目を、開く。見慣れた部屋の中は窓から朝の光が差し込んでいるものの電気が消されているので薄暗かった。上体を起こす。夕べは確かに床に布団を敷いて眠ったはずなのだけれど、なぜか今わたしはベッドの上にいたことに寝ぼけた頭でありながらもそれなりに驚いて、キョロキョロと辺りを見回した。先輩はいない。というか、周りから物音がしなかった。おばさまがお料理や洗濯をしている音もなく、おねえさんのよく通る声もない。当然のように先輩は部活に行ったのだろうけれど──、あれ。部活?
「いま、なんじ……?」
身をよじらせて机の上にある時計を見てみたところ、現在の時刻。午前10時30分。…………。「ねぼうっ!」声を上げたところで、ぷるるるるるる、とコール音が聞こえてきた。洗濯機……ではなく、電話?自宅の備え付けの方の電話の音なので、ベッドから出て、裸足のまま先輩の部屋を出た。部屋の掃除機は、ここに泊まるようになってからは毎日わたしがかけている。廊下に出て、リビングに行くとやっぱり誰もいなくて、照明は消えていて薄暗かった。鳴り止まないコール音に急かされるように受話器を取る。「はい。えっと……榛名です」人の苗字を名乗るのは、すごく照れる。勝手に一人で恥ずかしくなっているうちに「斑ちゃん?」と返ってきた声はおばさまのものだったので、すごく安心した。
「斑ちゃん、起きたのね。もしかしてこれで起こしちゃった?」 「いえ。ほんとにさっき、めがさめて……。おはようございます」 「おはよう。ふふ。斑ちゃん、舌回ってないわよ。昨日はお出かけしたから疲れちゃったのねぇ」 「ちょっとだけです。……ごめんなさい、ねぼうして。いってらっしゃい、いえなくって……」 「いいのよ。斑ちゃん今日から夏休みだしね」
笑いの混ざった優しい声でわたしの耳をくすぐるおばさまは、受話器の向こうでは多分本当に微笑んでいるのだろう。と、ほのぼの和んでいる場合ではない。電話をかけてきたからには、おばさまには何かしら用件があるのである。
「斑ちゃん。今、おねえちゃんそこにいる?」 「おねえさんですか?」
いません、と答えると「えっナオ出かけちゃったの!?」おばさまはそう反応した。「なにかおねえさんにようじでしたか?」おねえさんを探すわけではないけれど、何となくキョロキョロしてみたところ、テーブルの上に紙切れが置いてあるのに気付いた。手を伸ばしてそれを寄せてみたところ、紙面にはおねえさんの字で「ごっめん斑ちゃん!今日ちょっとムリになった!」と走り書きがしてあって、多分お買い物のことだと感づくとちょっとしょんぼりしてしまった。その下に「バイトのヘルプいってくんね。今度の買い物で泣かないためにお金稼いどきます」とあったので、ちょっぴり嬉しいような気もする。「バイトに行ったみたいです」話しているうちに、ちょっとずつ頭も冴えてきた。
「全くもう!頼んでおいたのに……」 「何をですか?」 「いやね?おばさんが作れればよかったんだけど、出かけなきゃいけなかったから……。元希のお弁当よ。夏休みだから、いつ届けに行っても大丈夫だろうって、それであの子に」 「はあ……。そうですね、いっつもお弁当ですもんね」 「栄養とかうるさいからねー元希も……って言ってる場合じゃないわ。嫌がってたからちゃんと作ってるか不安になって電話してみたらやっぱりいないし。どうしよう。……斑ちゃん、あの子にお金届けてくれない?」 「お金ですか?先輩に?」 「お昼代」
お金なら──と、生活費をしまっている場所を教えてくれたおばさま。……少し無用心すぎるんじゃないか、と思うけれど。「だってあの子、絶対にお金持ってないもの!」おこずかいは早弁やおやつなどの食費、そして居候が決まった日にわたしがまとめて押し入れに押し込んだ変(……)な雑誌などの娯楽に消えているので、先輩には常にお金がない。……というので、わたしが外に出たくないというプチ引きこもり事情より優先されるべきは先輩のお昼ごはんであるというのは一目瞭然だった。
「わかりました。届けに行きます」 「大丈夫?道わかる?」 「はいっ。行ったことあります」 「そうだったわね。じゃあお願いするわ。本当にごめんね?」 「いえー。帰りにアイス買っていいですか?」 「もっちろん」
電話を切った後、部屋に戻ってカバンからサイフを取り出す。おばさまがいない時にお金をいじくるのは何か嫌なので、せめて帰ってからお金を頂くことにしよう。お札の部分を確認して、そういえば今月はまだ銀行行ってないなあと思いながらもポシェットの中に入れた。まあ、先輩のお昼とアイスを買うには十分すぎるくらい残っているので気にしなくていいか。顔を洗って歯を磨いて、そして先輩がいないので堂々と寝巻きから着替える。自宅から持って来たのは、組み合わせを考えずかさ張りもしない楽ちんなワンピースばかりである。着替えてから、少し丈が短くて落ち着かなかったのでレギンスを穿いて、洗濯物をカゴに入れた。そして遅まきながらの朝ごはんは、おばさまがラップをかけて置いてくれていた目玉焼きとカリカリのベーコンをおかずにご飯とおみそ汁を食べる。食後、食器を水につけて、テレビを見て時間をつぶした。おばさまは先輩に、わたしが昼ごろに行くことを伝えたらしい。再びかかってきた電話によると、昼休憩は12時30分かららしいので、まだ少し時間があるのである。帰りに自宅に服を取りに寄るのもいいかもしれないなあ、と考える。そうだおねえさんのバイト先に顔を出してもいい。とも考える。知らないうちに立ち上がって、リビングの中をウロウロしていたことに気付いて、少し慌てた。そしてそれから、そんなに気になっているのだろうかと自嘲した。自分から離れているくせに。昨日いくちゃんから、退部届が破棄されたことを聞いた時には笑いが込み上げたのである。
「……4回戦……」
またひとつ勝って、 着実に歩みを進めてほしい。 わたしが言えたことではないけれど。
武蔵野第一高校の正門をくぐり、野球部の練習するグラウンドまで行ってみると、ちょうど涼音さんが笛を鳴らしたところだった。きゅうけーい!と部員さん達を集めて、監督さんらしき男性が何か喋っていて、それからバラバラと散らばっていく。キョロキョロと辺りを見回していた先輩と目が合うと、先輩はこちらに駆けて来た。
「おっ!お前もってきてくれたの」 「はい。あ、おはようございます。と、おつかれさまです」 「おー。サンキューな」
先輩は本日なんだかとっても機嫌がよろしいようで、ダラダラ流れる汗なんか気にもとめずニッコニコしている。ん!と差し出してきたそのぶ厚いてのひらにサイフから取り出した千円札を握らせると、しかし先輩は目を見開いた。そして「あんだよ金の方かよ!」とわめいた。先輩いわく、おばさまからの電話を取ったと同時に「昼まだ来てねーけど」と文句を言ったらしい。そしておばさまが「おねえちゃんバイト行ったって」と告げると更に文句を言ったらしい。そしておばさまは「代わりに斑ちゃんが行くから」となだめたようで、つまり『お弁当を作って持って行くおねえちゃん』の代わりがわたしという意味に受け取った先輩は、わたしがお弁当を作って持って来たと思ったらしかった。
「どーせならお前が作ってこいよ」 「わたし、お料理全然で」 「それぐらい練習しとけ、バカ!」
理不尽なご叱責を受けてしまった。さっきまでのご機嫌はどこへやら、ムスッとして不満を隠そうともしない先輩はわたしの腕を掴んで、グラウンドの入口へと歩いて行く。パッと離されたのでそこで待つと、タオルを首にかけて汗を拭きながらアクエリを飲みつつ、先輩が帰ってきた。皆さんに向かって「昼食いに行ってきます!」と叫ぶ。あれ、買いに、ではなく食いに?そしてわたしが待っていた意味は?と思うや否や、またしても腕を掴まれる。……わたしと、という意味なのだろうか?わたしの存在に気が付いたらしい部員さん達がずりぃぞとか何かを叫ぶ中、
「榛名ー!コンビニで『買って』来な!独り占めすんなよーっ!」
涼音さんのハキハキとした声が、よく通った。隣から舌打ちが聞こえて、直後にまた強く腕を引かれた。
「お前なー、せめて買ってから来いよ。練習のあと歩かせるって何なの」 「だって先輩、すぐ文句言うし……。なに買ったらいいかわかんなかったんですもん。アクエリだって、どうせ涼音さん用意してますし」
向かっているのは武蔵野第一高校から一番近い距離にあるコンビニらしい。朝練の前後に早弁用のお弁当やパンを、また部活帰りに家まで帰る気力を養うアイスなんかを買うのに重宝されているようで、どこの学校も事情は同じなんだなあと頷く。先輩はいつもチャリで登下校しているけれど、今は練習の合間ですぐそばにあるので歩きである。わたしが迷子にならないようにというとても失礼な名目によって、手が繋がれていた。
「家庭教師ならオレの食いもんの好みぐらい覚えとけよ」 「はあ。この前やった小テストの点数なら記憶していますが」 「忘れろ」 「18点です」 「言うな!」 「夏休みが終わったら、実力テストがあるじゃないですか。先輩、数字とか語学とか苦手なんですから、8月末から勉強しますよ」 「夏休みは野球するためにあんだよ」 「だから、甲子園終わってからに予定してるじゃないですか」
高校生の本分である勉強をおろそかにするのも青少年の教育上よろしくないし、それに勉強を教えるのがわたしのお仕事なのだからと今更ながらの文句に少し頬をふくらませてみると、「……お前、オレらが甲子園行けるって思ってんの?」先輩はそれを気にもとめずにそんな質問をしてきた。わたしは肩の力を脱いた。
「思ってます。決まってるじゃないですか」 「ふーん……じゃ、お前んトコは」 「西浦も、行けると思ってます」 「…………。なんじゃそら」
どっちかしか行けねェよ。 と先輩が溜め息混じりに言った。
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