「────さあ田島くん、それでは教科書40ページを朗読してください」 「はーい!物質量と濃度!物質の基本リューシはきわめて小さく、そのまま扱うのは不便である!そこで、炭素原子の質量を基準に定め、他の原子、分子、イオンなどの質量は、この基準にもとづくソータイテキなアタイであらわされている!」 「はいっ。じゃあここまで読んで、わからないことはあるかなっ?」 「はーい!」 「はい、田島くん」 「ソータイテキってなんですか!」
試験休み。 放課後の図書室。 勢ぞろいの野球部。 広げた教科書。 テスト勉強である。
何故かわたしが田島くんを任されたのでこうして顔を突き合わせてお勉強モードになってみているのだけれど、元気に手を上げた田島くんを見て、本当の本当に赤点の危機なんだなあと痛感する。わたしとしては西広くんに教えてもらった方がわかりやすいと思うんだけど、西広くんは西広くんで三橋くんに古典をレクチャーしているようで忙しいらしい。西広くんの周りには三橋くんの他にも栄口くんや阿部くん(多分見張りだろう)や沖くんもいて、一緒に勉強しているようだ。花井くんは泉くんと千代ちゃんと数学。そしてわたしの周りには田島くんの他に巣山くんや水谷くんなんかがいて、水谷くんが「相対的は相対的だって」とか言っているのを聞いて軽く息を吐き、説明するべくわたしは息を吸う。
「そうだね……じゃあこうしようかっ。例えばここに、3人の人間がいるとします。ていうか田島くんと巣山くんと水谷くんがいますね。それぞれみんなの体重を、30kg・60kg・150kgと仮定しましょう」 「えええ!おれ150キロー!?」 「オレ30キロ!軽っ!」 「60のオレはどう反応すればいーの?」 「私語はつつしむのっ!……えっと、それで、田島くんを物語の主人公と考えます。そこでは田島くんが基準です。田島くんの素晴らしい運動神経を1とすると、他のみんなは0.25になってしまうような世界です」 「オレすげえっ!」 「田島の4分の1!?」 「そうすると、30kgの田島くんの相対質量が1とすれば、60kgの巣山くんの相対質量は一体何になるでしょうか?はい田島くんっ」 「オレわかるよー!巣山はオレの2倍だから、2になるっ!」 「正解。それでは、150kgの水谷くんの相対質量は何になるかな?水谷くんっ」 「えー、だからオレ、そんなに重くないんだってばぁ……150は30の5倍だから、5になるんじゃないの?」 「そうです。この場合、基準の田島くんよりも体重が重い2人は、《重い》んだよ。うん。それでは次は、真ん中の体重の巣山くんを基準とします。その巣山くんの相対質量が10のとき、田島くんの相対質量は何になるでしょう巣山くん」 「田島はオレの半分だから、5だよ」 「そうです。じゃあ田島くん、水谷くんは一体いくらになるでしょうか?」 「えーっと……60キロが巣山で10だから……150キロの出し方は……」 「あっオレわかっちゃったー!比を使うんだぁ!」 「比?てなに?」 「オレの相対質量がわかんないからXにして、《60:10=150:X》になって、内々外々だから答えは25!」 「あっ、そっかぁー!」 「水谷くん大正解!正解者には飴ちゃんをプレゼントっ!」 「やったー!」 「いーなー!」
「……相内って、大変だな」 「ありがとう巣山くん。飴あげよっか」 「アリガト…………」
ナルホド。 水谷くんと田島くんをわたしに預けたのは褒めておだてて飴あげて無理にテンションを上げさせるようにするためか。飴ちゃん一つで一喜一憂している水谷くんと田島くんを見て、悟る。
「この場合はさっきと違って、巣山くんが基準です。つまり、60kgの巣山くんから見ると、田島くんは《軽》く、水谷くんは《重》いことになります。さらに水谷くんを主人公とした場合によると、2人は水谷くんよりも軽い訳だから2人とも《軽》く、相対質量も《小さ》くなるのです。……つまり相対というのは、一つのものを基準にして見るってことで、化学じゃあさっきの主人公が原子のC──つまり炭素になるんだ。原子は小さいから重さなんて量れなくて、だから炭素の相対質量を12と決めておいて、そこから他の原子の質量を計算するんだよ」 「炭素が主人公なの?」 「うん。だからさてここで問題集の28ページ例題7をご覧ください。これはアルミニウムの相対質量を求める問題だね。さっき水谷くんの使った《比》を使って、3分以内に解きましょうっ!」
ストップウォッチのスタートを押して、口を閉じた。田島くんと水谷くんと巣山くん。このメンツで言うと巣山くんが浮いているように見えるけれど、巣山くんもこういう化学に出てくるような小さな数の計算はあまり得意としていないようなので、今も問題集をまじまじと見つめて、真剣に、シャーペンを走らせている。「10のマイナス23乗?」という声には「切り捨てて計算した方が楽だよ」と返しておいて、花井くんがこっちを見てすまなさそうな表情をしているのに苦笑で手を振っておく。……花井くんも頑張ってるんだよね。だってキャプテンだもん。でもこのテンションについていくのは出来なかったんだよね。
「相内、出た!」 「いくら?」 「27になった!」 「はい正解。みんな合ってた?」 「はーいっ!」 「……はーい」 「それではみんなに飴ちゃんを配りまーす。田島くんはレモンで、巣山くんはりんご、水谷くんはいちごだねっ」 「わーい!」 「わーい!」 「…………え、これもオレ、乗らなきゃダメなの?」
半ば絶望したような声で巣山くんが尋ねてきたのでなんとなく頷いてみたらしばらく黙って、やがて本当に小さく「わーい」と呟いた彼の表情は一生忘れない。なにかを捨てた瞬間だった。気を取り直して次の問題をやってもらっている間に周りを見るけどみんな真面目に勉強しているので、仕方なく携帯を開いて誰かとメールすることにしようとアドレス帳に目を通していくのだけれど────はた、と気付いた。あれ?どうしてわたしは、メール相手を探しているのだろう?暇だからメールしたいっていうのは別に不思議じゃないけれど──その相手を選ぶというのは、今までのわたしからしてみれば、かなりおかしい。だって、だってそんなの、──かなめちゃんを選ぶに決まっていたじゃないか。探すまでもなく、無意識に、当然のようにかなめちゃんを選ぶと、決まっていたというのに。少なくとも、昔からわたしはそうだったはずだ。おかしいし──不思議だ。なんか、気持ち悪い。こんな、こんな、勉強会なんかして。男の子たちと。別のクラスの女の子と。かなめちゃんがいるわけでもないのに────こんなことして。まるで友達みたいじゃんか。て、いうか。友達って、なに。
「──相内?」 「…………え。ん、ん?」 「どした?ボーッとして」
意識を飛ばしていたせいか突嗟のことで力が入らずにガクッ、と身体が前後に揺れてそのまま後ろに倒れそうになったのに気付いたと思ったら花井くんが支えてくれていて、「どんくせえな」と花井くんの肩ごしに見る阿部くんが呆れていて、泉くんや千代ちゃんや三橋くんが心配そうな顔でわたしを見つめている。
「……ど、どうしたの?」 「どうしたのはお前だろ!さっきから呼んでんのに返事しねーし、なんか顔青いしで肩揺すったら倒れそうになるし」 「…………え、え──ごめ、回転数が、今ちょっと、ついていかない……」 「具合ワリーの?」 「え?いや──大丈夫、かなっ?」 「首傾げんなよ……ホント、もう帰るか?それか保健室で寝るとかなら送るし」 「ううん。大丈夫、大丈夫」
首を傾げるなと言われたので今度は首を振ってみると「そっか?」と花井くんはまだ心配そうな目でわたしを見ていた。肩に置かれた両手で、最初のあの揺れは花井くんがわたしの肩を揺すったせいだったのか。完全に身体に意識を宿していなかったようなので、全く力が抜けていたみたいだった。「大丈夫なら、勉強見てやってよ。後ろの、わかんないトコあるみたいだから」花井くんがわたしの背後に向けて指をさすので椅子ごと振り返ってみると田島くんと水谷くんと巣山くん。──ああそっか、今、勉強中だったんだ。
「大丈夫かー?」 「オレら落ちつきなかったから疲れちゃったー?ごめんねー?」 「相内!ほらっ、チョコ食べて元気出せって!オレチロルもってるー!」
田島くんが両拳をこちらに突き出してくるので手のひらを差し出せば、パラパラといくつか小さな四角い包みのチロルちゃんたちが両手に収まって、わたしの目を輝かせた。ほんと、疲れ、吹っ飛んじゃうかも。
「こんなにいっぱい!?」 「勉強のおれい!」 「あ、ありがとうっ!」 「そんでさぁっ、アボカドロ定数って、なに?」
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