「──知らなかった?あいつら付き合ってんの」
──加具山先輩とグラウンドで別れた後、部活や自主トレ疲れ以外のそれがどっと押し寄せてきて、身体が鉛のように重くなる。確かに家に向けて動かしているはずの足がふらついて、いつもならもうとっくに帰宅出来ている位の時間が経ったような気がして辺りを見渡すと、まだ半分くらいしか進めていなかったことにも気付いて、本当の本当の本当の本当に、あの時加具山先輩が言っていた《恥ずかしい》が脳内でリピートされ、もうみんなどころか世界中がこんなオレを嘲笑っているような気さえしてマジで落ち込む。世界に顔向け出来ない気分。おっかしーなオレ今日いいことしたハズなのに。昼はそりゃあ大河先輩にスパイクなのに蹴られるしちょっと足ヒネるし痛ぇしむかつくしでも宮下先輩にかばってもらえたり保健室連れてってもらえたりで、夜は夜で加具山先輩の復活に一役以上は買ったような気もする。いいことした。いいことされた。いいことイッパイ。いい一日。なのにいい一日の最後のシメがコレですか。失恋ですか。前から付き合ってたんですか。言って下さいよ。そんなん、好きになっちゃうじゃないですか。しかもそれを加具山先輩に知られてしまったという。ダサい。ダサすぎる。格好つかねえ。とりあえず明日秋丸に会うのが嫌で嫌で仕方ない。今日も昼からかわれたばっかだし、告白もしてねえ内から勝手に玉砕したって知られればもう。哀れまれるのも、イヤだった。あーあ、なんだよもう、なんなんだよもう。このオレが失恋かよ。───自覚すると切なくなるもので、じんわりと視界を浸蝕していく熱いものをなんとか堪えて、棒きれみたいな足を無理矢理動かして、なんとか無事に家に着くことに成功した。「あらおかえり。自主練してたにしても遅かったじゃない。何かあったの?」玄関のドアを開いて中に入った第一声でおふくろが玉じゃくし持ったままエプロンでリビングから半身出してきて、イキナリ今日のヤなこと思い出させるようなことを聞いてきたからちょっとイラッときて「なんでもねえよ!」と大声を出したら後ろから何か言われたけど無視して部屋に向かう。あああ、もう。今すぐ叫びたい。誰かに怒鳴り散らしたい気分。とてつもなく。右肩にかけたスポーツバッグもすっかり重くて、とにかくオレは、早く寝たい。寝て悪夢を忘れたい。「元希!もーときったら!」メシの準備に戻ったのかと思いきや、おふくろは部屋のドアノブを握って捻ろうとしたオレを呼び止めるのでまたイラッとしてつい大声が出そうになったところでさすが母親、察したのか一言だけ告げてそのまま向きを変えていった。玉じゃくしは持ったままだった。
「斑ちゃん来てるわよ!」
部屋に入ると案の定、おふくろから「斑ちゃん」と呼ばれるそいつはいた。今日は一旦家に帰ってからウチに来たんだろう、中学の制服ではなく涼しそうな白いワンピースを着ていて、素足で座っている。床にカゴのバッグが置いてあって、教材が覗く。オレのベッドの側面に頭を預けて目を閉じているそいつは、間違いなく今日オレが呼んだ相手なんだけど、今は部屋にこいつがいることにイライラしている状態だ。白のワンピースを着て当然のように部屋にいるのが宮下先輩でなくこいつだという事実にも、勝手に上がりこんで待ってたくせに寝てるこいつにも、年下に勉強を教わってるという今まで対して気にも止めなかったことにまでイライラしてきて、とりあえず肩のスポーツバッグを床に置いて、オレのベッドに頭を置くそいつに近付き、とにかく何かものにやつあたりしたかったオレはそいつの脇腹を真横から蹴り飛ばしたのだった。対して勢いなんてつけなかったのに────そいつの身体は勢い宙を低く浮き、大して広くもないオレの部屋、壁にぶち当たってズルズルと壁伝いに床へと崩れた。寝ていたからか、床に伏してしばらくするまでは悲鳴も漏らさず自分からは身動き一つしなかったそいつは、全てが起こってたっぷり30秒。経ってから、「う───」と肩を揺らした。唸ってからもぞもぞと動き、顔も上げる。どうやら起きるらしい。「…………んん、」長めの茶髪の間から、大きな目がキョロキョロと辺りをさ迷って、ようやくオレがいることに気付いたらしいそいつは首をこっちに固定して、言う。
「は──榛名先輩、お疲れさまです」 「何で寝てんだよお前」 「おばさまに言われてここで待ってる間に、寝ちゃったみたいです……」 「るせえ。お前オレのベッドにもたれて寝てたんだぞ」 「……ご、ごめんなさい……」
不機嫌の意思を表示するために舌打ちしてみても、そいつは肩を震わせてもう一回「すみません………」と申し訳なさそうな顔で見上げてくるだけだ。その申し訳なさそうな顔が、いつにも増してイライラする。イライラをイライラとしか表現出来ない自分ももどかしくて、やっぱりそいつにそのイライラをぶつけてしまうのだ。オレは床に置いてあったそいつの鞄のヒモを掴んで、そいつに投げつける。
「──ひゃ」 「それ持って、今日は帰れよ」 「……え──でも、授業」 「今日はそんな気分じゃねえ」 「──だけど」 「……帰れ」 「───はる、」
「帰れ!!!」
──怒鳴る。
苛烈。 憤怒。 激情。 激怒。
その後にくる── ──ほんの少しの罪悪感。
何が悪い。 こいつが悪い。 オレは悪くない。 帰れって言ってんのに。 帰らないこいつが悪い。 うめき声。 オレは悪くない。 こんなの、 いつものことじゃないか。 学ばないこいつが悪い。 しつこいこいつが悪いんだ。 痛そうな表情。 オレは悪くない。 オレは悪くない。 こいつが悪い。 こいつが全部悪い。 オレは悪くなんてない。
「────あー、もー………!」
イライラする。イライラする。なんだこれ、さっきまではこんなにイラつかなかったのに。家に帰るまではただショックで、一人でいる時は悲しかっただけで、情けなかっただけで、格好悪かっただけなのに。わけわかんねえ。何だよこれ。自分でも意味不明なんだよ。でもイライラするんだよ。怒鳴りたくて仕方がない。叫びたくて仕方がない。喚きたくて仕方がなかった。故障した時とは違う、どうすることも出来ない悔しさ。他人を殴ればよかったあの時とは違う。監督のせいにすればよかったあの時とは違う。チームメイトにあたった時とも違うし、必死にリハビリすれば治った怪我とも違った。
「────……」
視界が霞む。 情けなくて。 悔しくて。 悲しくて。 寂しくて。 口惜しくて。 それ以外の何かも漏れ出してきそうだった。
慌てて腕で目のラインを隠すと、オロオロしたような声でそいつが「先輩、」と呼ぶ。うるさい。呼ぶな。今呼ぶな。今何かを言われると、それだけで泣かされてしまいそうなんだ。何故かは、わからなかった。たかだか失恋ごときで泣き出しそうな自分がわからなかった。故障した時だって、こんな変な気持ちにはならなかったのに。
「せんぱ──」 「うるせえ!!黙れ!」 「──―─先輩、」 「黙れ」 「……………」 「黙れ………」 「────」 「───―黙れ、」
静かになったそいつに尚も黙れと言い続ける自分が、おかしくて仕方がない。黙ってんじゃん。そいつ、言われた通りにしてんじゃん。黙れって言われたから、黙ってんじゃん。 喉が震えて、それすらも出なくなった時、痺れた腕を顔から離すと、黙り続けているそいつと目が合った。 困ったような表情。 呆れたような表情。 そりゃ───困るよな。 そりゃあ、呆れるよな。 こいつはただ勉強教えに来ただけなのに、蹴られて怒鳴られて鞄投げつけられて、こんなの完全なやつあたりじゃねえか。普段年上だなんだって偉そうに命令したり殴ったりしてる癖に、なんだこんなもんかよ。そう思ってんだろ?心の中じゃお前もオレを笑ってるんだろ?笑えばいいんだ。笑えばいいのに。こんな、自分の感情さえよくわかんねえ人間を、思いきり笑えばいいのに。
「………………虚しい」
なのにそいつは、オレの目をみて、そう呟いただけだった。そいつはいつも、怯えていて。泣きそうな顔をして。どもるし。声小さいし。泣くし。今だってそうだ。オレの目を見て、今にも泣き出しそうな顔をしてる。
「─────失意、失格、失脚、失業、失禁、失敬、失言、失語、失効、失策、失職、失神、失政、失跡、失踪、失速、失態、失地、失調、失墜、失点、失当、失念、失敗、失費、失望、失明、失礼、失恋」 「……………………は?」
何言ってんだこいつ。
「凡て何かを、失うということです」 「……………」 「何かを失うというのは、自分の一部を失うということで。失った後は、まるで心臓に穴が空いたみたいに、スカスカの空気しか通らない。悲しいよりも寂しさで、ひとしきり泣いた後には、いつだって虚しさだけが残ってしまう。だって、それがなくなってしまったら、それが大切だった、今までの自分を否定されたような気分になってしまうから。それを一部としていた今までの自分は、全部無駄だったんじゃないかって。何がどうしても、そう思えてしまうから。だから悔しくて、消えてしまうのが嫌で、苛々したり、何でもないことにも、無性に腹が立ってしまったり」 「……………」 「でも、それでもわたしは生き続ける。何もしなくても何も見なくても何も聞こえなくても何も持たなくても、意識して呼吸さえしなくても、胸の穴から空気が通るように、わたしの感情に関係なく、何もすることさえしなければ、ずっと生き続ける。ダラダラと───ズルズルと」
ぽつぽつと───ぶつぶつと。 呪文でも唱えるかのように吐き出される言葉。常に何かに脅えたような目は、やっぱり今も変わらない。けどそいつは、言うことをやめない。言うことを、きかない。思う通りにならない。───どうにもならない。
「でも、もしかするとそんな自分───あの時あれが一部だった、確かに自分の大切だったあれを大事そうに抱えていた、あの頃の自分を、認めることが出来ていたら。そう思ったわたしは、そこで初めて、後悔していることに気付くんです。起こった後で悔やむから、後悔。後悔したままのわたしは、弱いです。何もしなかったくせに後悔してばかりのわたしは、弱いんです。自分自身を認めることが出来ていたら───なんて。………けれど、それが出来る人間こそ強い人なのだと、わたしはそう思います。だってその人はきっと、自分の気持ちに正直な人だと思うから」 「……………」 「それはきっと、誰も否定したくなんてなかったんだと思うから。───心が、叫ぶんです。『ここにあったよ!』って。自分が大切にしていたものは、確かにここにあったんだよ───って。否定しないで───って。そんな声が、聞こえるんです」 「────声が──」
声が、聞こえる。 何処かから───誰かから。
立ちすくんだまま、ただ喋り続けるそいつの話を何故か聞くしかないオレは────少し前、そいつを傷付けた時、そんな声が聞こえていた。
「昔何かを失った時、衝動に駆られたことがありました。そうするしかないんだって言い訳して。けど、その後のわたしには、何も残らなかった」 「……………」 「随分ヤケになりましたけど、そのうち、いつかこう考えるようになりたいって。そう思えるようになりました」
「失ったものは、そこにあったって証。わたしにも、大切にしてた気持ちはあった。叶わなかったけど、それで良いじゃないか───って」
そう言って、そいつは初めて、オレを見て笑った。オレはただ、笑うそいつを見ている。笑顔─────と、言えるようなものじゃない。顔面で鞄を受けたから額は赤くなってるし、泣きそうな顔を、無理矢理微笑んでいるだけだ。けど、辛そうじゃない。眉を下げて、やっぱり困ったような顔をして泣き笑ってるけど、その笑顔を見て────抱擁してしまったのは、ただ怒りだの何だのに任せて走った《逃げ》じゃあなかった。中途半端に起き上がった体勢のまま笑うそいつをこっちに引っ張ると、軽すぎる身体は片腕の力でも勢いよく胸の中へと飛び込んできた。「へ?」と、間抜けな声を上げたそいつの背中に、両腕を回す。ぎゅう、と、力を込めた。
「は、え あの………」 「黙れ」 「はい…………」
そこで黙るのかよ。 内心突っ込むと、少し笑えた。 自分のとは違う、小さくてふわふわした頭を肩の上に押し付けて、ゆっくりと靄のかかったようになる視界を、今度は拒まなかった。
「────っ……」
多分───初恋だった。 前しか見ない恋だった。 話が出来たら嬉しくて、 笑ってくれたら幸せで、 庇ってもらえて期待して、 終始浮かれっぱなしの恋だった。
泣いてるのは伝わってると思う。けど、声が漏れるのだけは酷くカッコ悪いような気がして、どうしても堪えるしかなかった。腕の中で大人しくしているそいつは多分、自分が今何を言ったのか、その半分もわかってないと思う。それがどれだけオレを励ますものだったかなんて、多分わかってなかったと思う。思いきり首を下げて、これ以上変な声が漏れないようにとそいつの肩口のあたりに捩り込むと、何故か呼吸が楽になった。
「ここにあったよー、って………」
口ずさむように囁く声は、泣きたくなるほど優しかった。またしてもこいつ、黙らなかったな。ぼやけた視界。震える身体。上がる口端。それらを自覚しながら、そんなことを思って、泣きながら笑う。それは多分、こいつにしてみればだけど、自分に正直になるってことなんだろう。
そしてそれは。 多分、いい事なんだろう。
「………先輩……」 「……………」 「……重いです…」 「我慢───しろっ」 「は、はい………」 「……………っふ、」
我慢するのかよ。 我慢してくれるのかよ。
明らかな身長差と体重差があるにも関わらず、ぐぐ、と下に自重を全部任せて、抱きしめてるって言っても半分以上はもたれきっている体勢だ。我慢するといっても一体、こいつのちんまい身体と体重でどれくらいこの体勢を保つことが出来るというのだろう。マジ泣きする中で余裕ができた分、悪戯心が湧いてきた。
「……………」 「………う」 「……………」 「………うう」 「……………」
………………お。 我慢してる我慢してる。
「………ううう」 「……………」 「………うううう」 「……………」 「………ううううう」 「…………っ」
こみ上がる笑いを慌てて抑える。 笑い声は治まるが、結果として震えてしまってバレるかと思って焦っていると、しばらくして下からの唸りが止む。そーっと、恐る恐る下を見ると、オレの背中に腕を回して必死に耐えていた。…………どうやら、肩の震えをオレがまだ泣いてるもんだと思っているらしい。────やっべ、ホンキ吹き出しそうなんだけど。
「……………」 「……………」
笑うな、オレ。 息を殺せ。 震えんな。 無になれ。 無我の境地に入るんだ。
「……………ううう」 「…………ぶっ!」 「……あっ、先輩!」
あ、バレた。 と同時に、今まで必死に堪えていた笑いに利子がついて「ぶはははははっ!」って大笑いしてしまう。また唸んのかよ!下で本当に必死にこの重さに耐えていたそいつは腕の中でもがいて、肩と顔で固定していたそいつの頭は抜け出してオレと正面から見つめ合う形になった。つまり、大笑いしてるオレを真正面から確認したというわけで、視線が絡まったことに更にこみ上げてきた笑いはもう隠せず、「ぶは」と声が出る。
「ぶ───ははっ!ははははっ!」 「え、えー…………」 「っく──くくく───」 「な、なにっ?なんでっ?」 「ぶぁははははははっ!」
もう、いーや。 どーでもいい。 笑える。 なんかこいつ、笑える。 腹を抱えて笑うオレに、 「ええっ!?」 と声を上げるそいつ。 さっきとは違う意味で涙が出てきた。
「え、えええ………そんなぁ……………筋肉痛覚悟だったのに………」 「ぶっ!」 「うー……か、かなめちゃーん……」 「っはは!なんだそれ!」 「し、親友ですけどっ!」 「聞いてねえし!」 「うううー…………」 「っ………………っ!」
「わ、笑いすぎ………」今度こそ呆れたようにして、そいつは言った。どうやら本当にオレがただおかしくて笑っているだけだとわかったらしく、ちょっと拗ねたような表情をしていた。そんな顔も今まで見たことがなくて、なんだか笑える。───なんだこいつ、こんな顔も出来んじゃん。唇を尖らせて、頬を赤くさせている。───どうやら、常に怯えた顔をさせていたのは、明らかにオレの責任らしかった。そーいやそーだよなぁ、オレ、今までこいつの前でこんな笑ったこと、なかったもんな。
「ぶくくっ───あー、ウケる」 「笑いすぎですよう!」 「あ?お前何て口の聞き方してんの」 「え?あ──す、すみませ………」 「冗談だよ、バーカ」 「ば、ばか………」
「そっちの顔のが、全然いい」今まで怖がってたヤツからこんなこと言われて、目ぇ丸くして驚いてるこいつは一体どう感じてるのだろうか。
「先輩の方がばかだから、わたし雇われてるんだと思いますよ」 「ははっ、違いねえ!」
今はただ、おかしくて笑った。 笑いまくることにした。
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