てスタートレーンへ並ぶと、別レーンには小金井先輩と日向先輩もいた。 「井原先輩、燃えてますね」 「日向先輩も負けず嫌いだよね。小金井先輩かわいそう、勝機ないよ」 「井原先輩って足速いんですね」 「ああ……うん」 「何ですか?」 「『一位でゴールしたオレ、超カッコイイ!』とか思ってそうだなと」 「……なるほど」 などと会話を交わしているうちに、「こらーっ!そこ二人!次一年やねんで!並ばな!」牧江ちゃんに急かされ、走っている間に黒子くんが「あ。土屋先輩が見れてない……」と思い出したように呟いたり、田原と目が合い一位の旗を見せびらかされてイラッとしたり、先輩が笑顔でピースを向けてきたので意味もなく無視したり、そんなこんなで、こんな感じ。これから始まる全力疾走を想像して現実逃避気味になるわたしの体育祭の懐古録であった。 「……え、終わり!?」 「しゃべるの、疲れた」 「もう!?早っ!!ってかまだ環っち走ってない……!」 「…………」 「しゃべってーっ!!」 「一位とったよ。出たやつは。あとクラブ対抗はバスケ部に勝って陸上部に負けた」 「結果だけ!?ってゆーかクラブ対抗ってオレ的に一番興味あった競技……!」 「力尽きた。ねえ、もう帰っていい?」 「環っちー!」 ところで、どうして黄瀬くんがいるのだろう。こんなことを聞いたところでこのアホの子は「井原っちにたまり場を聞いたからっスよ!」とか笑顔で返すに決まっているので言わないけれど。というか、せっかく来たのならばわたしの話し相手よりもコートで汗を流す先輩と田原に混ざればいいのに。と言えば、頬を膨らませた。 「環っちが休憩終わるならオレも入る!ほら、ちょうど二・二だし」 「あれだけ走り尽くしたのにまだ暴れられる神経が理解出来ない……」 「環っちスタミナないスもんねー」 「…………」 「あ、スネた?」 「おやすみなさい」 「ゴメンて!」 「黄瀬くんも早く寝た方がいいよ。インハイ行くような部での練習のあとこっちでもプレイするなんてハード過ぎる」 もう夜だし。と、視線をコートから上へ向ければ、視界いっぱいに星空が広がった。つられて黄瀬くんも見上げたらしい。スゲーっスねえ、と声が漏れた。海常だって今は予選トーナメントの真っ最中だろうに、わざわざこんなところまで来て星を見る余裕があるとは、さすが全国でも有数の強豪校だと感じざるを得ない。 「海常は今、えっと」 「ウチはこないだ5回戦やって……来週で準決、次の日が決勝スよ」 「スイスイ進んでそうだね」 「ま。今年もIHはウチが出るっスから」 「ふぅん」 やっぱり余裕あるなあ。と相槌を打つ。コートで弾むボールの音をBGMに、こうやってまったりした時間が過ごせるのは……何というか、贅沢だ。すっかり日が落ちた夜でも、月や星の明かりと電灯で照らされた中、バスケが出来ることの幸せと言ったらない。──そんなことを言っていた人がいた。室内での練習に息苦しくなった時、こうして外に出ると、解放されたような気分になると、切なそうに笑った子もいた。その子は今とても幸せそうに笑っているのだろうけれど、わたしがそれを見ることはない。 「あ!ねぇ環っち!夏休みとか応援に来てよ!井原っちと田原っちも一緒にさ!」 「嫌だよ」 「この切れ味の良さが環っちの持ち味、この即答が環っちの特色、この一刀両断が環っちのアイデンティティ──」 「何ぶつぶつ言ってんの」 「自分に言い聞かせてんスよ。これが環っちのコミュニケーションの取り方なんだって!」 「まるで人がおかしいみたいに言うね。……誘うならあの二人に言ってよ。わたしは観に行かないから」 「ぶー。冷たいっスよぉ。たまには環っちからこう、好意?を行動にして現してほしいっス」 「仕方ないじゃん。大会とかそういうの、あんまり行きたくないんだよ」 「何でっスか?」 「強い人が集まるところだからね。インハイはその集大成でしょ」 「大会って、そーいうもんスよ」 「うん。だから、嫌いなの」 「んー?」 黄瀬くんは首を傾げた。理解出来ない、というより言っている意味が不明だというように。それで良いと思った。 「誠凛は次の相手って」 「知らない」 「っスよねー……。井原っちに聞いたスよ、正邦だって」 「あの人らはバスケ部に精通しているからね」 「オレ一人知ってんスよね。津川って奴、中学の時戦ったことあるんス」 「へぇ。黄瀬くんの記憶に残る程、強いかキャラが濃いかなんだ」 「なんスかそれ……ってか勝手に人を記憶力悪いキャラにしないでよ!」 けれど── 黄瀬くんや先輩や牧江ちゃんや、オマケに田原なんかを見ていて、たまに感じることがある。 ──友達とか知り合いとか仲間とか人付き合いとか、確かに面倒臭いけれど。 「え?記憶力、悪いでしょ?」 「普通に尋ねられた!!」 「え?悪くないの?」 「…………悪いっス」 「ほらほら」 「…………」 ──こうして適当に軽く言葉を交わして、気が向けば一緒にバスケをする。そういう付き合い方もアリなのかもしれない。沈黙して泣く黄瀬くんを見て、そう思う。黄瀬くんはオーバーリアクションでよく泣くけれど、きっとその涙に味はない。 「誠凛の準決と決勝、オレ先輩と観に行くんスよ。黒子っちと、あと緑間っちいるし!」 「暇だね」 「偵察スよ、偵察。で、環っち達も来るでしょ?」 「行かなければならない」 「固っ!え、そんなにイヤ?」 「今回はわたし達もすかうてぃんぐに協力しててね、先輩はわたしを引きずって行く気満々だよ」 軽くて、 薄くて、 ふわふわしていて、 本当にたまに触れ合う程度。 それならばきっと── 誰も傷付かない。 楽しくて、楽で。 気楽な人間関係。 きっと、 みんな笑顔でいられる筈だ。 「当日落ち合おーよ」 「それは先輩に言って」 「一緒に観よーね!」 「それも先輩に言って」 みんなが笑えるならそれでいい。 わたしは、少し疲れた。 ← → |