勝ち越しで何かを終えるということは、とてもすがすがしい気持ちになることができるものである。部員さん達もテンションが上がるし嬉しくなるし、厳しい練習を乗り越えてきた今日の自分を褒めてやりたくもなる。成功は次への意欲へと繋がるものであり、これは日々何かに挑む者にとっては、毎日のおいしいチョコレートのような効力を発揮するわけである。そんなわけで、全戦全勝を狙おうとわたしと監督さんは部員さん達に間違ってもプレッシャーなんかをかけたりはしないよう秘かにアイコンタクト。日曜日は、午前は普段の平日通りの練習、午後からは明日に備えて身体を休めるためもあって、最後の練習試合の前のミーティングをして早めに終わろうということになった。まあ、元々は試合相手の高校の開校記念日とこちらの代休日(土曜がオープンキャンパスで授業だったからその代わりに月曜が休みになったのであーる)が偶然にも重なっていたのでそのように仕組んだだけなのだけれど。そしてミーティングが終わって、まだ太陽が沈まないうちに解散することが出来たのでこれからどうしよう、と考えていた矢先のことである。かなめちゃんはそよぎちゃん達率いるストバス部の方々の溜っているフリーコートに観戦に行っているらしくて、別に試合とかではなくただの暇つぶしらしく、音も振動もしないようにしていた黄色の携帯にいつの間にか届いていたメールにはその旨が書いてあった。どうしよう、わたしも遊びに行こうかなあ、と思い携帯を閉じると、背景液晶がしばらく点灯して、フッと消えた。それをなんとなく見つめて、なんとなく、ああ今日は5月16日だったんだなあもう入学して1ヶ月以上経ったんだ早いなあとかそういうくだらない感想を抱いていると、ふと、わたしは気付いたのである。一度気が付いてしまうと何故だか無性にそわそわしてきて、どうしても行動に移したくなってくる。こういうのは、一度気付くと、とことんをとことんまで追求してしまいたくなってしまうのがわたしの悪い癖だ、と、昔はよくそう言われていた気がするけれど。千代ちゃんのミスドや田島くんのおうちへの誘いを断って、わたしはひとまず皆と別れた後、グラウンドを出て、公道を横切り、敷地へと入り、下足室へ向かい、ローラーブレードとズックとを取っ替えて、まっすぐに特別棟へと向かう。家庭科室、と書かれているプレートを確認して、迷いなしにその扉を引き開けた。
「……で。あたしの力を借りたいってわけなのね?」 引き開けたその先にいた彼女にそういう事情を話すと、目の前の彼女はいつも通りに不敵がまぶしい笑みを携えて、わたしが頷くのを満足そうに捉える。
「明日は三橋くんの誕生日だから、今までわすれてたんだけど、やっぱり何かあげたくって」 「──で?」 「それでプレゼント買うには好みがわからないし、押し付けがましい気もするし、でも三橋くん、食べ物なら喜んでくれるかなって」 「──で?」 「そう思うともう、あかねちゃんにしか心当たりがなくって」 「──で?」 「あかねちゃん。愛してる」 「よし。引き受けた」
交渉成立のハイタッチを決めて、わたしはあかねちゃんの城である家庭科室へと入ることを許可されたのであった。普段ならばこの城にはあかねちゃん以外の家庭科部員さんが忙しそうに楽しそうにクッキングに励んでいるところなのだけど、生憎とそのクッキングに代休日に学校へ来てまで惜しげなく愛情を注ぐような情熱家さんとなると、あかねちゃん以外には思いつかない。ここであかねちゃんに何かお菓子を習って、うまく出来たら明日の朝に家で作ってそれを三橋くんに渡そうというのが、わたしのプレゼントである。
「それで斑は何作りたいの?」 「んー……わたし、基本的にかなめちゃん以外の人に何かあげたことないからなぁ……よくわからないんだっ」 「じゃーここにあるような普通のもので何か、誕生日を祝えるようなものを作りたいのね?」 「うん。さすがあかねちゃんっ」 「もっとほめて?」 「大好きっ!」 「よーしいくらでも付き合ったげるこの天才パティシエ(将来の話)に、まっかせなさーいっ!」 「大好きっ!」
ノリのいいあかねちゃんが大好きだ。
「わたし、お菓子作りとかあんまりしないから、よく知らないんだっ。料理はするんだけどねー」 「ちょうどバターも買ったし、お手軽ってワケでマドレーヌとかどーよ?」 「うん。18世紀の半ばにロレーヌ地方のコメルシーで作られたものだねっ。タレイラン公に仕えてた料理人のアヴィスが考案したとか、マドレーヌっていう女の人が作ったとか、諸説が色々あるんだよねっ。おいしいよねっ」 「詳しいんじゃねえかよ」 「だって本買ったんだもん」 「本?」 「基礎から学ぶフランス菓子」 「聞く必要ないじゃんか」 「や。作ったことはないから」 「ん?」 「写真見て、おいしそうって」 「……斑」 「うんっ?」 「…………可愛くてよし!」
……いつも思ってるんだけど、ひよこちゃんやひじりちゃんやあかねちゃんは、わたしを、クマのヌイグルミか何かだとでも思っているのだろうか?ついでに抱きまくらでもないのだけれど。満足したのか、しばらくしてパッとわたしから離れたあかねちゃんはふわふわソフトウェービーの茶髪をひとまとめにくくり、マイエプロンをつける。わたしは予備のものを借りて装着。器具や材料をちゃっちゃと作業台に並べていくあかねちゃんは、なんだかデキル女って感じで、かっこいい。
「じゃ、まざぁ下準備から。斑、オーブン200℃余熱!」 「はいっ!」 「型にバターを塗る!」 「はいっ!」 「冷蔵庫で冷やす!」 「はいっ!」 「薄力粉とベーキングパウダー混ぜてふるう2・3回!」 「はいっ!」 「下準備おわり!」 「はやっ!」
思わず叫ぶと「ホント早いね」って返された。まあ、余熱してるから、早い方が断然いいか。あかねちゃんは「エライエライ」とにっこり笑って、本格的なマドレーヌ作りへと入っていった。まずはボールに卵を入れてほぐしグラニュー糖を加えて混ぜ、パータ・マドレーヌをつくるところまでをこなしていく。あかねちゃんはあくまでわたしの作るのを見て指示しているだけなのだけれど、間違いそうになったり、ポイントなどもちゃんと教えてくれるので、特にこれといった失敗を犯すこともなく生地を作ることになった。出来た生地は、マドレーヌ独特のぷっくりしたコブを作るために冷蔵庫で20分間休ませる。
「あ、そっか、ベーキングパウダーは水分と熱に反応してガスを発生させるから、焼く前にガスが発生しちゃうと焼いても欲しいだけのふくらみが得られなくて、だからできるだけ短時間で熱を取る必要があるんだねっ」 「この脳内不思議っ子ちゃんめ!」 「えーっ、でも、あかねちゃん専門行くんでしょ?多分、食品学とか材料学とかそういうの、いるよ」 「えー!あたし勉強ムリ!」 「今までどうやって作ってたの……」 「カン」 「カン……」 「試行錯誤」 「試行錯誤……」 「失敗は?」 「成功の母……」
超・短絡的なあかねちゃんは「エジソンの名言はあたしの道しるべ!」と笑う。そんな弾けるような笑顔を見ると、あかねちゃんは本当にお菓子作りが大好きなんだなあと思った。
「──にしてもあんた、よくやるわよねー。あたしだったら作っても男子にゃやらんわよ」 「み、三橋くんはエースなんだよっ」 「栄口から聞ーてる。……けどさ、なんかいーわよね。1年だけで、10人しかいなくて、でも甲子園目指すってのが」 「青春?」 「そー、それ。斑も青春してるって感じよねえ」 「え、そう?」 「そーだよー。手なんかマメだらけにしちゃってさあ、汗だく泥まみれで、男子苦手な癖して、男子に混じって野球してるあんたの姿見てると、なんかあたしも頑張れる気ィするわ」 「……えへへ。わたしも、あかねちゃんのお菓子食べるとね、なんだか幸せな気持ちになれてやる気が出るんだよ」 「よし。またなんか差し入れちゃる」 「あはは。わーいっ」
笑いながら、冷蔵庫から生地を取り出す。ちゃんと冷えているのを確認してから、絞り出し袋に入れて、たくさん並んだ貝殻の型に3分の2あたりまで詰めて、余熱しておいたオーブンに入れた。あかねちゃんいわく、きれいな焼き上がりは生地が型よりも縮んで、全体にこんがりした焼き色がついて、さらにふちには濃いめの焼き色がつくらしい。あとはそのタイミングまで待つだけ、となって、ああそういえばマドレーヌを作るおはなしって小さい時に読んだような気がするなあと、ふと思った。確か、えっと……こまったさん?いつも『こまった、こまった』とか言うひとみたいな感じだったような気がする。おひめさまに、マドレーヌの作り方を教えてあげる話だったような。じゃあわたしはおひめさまか。……似合わなかった。
「かなめちゃんの誕生日にはクロカンブッシュでも作ろうかなっ」 「そうねー。あいつあー見えて甘いもんスキだし、盛大に祝うか。いつなん?」 「まだ先だよ。冬生まれだから」 「はあん。じゃー茜ちゃん特製のオリジナル・シューでも考えとくかな」 「ところであかねちゃん、今日は一人でなにしてたの?」 「ん?ああ、新作。ガトー・ショコラ・ド・ナンシーの試作」 「ロレーヌ地方に古くから伝わるガトー・ショコラ、シンプルながらも好相性のナッツとチョコレートが奥深い風味を漂わせる、美食家といわれたポーランド王が余生をおくった地にふさわしいお菓子!」 「むっちゃ博識じゃねえかよ」 「本にそう書いてあったよ」 「一々覚えてらんないっつの」 「でも専門じゃ多分習うよ」 「…………うげ」
あかねちゃんは顔を歪めて、高校のうちに勉強でもしてこっかなー、とぼやいた。そうすればいいよ、と返そうとしたけど、多分100%冗談なので制止。あかねちゃんは、大の勉強嫌いなのだ。
「フランスの歴史とかもね」 「…………げえ」 「フランス革命は中学で習ったよねっ?有名な話。"Du pain,le boulanger de Versailles!"」 「あー、そっか、パティシエといえばフランス、フランスといえば、フランス語も勉強しなきゃだよねえ……」 「"Oui!"」 「なんであんたはそんなペラペラ喋れんのよ……」 「勉強したもん」 「あたしにその脳味噌があったらなー」 「えへっ。何ならオムレツの作り方でも教えてあげよっか?フランス語で」 「こら」 「えへ」
笑い合って、 それからいい匂いに気が付いた。
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