振り連載 | ナノ



 004



「先輩先輩先輩。涼音さんって、いい人ですねっ」
「あ?あー。よく怒るけどな」
「先輩より怖かったですね」
「つーか、お前の言う『いい人』の基準っつうのがわかんねえ」
「あー……まあ少なくともわたしにとって先輩はいい人じゃないですけどねっ」
「殴るか?」
「涼音さんに言いつけます」

「……お前最近、日に日に図太くなってってんな」先輩は苦笑して、それからポーズだけの拳を引っ込める。そして先輩は前を向いた。からころころ。凹凸の少なくないコンクリートの地面に、両足合わせて4つの小さなウィルが時折ひっかくような音を立ててわたしを進行方向へと転がしていってくれている。わたしの移動にわたしの意思は関係なく、進行方向を決めているのはこの場合、武蔵野高校の敷地内を移動した時と同じようにわたしの手を引いてズンズンと歩いていく榛名先輩なのだけれど。おかげでわたしは足を動かすことなく、引っ張られているだけで家へと帰ることが出来るというのだからこの体勢はわたしにとっては吉だ。楽だから、大吉だった。からころころ、がりがり、がらがら、ころころころ。ただ、わたしの右手はしっかりと握られている。わたしも握り返していた。これは唯一、わたしの意思だった。ごろごろごろ。右をみて左をみて後ろをみて前をみる。「見慣れない道ですね」と言ってみた。「当たり前だろ」出発点違うんだから、と返ってきた。わたしは引っ張られているので、先輩はわたしを引っ張っているので、必然としてわたし達は前後関係だった。隣に立つことは出来ないので、先輩の背中を見ることしか出来ない。なぜだかそれが、少し寂しいと思った。それを汲んでくれているのか、先輩は時々こちらを振り返ってくれる。そのことが嬉しいと思った。

「明日。涼音さんからプリント、貰っておいてくださいね」
「おお。覚えてたらな」
「涼音さん忘れないから大丈夫ですー」
「……珍しい。ずいぶん仲良くなってんじゃねーか」
「ですかね?うん。わたし、お姉ちゃんって憧れなんですよ」
「そっかぁ?じゃ、うちのアネキとか」
「かっこいくて、憧れます」
「女に『かっこいい』かよ」
「先輩は微妙です」
「微妙なのかよ!」
「わたし一人っ子でしたから、兄弟とか姉妹とか、羨ましいです」

がらがらがらがらがら。障害物の石ころを蹴飛ばして退かしながら、呟く。すると先輩が急に足を止めてしまったので、わたしは急に止まれないまま前に1m程進んでから、繋いだ手がストッパーになって、それから止まった。あ。慣性の法則だ。……じゃなくて。

「──先輩?」
「あ?」
「あ?じゃなくて……」
「ああ」
「ああ、でもなくて……」
「うん」
「…………」

生返事の先輩を不審に思って振り返ると、珍しく俯いて、何か難しそうな表情をしている先輩がいた。一体こんな道端で、何をそんな顔をしてまで考え込むことがあるというのだろう?とにかく先輩が一向に動き出す気配がないので、今まで『ひっぱられる』を移動手段としていたわたしも動くわけにはいかず、何より単純に繋いだ右手(先輩は左手だけど)がほどけないから、そのまま先輩を待っているしかなかったのだ。「せんぱい」「…………」ついに生返事さえ返ってこなくなって、仕方がないのでその辺の景色で暇を潰そう。そう思って、まだ完全に沈みきっていない日の光で真っ赤になっている空を見た。昼間の雲は風で流れきってしまったようで、もう見えない。燃えるような赤色を直視すると、瞳がジンジンと染みた。


…………。

「斑ちゃんには、境界線がないのね」

先輩からメールがあって、武蔵野へと向かう直前のことだった。今日は部活を休むと直接監督さんに伝えて了承を取り、彼女に背中を向けて、ローラーブレードで加速をつけようとした時、監督さんはわたしにそう言った。走りかけた足を寸前で止め、振り返るわたしに、監督さんは普段通りの笑顔を見せて、そんなことを言ったのだ。

「意思があるのと、意志を持つこととは違うわ」
「──監督さん?」
「物事に取り組もうとする思いは、積極的な気持ちとは別だということよ」
「……わかりません」

監督さんが一体わたしに何を言いたいのかがわからず、時間に追われていたこともあったので少し困って監督さんを見上げると、監督さんはただ微笑むだけだった。少しだけ、寂しそうにして、嘘よ。と言う。斑ちゃんは頭がいいから。そう笑って。

「嘘よ。本当はわかってるくせに」

わかりません。
わたしには、わからないんです。


…………。
………………。


「──ああ!そうすりゃいーのか!」

はっ、と、気が付くと目の前には先輩がいた。あれ?と、辺りを見渡すと、見慣れない道。夕焼け。先輩のスポーツバッグ(帰宅用)。ローラーブレード。わたしの右手。先輩の左手。…………。

「おら。さっさと帰ろうぜ」
「え──あ、はい、あの……先輩?」
「ん?」
「いや、ん?じゃなくて。何考えてたんですか?」
「んー……」
「…………」

今度は生返事でなく、明らかに言葉を濁す先輩。大股で何歩か歩くとすぐわたしの立ち位置まで追いついて、すぐに抜かした。左手を、ぐい、と引っ張って。ぴん、と、右手が伸びたと思ったらすぐにわたしの車輪は回り出した。からころころ、と、元のとおりの音が鳴る。「……今日さ」なんとなく俯いていると、先輩が呟いた。歩きながら、前を向いたまま。わたしは「はい」と返事をした。いつもより少し小さめの声に、なんとなく深刻な話題を想定したわたしだけれど、その気構えは一瞬で崩される。「今日、晩メシ食ってけよ」と、先輩が続けたからだった。

「……はい?」
「だから、晩メシ!うち来いっつってんだよ!」
「……はあ。でも今日、勉強の日じゃないですよ?」
「ンなの今更だろ?いーじゃん、食ったらスマブラやろーぜ」
「……はあ」
「明日はどーせお前来るんだから、泊まってけばまた来る手間省けんじゃんか。オレあったまいー」
「や、やっぱり悪いですよ……」
「いいって別に、うち気にしねえし」
「いや、先輩の頭が」
「頭かよ!」

振り向いて突っ込みを入れる先輩。ビビりつつ、引っ張ってもらいながらも先輩の提案を咀嚼してみる。総合的に考えてみるに、現実に先輩のお宅に泊まらせて頂くという案を受け入れる訳にはいかない。まず一つ。倫理的な問題。わたしと先輩は他人同士であり、異性同士であるということ。それも、年頃の異性同士。これは充分すぎる破壊力である。指摘すると先輩は、

「別にいーじゃん」

倫理的思考を撃破した。
全ての前提を無にしてしまうような、まさしくイマドキの若者がよく口にしてしまうような言葉だった。

……衝撃を受けつつ、それならば二つ目をと、気取り直しをはかる。体系的な問題。先の先輩の言葉通りに倫理問題を都合良く無視してみたところで、生憎わたしは明日の午前と午後の夕方までを部活に費やすという予定があるのだ。今週から始まる練習試合、試験週間に入るまで続くというので監督さんからは『必ず出席するように』と仰せいだされているからには学校の授業のようにサボるわけにはいかないのだった。これは大切な問題である。報告すると先輩は、

「そんなのオレには関係ねえし」

体系的な問題を看破した。
全てのわたしの都合を無にしてしまうような、まさしく自己中心的なオレサマタイプの人間によく観られるような言葉だった。

……衝撃を受けつつ、それならラスボス、とわたしは三つ目の、この世で最も現実的な問題を先輩に掲示することにする。先の先輩の言葉通りに倫理問題と体系問題とを都合良く無視してみたところで、先輩とわたしの間にはもう一つ、どうすることも出来ない問題が存在してしまうのだ。

「……そっ、そもそも先輩、そっちにも明日は部活があるはずっ!」
「はっ!」

あからさまに図星の先輩だった。
「そ、そーいやそうだった……!」
気付いてなかったんですか。
やっぱ頭悪いでしょ。
……まあ、いいや。
ショックを受けている今のうちに、さらなる追い討ちをかけておくことにしよう。わたしは引っ張られているのとは逆の、つまり左手の人差し指で、器用に振り向いたまま歩く先輩をずびしと指す。

「自主練もあるはずっ!」
「そーだったぁっ!!」

本気で目を見開く先輩だった。
…………なんだかなあ。
わたしの都合は都合よく無視出来るのに自分の都合は無視するわけにはいかないという利己的な判断、というより反射はさすがは先輩だと思わせる。

「あー、そっかぁ……そんなら泊まってもオレいねーしなぁ……さすがに泊まりはムリかぁ……」

先輩にとってはグローバルな問題を掲示することによって、無茶な提案を取り下げることに成功したわたしだった。

「……まあ、晩ごはんとスマブラには付き合いますから」
「……おう。つーか、お前やっぱ武蔵野来れば?」
「さりげなく勧誘ですか?」
「おーよ。そしたらしょっちゅう泊まりに来れんじゃん」
「……特典ですか、それ」

「いや、だって。さみしんだろ?」

先輩は、そう言った。

「──え」
「違うのかよ」
「え、や、違──」

『さみしんだろ』
どっちの、意味だろう。
寂しいんだろう?
寂しかったんだろう?

どちらかの、意味なんだろう。
どっちの意味だったとしても、

「──やめときます」

ゆるり、と首を振る。
こっちを見て先輩は驚いたような表情をしているけれど、わたしは多分絶対に、笑顔でいられているのだと思う。頬が、ゆるむのだ。

「その、お気持ちだけで、嬉しいです。十分に、すごく、嬉しいです」
「……相変わらず、かてーヤツ」
「はいっ」

からころ、ころころころ。
回り続ける小さな車輪。
前を歩く先輩。
後ろに続くわたし。
前後は互いの手によって、
繋がり続けている。

「……ところで先輩。いい加減64やスーファミ以外のゲーム機買ったらいいのに。スマブラって、しかもオールスターって、小学校の時のじゃないですか?」
「いーだろ別に、アレはアレで面白えんだから。野球にハマってからは買ってもあんま使わねかったんだよ」
「ですけど……そうですね、今日はわたし、プリンちゃんにします」
「げっ!お前、歌いまくって眠らせる気だろ!」
「その間に攻撃して、落としてやりますよ」
「お前最悪だな!」
「ホームランバットで」
「プリンにンなもん持たせんじゃねえよ!」
「惑星ゼーベスで戦いましょうか」
「マグマ迫って来るヤツか!」

寝てる間に殺すつもりか!と騒ぐ先輩に、思わず笑みがこぼれた。がらがらがらがらがらがらがら。掴まれて力を込められている右手が痛いということは、ない。むしろわたしの思考とは関係なく帰り道を導いてくれることは、今のわたしにとって何よりもありがたいことだった。

俺様だ──とは、思う。
わがままだとも、思った。
けど、
わたしにとっては。
ただ勢いまかせにわたしを何処かに連れてってくれる先輩のような自分勝手な人間は、わたしにとって都合がいいのも、単なる事実のうちの1つだった。──下手な同情や気遣い慰めをかけられるよりは、心が開くのは確実だ。

わたしが可笑しいのか。
そうでないのか。

どっちでもいいことだ。