学校までは走りになるかと踏んでいたけれど、どうやら田島くんが監督さんと一緒にチャリで来て、そして医院の前に置いてってくれたらしい。自転車は監督さんが乗る千代ちゃんのチャリと、わたしが乗ってもいいらしい田島くんのチャリの2台があった。その好意に甘えてチャリで帰り、学校に着くと監督さんを待たせてわたしは猛スピードでストバス部の部室までダッシュしてカギを差し込み入って置きっぱなしにしてあった練習着に着替える。ミーティングしかないとはいえ、ちゃんと野球できる格好になっておかないと、わたしの気が済まない。30秒で着替えて1分で監督さんの元へ戻り、二人でグラウンドに向かった。グラウンドに入る前にアンダーとか裾から出てるところを指摘されて直し、ちゃんとしてから足を踏み入れる。しばらくぶりの土を踏む感覚に、「ちわっ」という挨拶に、いちいちじーんときた。部員さん達が集合して、わたしもそれに加わる。円を作って座るのも、久しぶりだ。
「……監督にも話したんだけど、今日の試合の反省会の前に、チームの目標をどこにすんのか。今の段階で一致させとこうと思う」
人と相談せずに、まずは一人一人紙に書いてみて、とのことで、千代ちゃんに渡されたメモ用紙とシャーペンを手に、少し考えた。阿部くんは医院を出たときに先に書いて監督さんに提出していて、わたしはそこから『目標』について考えていたわけだけれど。目標っていうのは目的と同じものだと辞書には書いてあるけど、ヒトが行動するには目的があって、目的を行うために据えられるものが目標なのだと、わたしは思う。目的があるから行動し、目的のために行動する目印として目標があるわけだ。つまりイコールでなく、アローヘッドなわけである。ならば、目標を据えたその先にある目的。わたし達は、わたしは一体、何のために野球をしているんだろうという問い。あるいは、わたし達、わたしは、一体このチームで何をしたいのか。どうなりたいのかという問い。あの日、何のために野球部に入ったのか。今日、何のために野球部に戻ったのか。何のために、遠い昔、わたしは野球を始めたのか。このチームで一体どうなりたいか。
「──せーのぉ!」
その答えは全て、同じものだった。というか、昔からわたしは、いつだってそれしか無かった。この思いしか、持ってなかった。この思いがあるから、今までやって来れた。もし今よりずっと小さかったわたしに、あの感情が芽生えなかったら。わたしは何も持たない子供だっただろうし、いじめられたままだっただろうし、かなめちゃんとも友達になれなかっただろうし、みんなに嫌われたままで、でも怖がられることはなく、突き放されることもなかった。ギフテッドと称されて向こうに行くこともなかったし、野球に出会うことも、多分なかった。先輩と関わることもなかったし、他にも、もっと色々。四月からのことも、そうだ。だから多分、わたしは監督さんに惹かれたんだと思う。あの日、一から作り上げる野球部に対し、凛として、本気で『勝ち』を望んだあの姿に、わたしは魅せられていた。あの人のそれはわたしの持つものと、よく似ていたから。わたしがこんなでなかったら、必死に身体を鍛えたり、勉強したり、色んなことに燃えていたわたしはいなかった。かなめちゃんも先輩もおねえさんもおばさまもおじさまも田島くんも泉くんも浜田くんも監督さんも阿部くんも栄口くんも三橋くんも花井くんも巣山くんも西広くんも沖くんも水谷くんも志賀先生もそよぎちゃんもひよこちゃんも千代ちゃんもひじりちゃんもいくちゃんもあかねちゃんもしころちゃんもいちごちゃんも、みんな、わたしの周りにいなかった。かなめちゃんは、わたしを好きになってくれた。先輩が、友達が、わたしを好きだと言ってくれる。だからわたしは、だからわたしは、そんな自分を、とても、誇らしいと思う。わたしは、こんなわたしのことを、気に入っている。
「──相内は?お前はなんで、『ソレ』にしたんだ?」
「斑ちゃん!」
6時も10分になった頃。元の服に着替えたわたしは、呼び止めた監督さんの方を向く。ミーティングも反省会も終えて、みんなが帰る準備をしている中。監督さんが手招きをするので、わたしは頷いて、バッグを肩にかけ、駆け寄った。グラウンドの入口に立っている監督さんはニッコリと「一緒に帰りましょう」微笑んだ。わたしはニコリともせず、頷いた。
「今から飲み会なの。志賀先生も行くって。花井さん達も来る。斑ちゃんはお酒はダメだけど、オレンジジュースなら出るわよ。どう?」 「──行きます」 「わかった。連絡するわね」
飲み会、と言うからにはみなさんお飲みになるんだろう。各々が車に乗らなくても帰れる距離で予約を取ったらしい。まあ志賀先生は飲まないけど。監督さんも飲むのかな。「あ。もしもし花井さん?今から行きますー。斑ちゃんも来るそうですよ」花井さんとの通話を終えて、携帯を閉じた監督さんと歩き出す。そういえば三橋くんと栄口くんと田島くんは阿部くんのおうちにお見舞いへ行くらしい。そしたら阿部さんは看護とかで来ないのかな。だったら、今日、車と医院でちゃんとお話出来て良かったなぁ。
「明日にはチームの『目標』が決まるわけだけど……斑ちゃんは、どう考えてるの?」 「わたしは、変えるつもりないですよ。目標」 「そう?もし無難に『甲子園出場』とかでまとまったらどうする?」 「勝負します」 「勝負?」 「野球部のみんなと勝負して、めったんめったんにします」 「それで負けん気を煽ろうって?斑ちゃんみたいに?」 「わたしには、それくらいしか思いつかないんです。バカだから」
監督さんと、今日みんなで出し合った『目標』と、明日出るだろう『目標』、それに付随する練習メニューの操作についてあれこれ語りながら、部員さん達のことを考える。一晩の猶予が与えられたけれど、一体どうなるのだろう。三橋くんは自分でもよくわからない風だったけれど、田島くんは決して譲らないと思う。わたしも譲るつもりはない。でも、他のみんなは、例えば沖くんとか、だって、決して楽をしたいとか考え足らずとか、そういうのでアレを出したわけではないのだ。みんなはみんなでそれぞれの『精一杯』。確かにそれは沖くんの言う通り。でもそれじゃあ、わたしの『目標』は叶えられない。
「あと丸二年、わたしはこの野球部に骨を埋めるって決めたんです。やるなら徹底的にやるのはわたしのポリシーです。だからやるなら絶対に、負けたくない」 「……良いと思うわ。それで」 「……ですかね。ワガママ、じゃないでしょうか。わたしは選手じゃないのに」 「あら。顧問だとか監督だとか、マネジだとか選手だとか、そんなのは関係ないわ。私達は全員で西浦野球部なの。全員が納得して一致させなくちゃ意味がないし、それにやるなら頂点を目指したいのは私も同じだから」 「……そですね」 「それに私、斑ちゃんの『負けん気』、結構好きなのよ」 「……あは。わたしも監督さんの『勝ち気』、割と気に入ってますよ」 「……ふふ」
負けたくない。 勝ちたい。 そんなわたし達は笑い合う。
「それに、甲子園優勝する時点で既に県大優勝も甲子園出場も国大出場も果たすことになるんだから、こっちの方が皆のはじめの希望は叶えられて、手っ取り早いじゃない。っていうのもあったりして」 「ですよね」 「うまく揃ってくれるかなぁ」 「それを願って、飲みましょう」 「斑ちゃんはジュースだからね?」
小料理に着いて、案内された個室の襖をお待たせしましたー、と開くと、視界が真っ暗になった。と同時に何やら前から何らかの力が加えられ、後ろに倒れ込む。受け身はとったけれど。なんかわたし今日はこんなんばっかだなぁ、と思いながら顔にくっついている何かを押しのけると、それは何とひよこちゃんの胴体だった。視界がクリアになったわたしの目に飛び込んできたのは、ひよこちゃんの、泣き顔。「斑〜……」と、押しのけられたのも気付かないといった感じで、再びわたしを抱きしめた。あ、この声懐かしい……。じゃなくて。
「ひ、ひよっ、ひよこちゃん。元気になって、何よりだねっ……。ごめんね、何かわたしとかなめちゃんが迷惑かけて……」 「ごめんねじゃないっ!あたしら友達じゃん!そんなあたしら部外者みたいに謝らないでよ!」 「う、うんっ」 「……でも、どっちにも連絡つかないのは悲しかった……」
きゅうううん。と、胸がときめく効果音が聞こえる。久しぶりのひよこちゃんの破壊力は、すさまじいのだ。わたしに抱き着いてグスグス言うひよこちゃんを、思いっきり抱きしめた。そしてふと室内を見回すと、花井さん達お母さん方だけでなく、いくちゃんやひじりちゃん達まで座っていることに驚いた。監督さんは既に着席して、みんなでわたしとひよこちゃんを見守っている。「二人とも。早くこっち来なよぉ」と言ったのは花井さんだ。お言葉に甘えて身体を起こし、空いているところに座るけれど、わたしは居住まいを正した。お酒が入る前に、雰囲気が流される前に、言わなければ。
「すみませんでした!」
正座したまま、ガバッと頭を下げる。部活で、声出しの時の声によく似た、気合いの入った声だった。良かった。わたしもう、決められてるんだ。監督さんも先生もお母さん方もみんなも、次の言葉を待ってくれている。
「部員さん達がわたしのこと、何て説明してるのかは知らないです。わたし、体調が悪いんでもやむを得ない事情とかでも何でもないです。休んでたんじゃなくて、サボってました。休むつもりじゃなくて、辞めるつもりだったんです。休むためじゃなくて、逃げるためでした。そのために、お友達にも部にも、お母さん達にも迷惑……心配や負担をかけて、身勝手でした。それで本気で頑張ってるみなさんの足引っ張ってて、情けないったらないです。わたしだって野球部の一員なのに、色々勝手にして逃げて、甘ったれてました。本当にすみませんでした」
わたしは身勝手だった。 わたしはワガママだ。 今だってそうだ。 みんなのためじゃない。こんな何の説明もなしていない謝罪は、聞いているみんなのためなんかじゃない。 自分のためだ。自分がスッキリしたいから、謝ってる。 自分のために、頭を下げる。
「すみませんでした!」
謝罪と言っておきながら、許されるためじゃない。だから言いたいことだけを言って頭を上げた。それから笑う。今までのしがらみが全て払拭されたみたいに笑う。再び視界に入れた先生も監督さんもみんなもお母さん方も、わたしが終えるのをずっと待っていた。それを合図にするみたいに、この場にいた全員がグラスを持つ。大人組(マイナス志賀先生)はアルコールを、未成年組(プラス志賀先生)はジュースを。花井さんが乾杯の音頭を取る。グラスがぶつかり合う澄んだ音が、しばらく重なった。
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