「……きゃーっ!!」
叫ぶ。 朝一番の絶叫のすぐ後に、洗面所までバタバタとすっ飛んできたのはおねえさんである。「──斑ちゃん!?」足元がおぼつかずにふらふらするわたしの肩をしっかりと抱きとめてくれた、心優しいおねえさんだ。いいなあ先輩は。わたしもおねえさんが欲しい。と、そんな願望を唱えている場合ではなくて、わたしはこの悪魔のような現実を訴えようと半ば涙目でおねえさんを見上げた。榛名先輩は呆れたような目でわたしを見つめながらシャコシャコと歯ブラシを動かしている。
「どうしたの斑ちゃん、ゴキブリでもいた?ムカデ?それとも元希に意地悪された?」 「オレはそんなのと同列かよ」 「うっ……うっ。おねえさん……。わたしは、わたしは、現実に絶望しました……この家には、悪魔が住みついています……」 「悪魔?ゴキブリ?元希?」 「ねえちゃんオレのことそんな風にみてたの!?」 「き……き……」 「き?」 「キシリトールです!」
……は?と、声をあげてからおねえさんはわたしの左手に握られているもの、つまり榛名家の洗面所の歯磨きコーナーに置いてあった歯磨き粉のチューブに気が付いて、ああ、と納得したような声を今度は出した。
「斑ちゃん、キシリトール駄目だもんね」 「はい。辛いです」 「ガキだなオメーはよ」 「元はといえば先輩のせいで起こった拒絶反応じゃないですか!」 「知るか、アホ」
「あー……歯磨き粉のこと忘れてたわ。斑ちゃんフルーツの味がするやつしか使えないんだったね」ポリポリと頭をかくおねえさん。わたしが一度自宅へ戻った際に思い出しておけば良かった話なので別におねえさんが申し訳なさそうな顔をする必要はないのだけれど、
「ワガママ言うなよ。おら。食え」
先輩はもう少し謙虚に生きてみればいいと思うのはこんな時である。新しく開けてくれた歯ブラシにたっぷりと真っ白な歯磨き粉を乗せた先輩はそれを素早い動作でわたしの口に突っ込んだのである。
「うあああああああーっ!」
あーあ、と額に掌をやるおねえさんと、ウルセ、と耳を塞ぐ先輩。さすが姉弟、表情がよく似ていた。
「先輩はたぶん、第一次性徴において年下に対する親切さとか思いやりとか庇護欲とか母性とか、そういったものがうっかり身体から転げ落ちていっちゃったんだとわたしは思いますねっ。だってこんなの、ひど過ぎますっ」 「あーもー、朝っぱらからうっせえな!なんでオレがコンビニまで走ってお前用にいちご味の歯磨き粉を買って来なきゃなんねかったんだよ!おかげで朝から汗かいたわ!」 「先輩のせいじゃないですか!わたしはキシリトールの拒絶反応で、身体が麻痺して動けなくて涙が止まりませんでしたっ!」 「小学生のガキかお前は!」
食事中。 コンビニから帰ってきた先輩は水道で髪の毛だけをビシャビシャにして、タオルで適当に掻き回してグチャグチャのまま朝食に臨んだせいで四方八方にはねまくっている髪の毛についている雫を飛ばさんばかりの勢いで、隣でおとなしくみそ汁を飲むわたしに怒鳴ってきた。
「お前だって寝癖ついてんぞ、こら」 「えっ、まじですか。……まあいいや、今日はもうお外出ませんし」 「引きこもりか」 「学校に行かないだけです」 「ニートか」
あっ、食べないなら卵焼きを下さい。先輩のお皿に残っていた卵焼き(かにかま入り)を浚って食べると頭をぐりぐりされた。「だーれが残してるって?」ついでに頬っぺたをぐいぐいつねられた時にその指をぺろりと舐めてみると「ぎゃあ!」みそ汁の味がした。
「さては寝ぼけたままお椀に親指をつっこみましたね?」 「ききき、急になめんなー!」
先輩につかみかかられてグルングルン回る視界には、クスクスケラケラと笑うおばさまとおねえさんが映っていましたとさ。おじさまはわたしがキシリトールに泣いている間に頭をひとなでしてもう出勤されてしまわれたので今日は遅くまで起きておかえりなさいを言おうと思った。
「オレんとこ今日終業式だから昼前にガッコ終わっけど、そっからまた部活あっから帰んの夕方になるわ」
玄関にて、筆記用具やお弁当や練習着なんかを全て詰め込んだエナメルを床に置いて、先輩は座り靴紐に視線をやったままそう告げた。お見送りのわたしが「夜じゃないんですか?」と尋ねると、一度学校の敷地内の点検と整備があるのだとか。少し不満げな先輩はスニーカーをちょうちょ結びにし終えると立ち上がった。エナメルを右の肩にかける。
「あの、先輩」 「ん?」 「西浦は明日が終業式で……今日、退部届をこっそり出しに行こうかと思ってます」 「…………」 大きくて鋭いひとみがわたしをまっすぐに見つめる。怒られるだろうと思っていたけれど、意外にも返ってきたのは「オレが出してきてやるよ」という言葉だった。握り締めていたせいで少しくしゃくしゃになったその紙を、先輩がひったくる。 「オメーはウチでニコニコヘラヘラねえちゃん達と笑って、オレの帰りを待ってたらいーんだっつうの」 「…………」 「おら。わかったか」 「あ……えっと、はい」 「んじゃ。行ってくんな」 「はい。通知表が楽しみです」 「うっせー」
ぎい、と扉を開けて朝の光をバックにした先輩は少し照れたようにいってきますを言う。わたしはいってらっしゃいを言おうとして、何度か噛んだ。お、おう。とか先輩も噛んだ。閉まった扉と妙な緊張が抜けてホッとすると「うーん。高校球児、もうひとつの青春」おねえさんがそんなことを呟いてニヤリと笑ったのだった。
「じゃーあたしも出かけるから」久しぶりに昔からのお友達と会うとかでおねえさんも朝10時ごろに家を出た。じゃあ今日はちょっと退屈かもしれない、としょんぼりしたわたしにおねえさんは明後日あたりにお買い物に行こうと指切りしてくれた。「おねえさん、大好きっ!いってらっしゃいませ!」……というわけで、日中はおばさまと二人きりです。
「おばさま、お皿洗い、わたしします」 「あらそう?じゃあおまかせしようかな。おばさん洗濯干してくるね」 「あ。あの、わたしの分まで、洗濯物、あの……ありがとうございます」 「どういたしまして。お礼なら大歓迎」 「……はいっ」
わたしは流しに立って、スポンジに軽く水と洗剤を染み込ませて揉む。重ねてある食器を一瞥してコップ類から溜まった水を捨ててスポンジを滑らせていった。「斑ちゃん。今朝ニュースで夏の大会についてちょっと取り上げられてたわよ」ベランダから声をかけられて、そういえばもうそろそろ3回戦もすべて終わる時期だ。今日もまた知らない高校の試合が行われるはずだ。
「地方チャンネルの番組なら埼玉特集でちょっと詳しくやるんじゃないかしら。お昼の番組だから、ご飯食べながら一緒に見ましょう」 「はい。先輩映りますかねっ。雑誌には結構載ってますよねっ!」 「ホント?元希ってば、そういうの教えてくれないからー……」 「先輩は、人気者なんですよっ!」 「なんか嬉しいわね」
おばさまは先輩のシャツをハンガーにかけながら、はにかむ。わたしは何本かまとめたお箸をスポンジでカチャカチャ押し付ける。誰かとおしゃべりしながら洗い物なんて、久しぶりだ。油っこくないお皿から洗っていって、最後に洗剤を水で洗い流した。食器立てに全部きちんと入れて、濡れた手をタオルで拭くと、おばさまも空っぽの洗濯かごを持って窓の鍵を閉めるところだった。
「斑ちゃん。おせんべい食べる?」 「しょうゆ味ありますか?」
話しながらテレビのリモコンで電源を入れる。おばさんとわたしがソファに座ると、ちょうどニュース番組の映像が映った。テロップは『どうなる!?今年の埼玉選抜』というもので、BGMは『栄冠は君に輝く』。そして元甲子園球児だとか紹介されている何人かのおじさん。「ちょうどチャンネルついたわね。ラッキー」バリン、とおせんべいにかぶりつく。
「へんはいへはふはへえ」 「斑ちゃん、しょうゆついちゃってるわよ。わってから袋開けたら?」 「ほふひはふ」 「ふふ。元希は出るかしらぁ」
今年の注目校をお手元のフリップに書きましょうとキャスターが促し、一斉にフリップを立てて一人ずつコメントしていくという感じでコーナーが進んでいくらしい。テレビの向こうの美人なアナウンサーの合図で発表された注目校にはARCだとか千乃だとか、なんと武蔵野を書く人もいておばさまと手を取りあってはしゃいだりもした。「この大会で榛名投手がどれだけ出て来るか!今から来年も楽しみですよ」中年の、スーツを着た男性を子供のように幼く笑わせることのできる野球の、なんと素晴らしいことか。
「いいなあ、わたしも先輩の球、打ってみたいなあ……」 「じゃあ元希に頼んでみたら?」 「えっと。わたしがしたいのはどちらかというと勝負の方でして……先輩、絶対に本気で投げてはくれないです」 「そりゃあね。そういう時期は、もう過ぎたと思うわ」
それは言外に昔なら──という意味を含んでいる。実際、荒れてた頃はボールをガンガン投げつけられてきたわけだしなあ、と3年前を思い出す。
「今はとっても可愛がってるものね?」 「後輩を可愛がる先輩はキシリトールを口に突っ込んだりしないです」 「ふふ」
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