振り連載 | ナノ



 016



「あれぇ?斑?」
「……利央くん?」

ベンチに座っているわたしの背中にかかった声。振り返ると、久しぶりに見る、ような気がする、利央くんが立っていた。「なにしてんの?」両手には膨れたビニール袋。お買い物だろうか。今は日中だけれど。部活はどうしたのだろうか。見れば制服である。わたしの凝視に気がついたのか、「ああ」と自分のネクタイを軽くつまむようにする利央くん。「オレはねえ、ドリンクの買い出しだよー。マネジがね、夏風邪やられちゃってさあ、今ちょっとドタバタしてんの。マネジって偉大なんだなーって実感しちゃったよ。着替える前に出て来たの」どうやら利央くんはおつかい中らしい。そうかそれならばそんな利央くんに道草を食わせるわけにはいかないと、笑って手を振り別れる──「斑は何買ったの?スゲー量じゃんか。一人で持てる?休憩中?手伝おっか?」なんてことがわたしに出来るはずがない。中身は服なのだと言えば、首を傾げられ、核心に触れる部分──つまり「部活は?え、5回戦じゃなかったっけ?」──に触れられてしまった。仕方ない。もう嘘は、吐くわけにはいかない。

「これは買い出しじゃないんだ。というか、野球部、辞めちゃったから」
「…………はあ?」
「あ、いや、休部中、かな?」
「はあああっ!?」

あ。
なんか怒られそう。

「ば、ばっかじゃないの!?何やってんだよ、斑。戻れって、今すぐ!」

目を丸くして、それから大声で怒鳴る。西浦のある方を指差し、でも今日は試合なので大宮の方に差し変えて、一人慌てる。利央くんは、わたしが本意でやめたのではないことについて、まったく疑っていないようだった。

「なにしてんだよ、斑、バカだよ。何やってんだよ。ばっかじゃないの。やめてどうすんだよぉ。野球が嫌いになったワケでもないのに、辞めて、どうするってんだよ。やめてどうすんだよ。野球なんかやめたって、楽にはなんないんだぞ。好きなモノから逃げたって、楽になんかなれないんだぞ」

事情も何も言っていないのに、利央くんは断定して言う。わたしが野球を嫌いでやめた、だなんて全く考えていない。そんなにわたしのことを信頼しているのか、それともそんなことを連想してしまうような前例が他にいるとでもいうのだろうか。利央くんはわたしの反応など気にも留めず、感情をそのままさらけ出すように言葉を続けていく。わたしの口の挟むスキも、みせずに。利央くんも何か、溜め込んでいるのだろうか。

「なんでわかんないんだよぉ。斑も準サンも和サンも、なんでわかんないんだよぉ。みんなオレなんかよりずっと、ずっと頭いいくて尊敬できるぐらいスゴイくせに、なんだってそんなにバカなんだよぉ」

そっか。
準太さんと和己さん。
けれど、彼らの事情とわたしの事情は違う。わたしが彼らに向けて言う言葉は何もないし、彼らもまた、わたしとは違うやり方で、どうにかまた立ち上がるのだろう。

「みんなバカだ。みんなオレよりバカだ。バカばっかだ。よっぽどだっつうの、バカァ。なんで辞めるんだよ。なんで逃げちゃうんだよ。なんでそーやってみんな、一番好きなモノから逃げてくんだよ。なんでオレを置いてっちゃうんだよ」

利央くんは言う。
嘆くように、喚くように。
素直に、ありのままの感情を吐露する。率直で純粋な、ことばをくれる。

「逃げたって、そんなの、無駄なんだかんね。野球は、スゴイんだかんなっ。斑達が思ってるよりずっと、魔力があるんだかんね。逃げられると思ったら、大まちがいだぞ。斑も、準サンも和サンも、みんな大バカだ。野球をなめてる大バカだ。野球を、甘くみんな、バカ!」

その涙混じりの声色に突き動かされるようにして、わたしはポケットから携帯を取り出した。黄色の携帯。折り畳まれたそれを、片手で開く。電源を入れる。不在着信。はどうしようもない。メール。…………。おびただしい、と言って差し支えのない数。

「オレ、斑のこと好きだよ。明るくって一緒にいて楽しいしちょう可愛いし、なんかほっとけないし、大好きだよ。でもオレ、斑には負けない。斑のことスゲェって思ってたけど、思ってるけど、そんなバカなことすんなら、オレ、斑になんか負けないもんね。斑が大好きな野球、みんなが大好きな野球、オレが一人占めしちゃうんだもんね」

今日休みだね。どうかしたのか?具合でも悪いの?風邪とか?だいじょうぶ?カナメ来てないよ。斑一緒にいんの?お見舞い行っていい?みんな心配してるよ。何かあったの?斑だいじょうぶ?携帯持ち歩いてっか?オイ!見たら返信しろよ!つーか学校こいよ!部活も来れないの?なんか青乃達もおかしいよ。お前らなんかあったの?カントクは何も言ってなかった。佐野山が来てたよ、モモカンと何か喋ってた。オレらも聞こうとしたけどダメだって。おーい、生きてっか!?なんで家にもいねーんだよ!!連絡ちょうだい!ホントに!相内さん、どうしたの?チョコレートあるぞー……。試合明日だよ?要がずっと来ない。あんたらいないとつまんないよお。どこにいんの?練習どーすんなよ!サボりか?ちゃんとこいよ!相内だいじょぶか?ホントに生きてる?調子狂うだろが!斑へんじしてよー。アホ相内。勝ったぞ。オイ!ホントなんなんだよ!斑今笑ってる?泣いてる?あたし行っちゃだめ?今ミスド100円セールだよ!?オールドファッション食べようよ……。野球部どーなんだよ。相内いないと困るんだけど。お前何か悩んでんの?オレらじゃダメなのか?いい加減にしろよ!なんでもいーから来てよ。ベスト16だぞ。次ベスト8なんだぞ!モモカンが一人で大変そう。何も言わねーし。お前なんとも思わねーの?篠岡スゲ心配してるぞ。アイツらに聞いてもなんも教えてくれねー。どこいんだよ!もう!斑。考えずに決めろ。お前はゴチャゴチャ考えすぎ。そんなタイプじゃねーだろ。お前はただの、バカなんだから。

「オレ斑に負けないもん。斑がこんなとこでいつまでも、突っ立ってるだけだってんなら、そーやってサボってる間に、オレはバリバリ練習して、斑なんか引き離すくらいうまくなっちゃうもんね。準サンが部活こない間もすっごい頑張って、すっごいキャッチャーになって、和サン追い抜いて、慎吾サンの時より早くレギュラー入りして、オレだけ一人で勝手に甲子園行っちゃうんだもんね」

画面を見つめたまま硬直したわたしに構わず、利央くんは喋り続ける。言葉をぶつける。あてる。投げ付ける。わたしの有能な耳は聞き漏らすことを知らない。

それは、
それは、
その言葉は。

「後悔したって、もー遅いんだぞ。オレもー決めたもんね。オレが甲子園の土踏んでる姿を、斑達は指くわえて見てたらいーんだ。あとからうらやましがったって、ダメだかんな!バカ。バーカ。お前らみんな、大バカだ!」

呪いのようだ。
と思った。
利央くんのこの言葉は、
まるで呪いの言葉。

「斑は悔しいって思わないの?オレがどんどん大会で勝ってって、どんどん甲子園近付いて、そんでどっかでウチが西浦と当たって、そんときはオレら絶対勝つよ。もー負けないよ。ボロ勝ちするよ。そんとき斑は観客席かラジオかテレビでそんな様子みてて、なんも関われないまま西浦負けて、そんとき斑は悔しくなんないっていうのかよ。泣きたくなんないって言うのかよ。そんなんウソだ。斑ぜったい泣くよ。ぜったいそんとき後悔するよ。他のガッコが負けてくやしがる姿みるのイヤとか、そんなキレーなこと言ってらんないよ。そんなこと言ってられんの、西浦が勝ち進んでってる今のうちだけだろ。ホントに西浦が負けたらどうすんだよ。辞めてよかったって、思えんのかよ。そんなん、ぜったいウソだ!そんなの、逃げてるだけだ。斑は、バカだ。めっちゃくちゃなバカだ!」

頭が、動く。
ハッキリと利央くんを見つめた。

──すごく身勝手なことだとは承知しているけれど、まがまがしい言葉を次から次へと発する利央くんのことを、思いっきり殴りなくなった。怒鳴り散らしたくなった。嫌いたくなった。わたし達が勝ったのがまるでマグレのような物言いをする利央くんに、そして次はボロ勝ちしてみせると言い放つ利央くんに、ものすごく腹が立った。マグレなんかじゃない。あれはわたし達が、必死に食らいついて、しがみついて、振り落とされそうになるのに歯を立てて食らいついた結果の勝利だ。わたし達は戦って研究して分析して勝負して、勝ったのだ。そこにマグレも何もあるわけがない。野球にあるのはマグレではない。そこにあるのは必然性だけ。マグレじゃない。これから百回二百回勝負したって、西浦は負けたりなんかしない。そういう練習をすれば、負けたりなど。わたし達は負けない。そう泣きわめきたくなった。ムカついた。腹立たしい。苛々する。この気持ちの存在に気付いた時──わたしはひそかに苦笑する。これは負けん気だ。負けず嫌いの負けん気だ。そうか。わたしってもう、こんなに、あの人達のことが好きになってたんだ。呪いの言葉を投げ付けてくる利央くんを、本気で殴りたくなった。そしてその後、わたしのことをウソだと言い、逃げだと言い、バカだと言ってのけた利央くんに、抱き着きたくなった。「……うん」わたしは、久方ぶりに言葉を発する。

「──うん。確かにウソだよ。逃げだよ。それからバカ。大バカだ、わたしは」
「…………ん」
「でもね、利央くん。利央くんは一つだけ大きな勘違いをしているよ」

──しないけれど。

「ボロ勝ちするのはわたし達だよ」

なぜなら彼はとてつもなく怒っているし、わたしはどうしようもなくムカついているからである。

「はー!?」
「100回やっても200回やっても勝つ」
「……斑ケンカうってんでしょー」
「わたしだったら、準太さんの球なんて全打席満塁場外ホームランして、コールドして、そんでわたしが投げたら、和さんや慎吾さんなんて絶対に打たせない。お二人だけじゃなく誰にも掠らせないようなストレート投げて、パーフェクトにしてやる」
「…………。一応聞くケド、そんなこと、ホンキで出来ると思ってんの?」
「思ってるよ」
「…………」
「わたしは本気で思ってる」

そうだ。
みんなだけじゃない。
わたしだって負けない。
利央くんや、桐青にだけでじゃない。
スピードでは先輩に、コントロールでは三橋くんに、戦略では阿部くんに、柔軟さでは田島くんに、技術では栄口くんに、巧妙さでは巣山くんに、伸びシロでは西広くんに、打率では泉くんに、ミートでは花井くんに、器用さでは沖くんモチベーションでは水谷くんに、わたしが誰で、どこにいて、いくつで、その時たとえどんな状態でも、誰が相手であっても、どのポジションであろうとも、勝ちたい。負けたくない。勝つ。勝ってみせる。出来るはずだ。わたしに出来ないことなんてない。いつだって、そうしてきたじゃないか。いつも、いつだって。

「──わたしは、誰にも負けないよ」
「…………。…………そ。なら斑は、みんながライバルなんだ」
「……ライバル」
「ヘンなの。マネージャーなのに部員敵視するなんて」
「……そっかな」
「そーだよ。しかもそれ、オールラウンドじゃん。よくばりスギ」
「……いーんだよ」
「うん?」
「実現させるもん。させてみせる」
「…………」
「目標はでっかく!コレ基本!」

そう言って笑う。笑ってしまう。込み上げてくる。目標。ゴール。目指すところが、わたしに、再び、出来た。しかもそれが、わたしからは到底手の届きそうにないところにある。笑えてくる。ウズウズする。ワクワクする。ジッとしていられない気持ち。利央くんがなおも「でもオレらのボロ勝ち」とのたまうので、わたしは彼を思い切り睨みつけた。彼もわたしをじいっと睨む。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ちょっとぉ、そろそろ譲ったらどーなの」
「利央くんこそっ」
「…………」
「…………」
「……ぷぷっ」
「……ははっ」

笑ってしまう。
うん。
やっぱり利央くん、好きだ。

二人してベンチに座り直し、笑って、小突き合った。「オレ絶対負けないもんねー」「案外わたしが既に勝ってたりして」「なんだとー?」とか、頭ぐりぐりし合ったりとか。そうしているうちに、おねえさんが走り寄って来る。「ちょっと!アンタ斑ちゃんに何してんの!」おおう?何か誤解しているようだ。

「斑ちゃんお待たせ!移動販売でアイスクリームがあったからねえ、すごい行列で、でもおいしそうで……。それで何?ナンパ?この子はもー間に合ってるわよっ」
「えええっオレナンパ!?」
「おねえさん、違います違います」
「違う?」
「お友達の利央くんです。わ、チョコナッツ食べたいチョコナッツ!」
「あらトモダチ。すみません、あらぬ疑いかけちゃって」
「や、いーですよ。……ってこぉら斑!お前そんな場合じゃないでしょおが!」
「む?チョコナッツおいしい……」
「うまそお……ってちがーう!」
「あっ!取らないでよっ!わたしのチョコナッツっ!」
「ああもー……!斑ってば、2分前のやりとり、もー忘れたの!?」
「はひ?」

アイスを取り上げられたことにしょんぼりとしたけれど、それ以上に利央くんがめちゃくちゃ焦っているようなのでこれ以上は言うまい。ああ、でも、チョコナッツ……。

「やってやるーっ!ってさっきの気持ちはどこ行ったの!」
「はっ」
「はっ。じゃない!もー斑のバカー!」
「え、何なんの話?」
「斑チョコナッツはいーから、今から行け!西浦かえれ!」
「かえれって、今、試合中──」
「試合中だろーが何だろーが、さっさと行って、みんなに謝ってくんの!ホラ早く!行け!バカ!」

ぐいぐいぐいー、と、引っ張られて立たされたと思ったらもう両肩を押されて公園から追い出されようとしているわたし。そうだおねえさんとチョコナッツの登場で頭まっしろになっていたけれど、わたしはのんびりアイスクリームを頬張っている場合じゃあないのだ。そりゃあおねえさんとアイスクリームはとても魅力的だけれど。わたしは女子高生である前に、野球部のマネージャーなのだ。それでも残されたおねえさんに後ろ髪引かれて、利央くんに強く押されながらも振り返ると、おねえさんは微笑んでいた。そして遠くなった距離の分、声を張り上げて言う。

「何かよくわかんないけどー、行っといでー!」

おねえさん……。
泣きそうになった。

「だいじょーぶ!荷物はこのコに持ってもらうから!」
「オレー!?」

利央くんは泣いた。
それをしっかりと確認して、わたしは思いっきり地面を蹴った。