振り連載 | ナノ



 010



夕方になって。
「祝勝祝い祝勝祝い」と言ってケーキを購入するおばさまと、「ごほうびごほうび」と言ってお酒を購入するおねえさんを連れて先輩の家に帰る。日が落ちてきてオレンジだった空が黒くなりかけてきた頃、チャイムの音が鳴ったので、洗濯物を取り込んでいたおばさまの代わりに玄関に走り寄った。おっかえりなさーい、と元気に言うつもりで鍵を開けてノブをひねり押した。

「おか──」
「今晩は」

いくちゃんだった。


「成るほど。ここが、お前が先輩と呼ぶ男の家か」

いくちゃんは失礼じゃない程度にさりげなく辺りを窺って、おねえさんが煎れてくれた紅茶のカップを手にする。礼節をわきまえて持参してきたらしいクッキーは「やば。これ激ウマ」ということでおねえさんの部屋に持って行かれてしまったけれど、とにかくいくちゃんはリビングでテーブルを挟んでわたしと向かい合う形で座っていた。それで、とわたしが言葉を発しかけると、いくちゃんは朴訥とした表情で反応する。「ああ。ここの住所は園田に聞いてな」……どうしてひじりちゃんが、他校生である榛名先輩の住所を知っているのか、という愚問はものすごく今更なことなのであえて口にはしないでおく。ちなみに大きなロックのかかっているエントランスは、ちょうど他の住人が通りがかったので続いて入ってきたらしい。手土産の姿勢は律儀だけれど、そこはどうなのだろう。と思ったけれどまあ、わたしが逃げるとか、思ったのかもしれない。

「かなめちゃん、どうしてる?」
「分からない。連絡が着かないのでな。……始めはてっきり、アイツのところに居るものだとばかり思っていたが──」
「……自分がどうしたいのかが──まだわからなくて。決まらないうちは、かなめちゃんに会うことは出来ないよ。中途半端に希望を持たせることは、出来ない」
「偽善だから、か」
「うん。今まで散々なことしておいて、だよね」
「まあ──しかし、驚いたのは確かだ」
「え?」
「お前は、ここでただ時間が過ぎるのを待っていると思っていたから」

「退部届なんか出して。連絡つかなくて。家にも帰らずに。──学校も辞めるつもりで、逃げるつもりなのだとばかり、思っていた」躊躇いなく、思ったことを真っすぐに言葉にするいくちゃんに、苦く笑う。

「けれど──そうではなかった。お前は『決まらないうちはかなめちゃんに会うことは出来ない』と言ったな。ならばお前は、ちゃんと決めるつもりでいる。『選ぶ』つもりがある、ということだ」
「それは……だから、わからないんだ。どうしたいのか。どうなりたいのか。まだ何も、見えてこない。選んでいいのかも、わからない。わたしに、かなめちゃん以外の選択肢があっていいのかが、わからないの」
「…………」
「わたしは、もうずっとかなめちゃんしか見てこなかったから」

かなめちゃん。
わたしの一番の女の子。
こうしてかなめちゃんと離れるのは、随分と久々なことだ。どこか落ち着かなくて、何故か少し、安心する。そんな矛盾した感情がここ何日か、渦巻いている。前はそんなこと、最後しか、なかったのに。

「幼馴染み。幼稚園からだったか」
「うん。わたしのいた幼稚園に、かなめちゃんが入園してきて……友達になったの。先生も喜んでくれた。わたしも友達、あんまりいなかったから」
「そうか」

本当は一人もいなかったけれど。少し笑って、懐古した。「かなめちゃん、その頃からキレイでクールだったから、なかなか友達出来なかったみたいで」そう。それでクラスの先生が、わたしと対面させたのだ。まるで、余りものをくっつけるみたいにして。

「……お前は?」
「んっ?」
「何故友達が出来なかったんだ?」
「ああ──うん。わたし、いわゆるダメな子だったから」
「ダメな子」
「かけっこではビリだし、ハーモニカできらきら星は吹けないし、ひらがなを覚えるのも遅くって」
「──イジメ、か?」
「うーん。よくからかわれてた」
「そうか」
「それで悔しくなって」
「そうか」
「運動会のかけっこで一番になって見返してやったの」
「……は?」

ぽかん、とした表情。いくちゃんのそんな顔は、とても珍しい。わたしは笑って続けた。

「ひらがなもカタカナもスラスラ書けるようになって、漢字を勉強して、算数も練習して、理科もいっぱい覚えて、辞書や新聞を読むようになって、ね。あとはハーモニカでハレルヤを吹けるようになろうと」
「ちょっと行き過ぎてないか」
「あは……。おっしゃる通りで」

多分、間違いなく行き過ぎていた。けれどあの頃のわたしの社会は幼稚園だったから、幼稚園でやることは全て出来るようにならなければいけないと思っていた。そしてそれが出来るようになったら段々色んなことに興味や疑問が出てきて、それを調べて答えがわかると気持ちよくて満ち足りて、もっと突き詰めて知りたくなって。

「──それが、もしかしたら気味悪いと思われたのかもしれない。からかわれなくなったけど、関わられなくなった」
「もっと酷いな」
「ううん。わたしは別に、友達って興味なかったからいいんだ」
「それもどうかと……」
「だっていじわるされたから。でもはじめましての子なら、それはまた別の話。先生がどう考えたにせよ、わたしは嬉しかったな」
「──それで、会ったのか」
「……すごく綺麗な子だった」
「すぐ仲良くなった?」
「んー……まあ、しばらくはちょっと、よそよそしかったかもしれない」


遠い昔。
もう10年以上も前のこと。

『…………』
『かなめちゃんって、いうの?』
『…………』
『……大切なこだね』
『え?』
『かなめちゃんの『要』って字は、何か『大切なもの』って意味なんだよ』
『…………』

他の子達みたいに、急に仲良くなるなんてことはわたし達には出来なかったけれど、

『……ありがとう』

ゆっくり。
そして、だんだん早く。
確実に根を張って。


「ありゃオメーのダチか」

試合後の部活から帰って来た先輩をチラッと視界に入れると、満足したようにいくちゃんは帰って行った。わたしから話を聞くだけ聞いて、最後に「ああそうだ。終業式だったから、頼まれてプリントを持って来た」と本来の用件を済ませてしまったところが最高だった。そして去り際に先輩を見てからわたしを見据え、「そういえば、野球部の監督が誰かの退部届をビリビリに破っているのを見かけたな」と呟いた。先輩にお辞儀をして立ち去る姿には何のやましさも汚らわしさもなく、玄関に見送りに来たおばさまと部屋から顔を出したおねえさんにしっかりと挨拶をするいくちゃんはまさしく威風堂々という言葉が当て嵌まる。

「なんかスゲーのと付き合ってんな」
「いくちゃんは世界中で一番かっこいいですから」
「なにを?このオレを差し置いてか」
「はいー。先輩なんかもう、手元にも足元にも影元にも」
「試合勝ったろーが!」
「いくちゃんは剣道で全国3位です!」
「男は野球だ!」
「いくちゃんは女の子です!」