「へぇぇええ。合宿ねえ」
地響きのような低音が榛名家に鳴り響く。わたしはフローリングの床に正座したまま、ひたすら歯を食いしばってそれを地面に受け流すべく、耐える。本日も4回から投げ切って、見事に準々決勝進出を決めた榛名先輩は疲れているだろうに、お風呂上がりのマッサージをしながら生来生まれ持ったそのツリ目を容赦なくわたしに向けてくる。わたしは救いを求めるように背後を見るけれど、おばさまは苦笑し、おねえさんは「仕方ないわ」と目が語っている。わたしは前を向き直った。
「足!」 「は、はひっ」
大人しく先輩に近寄り、指示通りに足を揉む。不機嫌MAXの先輩の声は、いつもより刺々しい。当たり前だ。先輩のお宅でお世話になることが決まった翌日に合宿が決まり、それも期間は丸々夏大と被っている。「ったくオメーはよ」とずぅっと呟いて握りこぶしを作っている先輩は不機嫌だけれど、呆れとか、諦めだとか、仕方ねーなとでも言うような、そんな感情も混ざっているようにも見える。あと、拗ねているというのもあるけれど、他にも……少し、悲しんでいるような気もする。
「で、電話、しますから!」 「電話ぁ?」 「おはようもおやすみも、いってらっしゃいもおかえりなさいも、頑張れだって、わたし、ちゃんと言いますっ。先輩のあのかっちょいい感動的なセリフを無下にはしませんっ。絶対にっ!」 「ほー。練習あんのにか?」 「言いますっ!それは約束したからじゃなくって、わ、わたしが、そうしたいからで……」 「……へー」 「…………」
ああ、もう。 ぐりん、と後ろを向く。 おねえさんと目が合った。 ウインクされた。
「…………」 「…………」 「…………」 「…………」
えーい、 ままよ。
「たあっ!」 「うおっ!?」
タックル。 抱き着いた、 つもりなのだけれど。
「は!?エ!?──な!?」 「せんぱぁい」 「っ」 「本当に、本当に、ごめんなさい……。わたしも先輩と一緒に過ごすの、本当に本当に楽しみにしていたんですけれど……、でも、わたしっ、合宿がっ。今、大変だから、マネージャーのわたしが、頑張らなくちゃって、今まですっごく迷惑かけて、だからわたし、……でも、そのために先輩の約束を破るのは、やっぱりだめですよね……わたしも嫌です。でも、でもぉ……」 「…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!」
すりすり、 と顔を首筋に擦り寄せる。 遠慮も躊躇もなく、 先輩に身体を擦り付ける。 わたしに出来る、 目一杯の甘い声を出して、 悲しげに目を伏せる。
「でも、やっぱり、呆れちゃいますよね。そりゃ、そうですよね。いくらなんでも、呆れちゃいますよね。でも、わたし、せんぱいに嫌われたくないよぉ」 「…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!…………っ!」 「せんぱい……わたしのこと、嫌いになった?」 「っなるわけねーだろ!」 「本当に……?」 「ああ!つか、あの、本気でちょっとヤバいから、離れ」 「よかったぁ……わたし、ちゃんと言いますからね?頑張ってって。先輩には勝って欲しいもん」 「────っ!」
──と上目遣いで先輩を見遣ったところで、わたしは背中から思いっきり床にたたき付けられた。一瞬、わたしのふざけたその場のがれのごまかしに対する先輩の攻撃かと思ったけれど、先輩はわたしの上に乗っかって、ただじっとしているだけである。どうしたんですか、と顔を見ようとしても、回された先輩の腕で固定されて、見えないし動かせない。
「…………あれ?」 「戦えよ」 「──先輩?」 「決めたんなら、逃げんじゃねーぞ」 「…………」
もう、逃げるためには求めない。 逃げ場じゃなく、心のよりどころとしてこの人達がいるのなら。
「はい、負けません。先輩も、みんなもいるからっ」 「……やっぱ、ここはキスの一つでもしとくか」 「ぎゃー!」
* * * * *
「あっつー……」
まっさおな空と、 どっぴーかんの炎天下。 初戦の天気が嘘のようなすっかり夏の天気に、わたしは目を細める。もちろん帽子は被っているのだけれど、すっかり乾いたグラウンドが眩しいのだ。みんなが休憩している内に軽く水でも撒いておいた方がいいか、とスプリンクラーのところへ行き、噴き出し口を見上げたところでふと懐かしい気持ちになる。──GW後にわたしが作って取り付けたんだっけか。初めての合宿と練習試合──三橋くんの過去との決別と阿部くんとのコンビ結成、キャプテン決め。みんなも少しずつ仲良くなっていって──信頼できる仲間になった。夏大に向けて、楽しく、厳しく、でもやっぱり楽しく練習した。
「──自分のために努力することがこんなに楽しいなんて思わなかった」
いつか、誰かが言った言葉。 その気持ちをわたしは知っている。この気持ちを、少しでもみんなに伝えられたなら──わたしがやってきたことに意味はあると言えるだろう。楽しそうに──迷って悩んで挫折して、負けて悔やんで泣いて、それでも楽しそうに野球が出来ることの喜びを、わたしは知らずのうちに感じていた。
いつの間にか、大切になってた。 捨てられないものになった。 譲れないものになった。 負けたくないものだった。
「──相内?」 「うん?」 「ボーとしてっからさ」 「ああ。なんか、浸ってた」
うっすらと濃くなっていくグラウンドを見つめていると、声をかけられた。浸ってた、と言うと不思議そうにしていたけれど「早くメシ食っちまえよ」と肩を叩かれた。頷いて、蛇口をしめる。アンダーシャツから伸びた自分の腕は、ずいぶんと日に焼けた。女の子なのにな、と考えながらもこんなに笑えるのは──そんなこと、もう思わなくなったからなのだろう。
「おら、早く行くぞ!」 「そだね。お弁当、みんなに食べられないうちに」 「あれ。今日、弁当?」 「うん!」 「そっか」 「行こっ!」
スパイクで土を踏み締める感触が心地よい。息を弾ませ、少し固くなった手の平を力いっぱい握りしめた。「今日もいー笑顔だ」と笑ってくれる、仲間のところに走り出す。
夏へ向かって、 わたし達は走り出した。
(2011 完結)
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