「…………勉強会?」
つい聞き返してしまうと、目の前で顔を紅潮させた三橋くんは勢いよく何度も頷いた。昨日三橋くんに渡したマドレーヌはちゃんと全て三橋くんの胃袋に消えたらしく、渡した時にも言われたありがとうと、それとおいしかったを噛みながらも一生懸命に伝えてくれた三橋くんは可愛らしかった。聞いたところによると昨日が三橋くんの誕生日だと知っていたのはどうやらマネジ陣だけだったようで勉強会をするために行った三橋くんの家でそれが明らかになりそのまま誕生日パーティーへと突入したらしい。今朝の三橋くんはとても幸福に満ち足りた表情で登校して来ておはようと挨拶して今に至る。下足で会って一緒に来たらしい阿部くんが「お前学年トップなんだって?」と言うので何処からそれをと噛みつけば阿部くんの口から出てきたのはかなめちゃんの苗字である橘。かなめちゃんが出てくるのならば仕方ないかなあと思って「そんなこと喋る程度にはかなめちゃんと仲良いんだね」と言うと苦い顔をされたので、どうやらそこは微妙なようだった。
「頭良いんだったら、教えに回ってくれねーか?田島と三橋がヤベーんだよ」 「んと……勉強会って、放課後?」 「そうだけど」 「く、暗くなる頃に帰っていいんだったら、お手伝いさせていただきます……」 「あ、門限とか?」 「ううん」 「心配しなくても、帰り送るぐらいの甲斐性はオレらあるけど」 「そうじゃなくてっ、わたし夜はバイトだから…………」 「バイト?」 「家庭教師」 「家庭教師?」 「榛名先輩の」 「…………はあ!?」
ひぃ、情けない声が反射的に漏れて阿部くんから目をそらす。ふと見ると三橋くんも怯えていた。うん。阿部くん、こわいよねっ。三橋くんと頷き合っていると「なにやってんの」と、顔を両手で挟まれて阿部くんの方に向くを余儀なくされてしまった。
「何だそれ!」 「え、えっ、あの……」 「家庭教師って、お前年下だろ!?」 「で、でも先輩ばかだからっ」 「はあ!?そーゆう問題でもねえだろ……って、あー。そっか──だからお前ら、仲良さげなワケね……」 「別に仲良しじゃないですけど。先輩の高校と定期考査の期間被ってて、夜は勉強教えに伺わなくちゃいけないんです」 「…………ていうか、お前うちのマネジだろ?部員困ってんだからこっち優先してほしいんだけど」 「だめです。お金もらってますから」 「アイツ払ってんのか……!?」
正確に言うとお金を払ってくれているのは先輩のお母さんなのだけれど、訂正する間もなく阿部くんは眉間の皴を増やしてしまったのでまたもや三橋くんは一瞬びくりと震えた。色んなところで何かしらの衝撃を受けたのか否か、阿部くんは「あー。ならギリギリまででいーから来て」疲れたような声でそう言って、さっさと自分のクラスへ帰って行った。どうやら7組を通り過ぎてここまで来たのはわたしにこのことを頼むためだったのかもしれない。副キャプだし。でもごめんなさい、お金を頂いている分はちゃんと働かなくちゃいけないのである。
「三橋くん、勉強がんばろうねっ」 「う、ヒ──あ、あの、おいしかった、から…………その、あ、あり、」 「どういたしましてっ」 「エ、エヘっ」
「……で。そういう訳で西浦もテスト期間に入りまして。野球部員さんの勉強も見ることになってしまいまして」 「……で?」 「ここ来る時間、減らしたりとか」 「無理」 「…………早っ!」 「ぜってぇ無理」 「そ、そこをなんとか……」 「夕方まででいーんだろ?だったらこっちの時間減らす必要ねえだろ」 「そうなんですけどっ」 「けど?」 「罪悪感が……」 「んなもんオレが知るか」
プイ、と、そっぽを向いてしまった榛名先輩。向きながらもシャーペンはたどたどしくも数式を並べている。……ええ、断られるだろうことはわかってはいましたけれども、やはり一応聞いておくことで『わたしも野球部なのに』といった部類の罪悪感を少しはまぎらわせることも出来る。空が赤くなってきた頃になって図書館に置き去りにしてきた学力危機者の2人と、理系に悩む多数の部員さんが脳裏をよぎる。西広くんと花井くんだけで、あの人達全員を賄うのはやはり至難なのだろうから、出来ることならわたしでも何か役に立てればいいのに。今のところ席が隣の泉くんにしかあまり貢献出来ていない気がして心なしかへこんでしまう。だって、せっかくわたしが出来ることなのに。……それでも、ここへは善意だけで来ているわけではないから、仕方ないことなのかもしれないけれど。「仕事しろ仕事」拗ねたようなむくれたような、そんな風に唇を尖らせて言う先輩に「勉強しろ勉強」と真似てみたら怒った先輩にのしかかられて脳天をぐりぐりされた。
「いたっ、痛いっ!」 「オレだってなあ、試験やべえんだっつうの!試合出れねかったら、先輩にマジ殺されんだからなっ!真面目にやれ!」 「ごっごめ ごめんなさいいっ!」
離してもらってしばらくするまではフラフラする頭でなんとかログを説明することに成功した。「右側になら乗せていーぞ」と練習問題を解きながら言うので大人しく寄って、そのがっちりした肩に頭を任せることにする。自分がそうしたくせにまるで自分が寛大であるかのような口調に少し笑いながら、安定させるためにその首元に固定させた。距離が近いので、さっきよりもノートがよく見える。
「あ。先輩、そこ間違ってます。なんでlog2の32が16なんですか。2を16乗したら32になるとでも言うんですか?」 「うっせ。習いたてはこんなもんだ」 「習ったのはもっと前だと思います」 「耳の近くでポソポソ喋んな。カユイ」
あ。ごまかした。
どれだけ勉強がやばくても「睡眠不足は敵だ」とか何とか、わたしよりもよっぽど乙女なことを言う榛名先輩の睡眠時間をきちんと確保するために、それからしばらくして、先輩のニアミスを撲滅したところで今日はお開きになった。送って行ってやろうか、とよく言われるのだけれど、わたしはいつものごとくお断りする。わたしにとって、夜道は危ないとかいう話ではなく、ただ単純にひじりちゃんとの約束(「合コンは無理だけど深夜のカラオケならいくらでも付き合うよ」みたいなことを言った)を守りに行くのである。本当に毎晩のように呼び出されるから、あの時ああ言ったことをほんの少しだけ後悔しつつあるということは内緒。それにあのひじりちゃんの笑顔を見れば、また行こうかな、という気持ちになってしまうのだから、ひじりちゃんマジック。先輩の家を出て、駅の近くにあるカラオケBOXまでローブレで滑り出した。ひじりちゃんからのメール(『ジャンヵラぃるょ(はぁと)』)を見て見事に一字飛ばしで小文字使ってるなあなんてどうでもいい発見をしながら、暗い夜道を携帯の光で乗り切った。とは言っても駅周辺には住宅の灯りより遥かにまぶしいネオンが散らばっているので、ここにいるだけで視力悪くなっちゃいそうだなあ、なんて。色んな食料品店の混ざった匂いに鼻をやられながら、ローブレを滑らせる。
と。
「あっ!」 「あーっ!」 「……あ」 「ああ」
いつかのように、ローブレで走っていて前方不注意で見知らぬ男の子にぶつかって跳ね返って地面に尻餅をついたわけではないのだけれど、何故か目の前にはいつぞやの桐青の男の子達がいたので反射的に声をあげると、金髪がふわふわと綿毛のようなかわいい感じの男の子(利央くん)がわたしのことを指さして、黒くて長めの髪の毛の男のひと(準太さん)や、がっちりとした体格の大きいひと(和己さん)も、わたしと同じくびっくりしたような顔をしている。あ、なんか知らないひともいる。怖い。と思ったら、利央くんがにぱっと笑顔を見せた。
「斑、チャン?オレのこと、覚えてるぅ?」 「えっと、たんぽぽさんではなくって、利央くんだねっ」 「あ!また言ったァー!」 「ぶはっ!」 「…………準太」 「ぶくくくくく……斑、って呼んでい?オレ、前名乗ったけど、準太。高瀬準太な」 「あ、はいっ、お好きにどうぞ!相内斑ですっ」 「オレは仲沢だよォ!」 「こら利央、はしゃぐな」 「これ和サンねェー!」
「河合和己です」と、わたしなんかよりは遥かに大きいのに、とても丁寧な言葉で軽く頭を下げてくるので、わたしも慌ててお辞儀した。ていうか準太さんはいつも笑いを堪えたような表情をしているなあ。(いや実際堪えているんだろうけれど。)利央くんはわたしの両手を握って上下にブンブン振るし、弾けたような笑顔がわたしにはやっぱりたんぽぽに見えてしまう。わたしは先程教えていただいた苗字を名前と一緒にインプットする。
「えっと、仲沢利央くん」 「はァい」 「高瀬準太さん」 「うす」 「河合和己さん」 「はい。で、相内斑さん」 「はいっ」 「で、島崎慎吾クン」 「はいっ。……え?」
なんか今。 聞こえたぞ?
利央くんがわたしの方を見てまたもや指をさして「慎吾サン!」と言うので後ろを向くといきなりすぐ前に男のひとがいたので驚いて後退った。利央くんの胸にぶつかって、謝って、またそのひとの方を向くと、ニコニコ笑顔の男のひとがいる。え、え、何?だれ?なに?
「斑チャンっていうのー?」 「ひゃ、しゃべった!」 「そらしゃべるよォ」 「慎吾、いつの間に回り込んだんだ?」 「和が利央の世話してる間に」 「オレ動物じゃないよォー」 「ザンネーン人間も動物の一種なんだなぁバカ利央」 「和さァん!あんなこと言う!」 「慎吾サン、利央はアホっすよ」 「あ。そっか」 「ひどいー!」 「────あは、」
──ふ。と。仲むつまじい様子に、友達の姿がタブって見えて、笑った。笑うと、わたしの存在を思い出したようにハッとした顔でこっちを見てくるので笑ってすみませんと謝ってから、慎吾さんと呼ばれていたひとに向かい合った。常に笑みを構えているような、そんなひとのようで、目が合うとにっこりと笑む。
「あ、えっと。斑です」 「オレは島崎慎吾。よろしくー」 「斑斑!慎吾サンと手ェ握ったら、妊娠しちゃうよォ」 「えっ!それは、困るっ」 「りおーお前!」
差し出された手を引っ込めたら利央くんがほっぺた伸ばしの刑に処せられた。「つーかお前ら、いつの間に他校の女の子とお近づきになってんだよー」慎吾さんが意地悪みたいに準太さんの腕をつつきながら何故かわたしの肩を抱いてくるのを和己さんが助けてくれたり。わたしとお3方が知り合ったなれそめを説明すれば慎吾さんは利央くんを指さして爆笑だった。「た、たんぽぽ!」──たんぽぽのどこが、笑い所なのだろう。
「オレらの学校──あ、オレら桐青なんだけど、今テスト期間でさ。部活ないから勉強しようと思ってたんだけど」 「ちょうどグローブとかミットの手入れする道具きれちゃってェー」 「ここいらのスポーツ用品店に買いに来たってワケ」 「本当はもっと早く終わってたんだけど、利央がクレープ食べたいとかアイスとかにつられて長引いてたんだよ」 「はぁー……利央くん、甘いもの、すきなのっ?」 「大好きー!特にチョコとかァー」 「チョコレート!?」 「斑も好き?」 「だ、大好きっ!」 「オレも好きィー!」
「つーか、斑はなんでこんな時間に出歩いてんの?」と準太さんが尋ねてきたから手を取り合って飛び跳ねて喜び合っていたわたしと利央くんは地に足をつけて、友達の待ってるカラオケBOXに行く途中なんですと言えば慎吾さんが「え、じゃー時間やばくない?」と言うので携帯で確認するともう9時45分。30分は待たせている。
「……ひじりちゃん、待ち惚け……」 「ごめんな、なんかオレら引き止めちゃって」 「ごめんねェー」 「あ、いえ、大丈夫ですよっ。けどそろそろ行かなきゃ泣いちゃうかもしれないので、すみませんけど失礼しますねっ」 「あ。ねーその前にメアド教えて!」
へ?と聞き返せば慎吾さんがどことなく大人っぽいような意地悪っぽいようないやらしいような、そんな笑顔で「ケータイ貸して」と言うのでつい言う通りにしたら返ってきた携帯には『ダーリン慎吾さま』が一件入っていたから心中ちょっと引いた。
「あー!慎吾サンオレにも送ってェ」 「やだねー。だってオレのだもん」 「斑ー!オレにも教えてェ!?」 「へ!?う、うんっ」
捨てられた子犬のような瞳にドキッとしながら赤外線送信。届いたのを確認したみたいで途端にまたかわいい笑顔になる利央くんの携帯をひったくった準太さんが何やら操作をして、それからすぐに準太さんの携帯が鳴る。あ。FLOWだ。「あー!準サンずっこおー!オレが教えてもらったのにィ!」準太さんは聞く耳持たずで和己さんにも回していた。…………うーん。そろそろ離れてもいっかな。「それじゃ」と、手を振ると、振り返してもらえたので、いい人達だったなーと思いながら急いだ。
「桐青高校の高瀬準太ぁっ!?」
遅れてごめんねー、と、ひじりちゃんのいるカラオケBOXの個室にたどり着いたのが5分前の話で、テーブルに顎を乗っけて失恋ソングを歌っていたひじりちゃんに事情を説明した第一声がそれだった。彼らと別れてからここに来る途中までに来たメールを見せるとひじりちゃんは「マジ!?うそ!!すっご!!」と、目を輝かせて震えている。
「いーなーいーなーいーなー!斑斑、それって、すっごいプレミアなのよっ!?去年の優勝校のエースのメルアドを知ってる女子なんて、しかもそれが、あの爽やかルックス5つ星の高瀬準太くん(2年)のメルアドを知ってる女子なんて、この世に一体何人いると思うっ!?あたしもまだ笑いかけてもらったことなんか無いっていうのに!」 「り、力説……!」
あらゆる分野において広くアンテナを巡らせているひじりちゃんは、例えマイナーな専門雑誌であっても抜け目なくチェックするのが趣味である。
「ねー斑チャンお願いよーそのメアド5万で売ってちょっ☆」 「高っ!」 「ったりめーよ、この際、金にイトメはつけてらんないわよう!」 「で、でも売らないからねっ」 「けちィー」 「あ。でも、しばらくメールして仲良くなったら、教えていいか聞いてみるね」 「斑ナイスー!」
「ゲンキン……」変わり身の素早いひじりちゃんに呆れつつ、とりあえず4人に返信して、その間ひじりちゃんは何か歌う曲をサーチするのかと思いきや「斑!絵文字入れな絵文字!」とか「ハート!」とか、携帯を覗いて返信メールの内容に終始口を挟んでいた。
「ねー。そういえばさぁ」
ひじりちゃんが、マイクを使って話かける。ん?と返すと「もうすぐ試験だよね」と、ここ最近よく聞くワードを言い放った。ひじりちゃんは勉強をしなくても元から頭いい部類に属するらしくて、どうでもよさげな表情だ。……どうでもいいけどひじりちゃん、なんでしころちゃんとかそよぎちゃんとか連れとかないんだ。わたしが来るまでずっと一人で待っていたらしくて、テーブルには飲みさしのグラスがあるけれどそれは一人分で、まるで晩御飯もここで済ませましたのだとでも言うように空になったお皿の数々が並んでいた。一人じゃ危ないんだよ、と言ったけど、「でも今日は斑とデートだから」と笑うひじりちゃんは本当に、誰か守ってくれるようなひとを見つけた方がよかった。こんなすてきな女の子、ひとりだと襲われてしまう。
「あー。でもボディガードなら戦よりもむしろ佐野山でしょ?剣道だよ剣道」 「あ。大会で個人優勝だってねっ?」 「うん。うちの部でもケッコー大々的に取り上げたのよー。けどあいつアイソなくてさ」 「新聞部だねっ。野球部が甲子園行ったら、記事書いてねっ?」 「もっちろーん。マネジ特集」 「あは。選手選手っ」 「けどこんな密室で斑とデートしてるって要が知ったら、あたし後々すっごい怒られるわ(笑)」 「かっこ笑い。じゃないよっ!」 「でも斑忙しいしさー。ホントは休日にショッピングとか、斑も一緒に行きたいんだけどね」 「それはわたしも残念だなあ」 「錏はやる気ないし戦は無頓着だしで、佐野山は断るし要はそっけないし、茜も部活で結局はヒヨコとあたしと、時々イチゴ。3人なのよね」 「…………うーん」 「ここまでバラバラなグループもむしろ珍しいよね。でもなんか居心地いい」
マイクで喋る、ひじりちゃん。いつの間にか頼んでくれていたらしいオレンジジュースとポッキー(好物)が店員さんに運ばれてくる。ありがとうございます、と言うと、その店員さんはひじりちゃんに怪訝な眼差しを向けて、テーブルの皿を重ねて持ち、個室を出ていった。「あー、ちょっと食べ過ぎたからねー」けらけらと笑う彼女。…………どんだけぇー。
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