振り連載 | ナノ



 004



初めて会ったのは多分、幼稚園の、2年目の夏だったと思う。とても暑い日で、クーラーのきいた小さな部屋で、わたしはハーモニカを吹いていた。きらきら星なんて簡単なのに、そんなのも吹けないのって、同級の女の子に馬鹿にされたのが悔しくて、みんながお外で遊んでる時間にわたしはひとり、中で練習していたからだった。遊び場と面しているベランダに転がってきたボールは、両手にも収まりきらない大きさのそれで、額に汗を浮かべた同級生が走ってきて拾い、また走っていった背中を見つめていたのを覚えていた。

「──相内。相内!」
「うわっ!はい!……あ。花井くん」
「お前、ちっと寝てたぞ?仕事ないならちゃんと見とけよ!」
「は、はい……」
「もー6回おわったぞ」
「えっ!」
「お前……」

上から、半分覆いかぶさるように覗き込んでいた花井くん。呆れ返った様子である。一気に覚醒してスコアボードを見ると、0対8で今から7回。…………。「……目、開けたまんま寝てたや……」守備に走ってった花井くんの背中を見て、呟く。夢に見ていた光景がフラッシュバックした。「相内、大丈夫?」ドリンクを片手に西広くんが隣に座る。「だいぶ寝てたよ」

「昨日ちゃんと寝た?」
「あ……うん、大丈夫。試合、このまま抑えるとコールドだねっ」
「ああ、花井がさっき2打点入れてさ。この回5番に回るけど、多分次座るんじゃないかな」
「そ……なの?」
「うん」

アナウンスで、4番からだと知る。西広くんの言葉に前を向き直すと、ちょうど三橋くんが球を放るところだった。4番は確か、キャプテンだったはずである。ショートがフライを捕って、ワンアウト。次は5番で、阿部くんがいつも立って敬遠の姿勢を見せていたのが、今は座っている。……勝負、するんだ……。外野は揃って下がっているし、ベースマンは気合いを入れて構えている。静かにバットを構える打者を見据えて、三橋くんは、投げた。


「うーす。おつかれー」
「出る前にも一杯飲んどこ」
「花井のかーちゃん達外いんだって」
「おっ 昼……オレ……」
「食うのは後!!つかこん中食えねーよ」
「カントクーアイス食べたいでーす!」
「誰かタオル余ってねー?」
「たぶん親もってっぞー」
「頭ムレる!」

「ほら、斑ちゃんも」千代ちゃんに肩を叩かれて、わたしも立ち上がる。タオルや着替えの入っている、大きめボストンを手首に通し、ローラーブレードのふちを掴んで出口へと歩く。監督さんと目が合って、わたしはふと何かを言いたくなって、なったけれど──結局言葉が出て来ずに、流れた。「どしたの相内」後ろから水谷くんの、声。立ち止まっていたせいで、つっかえていたみたいだった。

「あ、ごめんね……」
「別にいーけど。また寝てた?てかよくモモカンに怒らんなかったねー」
「……水谷くん、ごめんね」
「ん?いーって。早く行こ!」
「そっちじゃないんだけどな……」

さっき八つ当たりみたいなめちゃくちゃなこと言ったことに対して、なんだけどな。ばかって、言っちゃったし。当たり前のように手を引かれるまま、わたしは出口へと忙いだ。みんなは先に行ってしまっている。「制服着替えてー差し入れ食べてー」指折り数えてにこにこしている水谷くんを見て、監督さんにも、あとで謝ろうと、思った。

「あらー!あなたがマネジの相内さん!?」
「桐青の時は、ちゃんと会えなかったものねー!」
「女の子ねえー!」
「こんにちは、斑ちゃん!差し入れのアイス、よかったら斑ちゃんも食べてー!」
「こ、こ……こんにちはっ……」

この前会った阿部さんと花井さんに、水谷さんと泉さんと西広さんと三橋さん……なんか部員さん達のことくん付けで呼んでるせいでややこしいけど。クーラーボックスを持って、暑いのに、近くのコンビニで買ってきて、西浦野球部を待ってて下さっていたらしい。慌ててお辞儀をして、着替え中の部員さん達がズルイズルイって騒いでいるけど気にせずに、花井さんのお言葉に甘えて、アイスをひとついただいた。バニラソーダの棒アイスである。袋をはがして口にくわえると、ひんやりとさわやかな味が、水分不足の口内にじんわりしみた。「斑ちゃん」声をかけられて、振り向いた。監督さんだった。

「……ふぁ、は、はふ」
「くわえたまま喋らなくても……」
「ふ……はい。そですね……」
「寝てた?」
「う……あの……すみません……」
「データ整理とかでいっつも無理してもらってるんだから、文句はないわ。感心出来ないけどね」
「……はい。あ、あの、それだけじゃなくて、あの、わたし……わたし監督さんに謝りたいことがっ──」

あるんです、と続けようとした時、ピピピピピピピ、と軽量な音が鳴る。わたしのバッグからだった。「…………」なんだか気を削がれた気がして無言で固まっていると、「出ないの?」と首を傾げる監督さん。……なんか、謝れる雰囲気じゃないかなぁ。人いっぱいいるし、深い話も出来ないし。曖昧に笑って、ボストンから手探りに携帯を掴んで通話を押そうとすると、切れた。……タイミングも、悪い。かけ直そうとして表示を見ると、どうやらそよぎちゃんからの電話だったらしい。そして何気なく着信履歴を見て──驚愕した。

「……斑ちゃん?」
「に、にひゃく……っ?」

着信履歴、287件。
どんなホラーだ。
びくびくしながら詳しく見ていくと、どうやら287件のうち286件はすべてかなめちゃんの携帯からかけられたもので、1件がそよぎちゃんのということで、恐らく今かかってきたものだ。これ……どうかければいいんだろう。とりあえず最新のそよぎちゃんのとこにかければいいのかな。かなめちゃん、そよぎちゃんと一緒にいるのかもしれないし。西浦のみんなから離れて、そよぎちゃんにコールした。ツーコールで繋がった。

「──斑!?」
「あ、そよぎちゃん?試合、いま終わったよ。勝ったよっ」
「斑いまどこいる?ひとりなの?」
「ううん。球場から出たとこ。部員さんや監督さん達といるよ。学校、帰るよ?」
「……学校帰んないで、今すぐ聖んちに来れる?なるべくすぐ」
「それは、いいけど。かなめちゃんもそこにいるの?着歴すごいんだけど」
「……ケータイの電源切って、いますぐ走っといで」
「え?なん」
「いいから!」

ブツッ、と切られた。
何が何だかわからないまま、とにかく初めて聞いた、そよぎちゃんの真面目に必死な声にせき立てられて、言われた通りに携帯の電源を落とした。固まってワイワイやっている西浦のみんなの中から監督さんを呼んで、事情を話した。快く──かどうなのかはわからないけれど、わたしの頭を撫でて、監督さんは了承してくれたのだった。あとでわたしから連絡します、と言い残して、わたしはローラーブレードを装着し、土からアスファルトの地面へと、駆け出した。


聖ちゃんの家は、お父さんが電気メーカーの社長さんだとかで大きくて見た目おしゃれな感じの一軒家である。息の整わないまま呼び鈴を押すと、インターホン越しの確認もなく開いた玄関の大きな扉からはいちごちゃんが出てきた。「斑!」相変わらず今日も、ピンクの可愛らしい服を着ているいちごちゃんは、何故か少し泣きそうな表情で門を開け、わたしの腕を掴んで中へと引っ張った。連れて行かれた先は、どうやらリビングらしい。

「斑!」
「遅いよ、バカ!」
「え、えっ……」
「落ち着かないか、阿呆。見ろ、訳もわからずぽかーんとしているじゃないか」
「でもだって……っ佐野山が冷静すぎんだよ!」
「ちょっと落ち着いて聞いてよ斑、いい?あのね?」
「はいはーい、茜さま特製☆ケチャップごはんの完成だよー」

テーブルに着いていたのは、そよぎちゃんとひじりちゃん。わたしの姿を確認するなり、駆け寄ってきて今にも掴みかかってきそうな勢いでわたしの肩を揺らす。間抜けな顔をして唖然と聞いていると、その2人分の手を、静かに壁に寄りかかっていたいくちゃんが、外してくれた。そして眉を寄せて苦しげな表情の2人を静かに制止する。ただし難しい顔を崩さないいくちゃんを見つめていると、キッチンからあかねちゃんが出てきた。「とりあえずさ、食べようよ」発言するのは、いちごちゃんである。一同、その通りに、テーブルに着いた。ソファで眠っていたらしいしころちゃんも合わせて、なぜか食卓の時間となった。

「はい。それじゃー元気に手を合わせて下さい。いただきます!」
「いただきますっ!」
「いただきまーす」
「いただきます」
「…………」
「…………」
「…………」
「ちょっと錏、食べるんならせめていただきます言ってくんない?まぎらわしーわ」
「……めんど」
「そして戦に聖。あたしの作ったもんが食えないってケンカ売ってんの?気分じゃないのはわかるけど、腹減ってんなら詰め込んじゃいなさい」
「……うん」
「……いただきます」
「気分──って?」

茜さま特製☆ケチャップごはんをスプーンで一口、すきっ腹にぶちこむ。おいしい。わたしが恐る恐る発言すると、暗い顔をしたままのそよぎちゃんとひじりちゃんは、顔を見合わせたけど、何も言わなかった。けだるげなしころちゃんに、食事に専念するあかねちゃんの代わりに、いくちゃんが軽い咳ばらいをした。

「まずは試合、お疲れ様だったな。勝ったと言ったろう?次も応援してるよ」
「あ、ありがとう……」
「……園田の部屋には今、『ヒヨコの癖して青』が居るわけだが……」
「ひよこちゃん?そういえば──」

──そうだ。
いちごちゃん。
ひじりちゃん。
しころちゃん。
あかねちゃん。
いくちゃん。
そして、
そよぎちゃん。
このメンツには──
2人ほど、足りない。

「──いないね。ひよこちゃん、なに、ひじりちゃんの部屋にいるの?」
「閉じこもっている」
「閉じこもる?」
「引きこもりだ」
「引きこもり?」
「立て篭もり、だ」
「……どれなの?」
「泣いている」
「…………」
「……お前は何も悪くはないが、まあ、これに関してはお前のせいなんだ」

いくちゃんは、険しい顔のまま、けれど至って平静にケチャップごはんを食べる。わたしはいくちゃんの言葉の意味がわからなくて、ぐるりと丸いテーブルに着くみんなを一瞥したけれど、わたしと目を合わせてくれたのはいくちゃんだけである。よって、事情を説明してくれる気があるのは、いくちゃんだけということになる。

「どういうこと、なのかな?」
「……切ろうとしたんだ」
「……え?」
「切ろうとしたんだと。ヒヨコの髪を」
「……髪」
「あいつのダラダラ長い伸ばしっぱなしの髪を、ハサミでこう……スパッと。お前の髪の、長さまで」
「……それは、えっと……」
「『かなめちゃん』が、だ」
「…………」
「食い終わったら、あいつ……ヒヨコに会ってきてくれないか。会って、『見て』きて欲しい」

伏し目がちにそう言って、いくちゃんまでもが沈黙した。わたしもそれきり何も言わないまま、スプーンでケチャップごはんをつつく。あかねちゃんの「コーンも買って来ればよかった」という呟きが一度、聞こえた。

「突き当たりを右だよ」ひじりちゃんの部屋の、扉の前に立つ。一応、中の様子が窺えないかと思って耳を近付けてもみたけれど、何も聞こえてはこないので、軽く2回、ノックをした。「ひよこちゃん?」返事はない。わたしはノブを回し押して、中に入った。
「ひよこちゃん……」
「……斑……?」

涙混じりの、ひどく弱々しい声だった。暗い室内で、ひよこちゃんは背中を向けてソファに座っているために、表情は窺えない。電気をつけてひよこちゃんに近付いてみたけれど、こちらを向いてはくれなかった。ただ、髪の毛だけが、背中の上部でまばらに切られている。

「……ひよこちゃん」
「──こわかった……」
「…………」
「こわい……」
「ひよこちゃん」
「かなめが、こわいよ……っ」

ひよこちゃんの座る正面のカーペットに座って、その背中を見つめた。声は少しかすれていて、鼻をすする音も、嗚咽も聞こえてくる。明らかすぎるくらい、泣いていた。

「あたしに言うんだ、同じにしろって……髪の色も、そうだったんだ……あたしに、斑と同じにしろって……。はじめは気付かなかった……ただ、ちょっとしたオソロにって、あたしもいいかなって……でも、気付いたら、髪型もメイクも服も小物も部屋も、喋り方まで……あの時から、そうだ。たまに、あたしのことすごい目で見るんだ。間違えたら、目が凍るんだ。斑とちょっとでも違うと、すごく冷たくなる。怖い。要が怖い。それまでは普通だったのに。クールだけど優しくて、たまに笑って、ちょっと斑に過保護なくらいだなって、それだけだったのに、大好きだったのに、怖い、怖いよ、でも嫌なんだ、要に嫌われたくない、よ」

チョコレート色の髪の毛。
手首から消えたアクセサリー。
日に焼けた肌。
すっぴんの顔。
同じ色。
同じだね。
同じ。

ねえ斑、あたしどうすればいい?ひよこちゃんはわたしを見ないまま、弱々しく尋ねてくる。わたしは答えるすべを持たない。かなめちゃんが何を考えているかなんて、わたしにはわからない。かなめちゃんがいつも、何を愁いているのかなんて、わたしにはわからない。ただかなめちゃんはずっと、ずーっと、わたししか見つめていないことを、確信していただけだった。


ピピピピピピピ、と、鳴る。
二つ折りの携帯を開いてボタンを押す。耳にあてると聞こえた声は、無性に瞋恚の情を掻き立てた。

「あ。もしもし斑ちゃん?今どこ?ちょっとマクド来れないかなあ。次の試合までの練習メニューとメンバーについて──」
「……やめてください」
「え?」
「やめてください!」
「……斑ちゃん?」
「もうやめて下さい。そんな大切なことを、わたしに相談しないで下さい!」

何なんだ、一体。
かなめちゃんも、
そよぎちゃんも、
ひよこちゃんも、
監督さんも、
その他のみんなも、
一体わたしに、
何を求めているんだろう。
わたしに何ができる。

「……もう、止めましょう、こんなの。続けてたって、いいことなんかない。無理して周りに合わせていたって、いつか壊れちゃうんだから。こんなことしていても、どうせ無くなっちゃうんだから。無理だし、無駄なんだもん」
「……斑ちゃん。今どこにいるの?教えて」
「ち、違うんだもん。わたしが好きな野球は、こ、こんなんじゃ、ないん、ないんだもん。バ、バント──スクイズとか、犠牲、フライとか、敬遠──とか、そ、そんなんじゃ、ないんです、こんな野球、わ、わたしは、嫌、なんです、気持ち、……気持ち悪いんですよぉ!」
「……待って」
「こ、こんな野球、わたし嫌い、キライです、嫌いで、だ、だからやめ、辞めるんです、合わないんですよ、わたしと、カントクさんの野球観は、あ、合わないんです、だ──だか、だから、わたし、辞めるんです、や、辞めさせて下さ、下さい、おねがいしま、します、から……ごめ、なさい」
「………待って斑ちゃん、切らないで。今そっちに行くか」
「さよなら」

通話を切る。
電源を落とす。
繋がりはなくなった。