振り連載 | ナノ



 003



わたしはとにかく早く帰りたいんだけどなあと思いつつ、正面に座る榛名先輩を見つめる。わたしの方が高い場所に腰を下ろしているので必然、珍しくもわたしが先輩を見下ろしているという形になっているのだけれど、普段はわたしが先輩に見下されているのが今は逆になっているということでこの状況はどこか落ち着かず、そわそわしてしまう。そしてこの光景は多分第三者から見ても滑稽なものに違いがない。しばらく先輩を見下ろした後、わたしはその視線を前方右斜め45゜に立ち位置をキープしている女性に向けてみる。その人はTシャツにジャージのハーフパンツというラフな格好をしていて、わたしに背中を向けている状態なので表情は伺えず、近頃は段々気温が上がってきたので黒のショートヘアというのは夏に向けて涼しそうで羨ましいなぁと勝手な羨望を胸に抱くことしか出来なかった。そして次は逆斜め45゜前方。目をやるとちょうどこちらを見ていたらしく、視線が絡まったボウズ頭の野球帽をかぶった大きい人は、気まずそうにへらりと力のない笑みを浮かべる。顔は赤い。……気まずいのはこちらです。そして先輩の後ろにぞろぞろとわたしや先輩を凝視している、同じく練習着に身を纏ったボウズの方々。その中でも一人だけキャッチャーのヘルメットから茶色い髪が覗いている秋丸さんはわたしを見つめて苦笑する。……なんだか秋丸さんには、いつも申し訳なさそうな眼差しを向けられているような気がした。一通り観察したところで、わたしはまた先輩に視線を戻す。両拳を膝に乗せ、正座している榛名先輩に。

「────榛名ぁ」

女の人が、呟いた。
女の人とは思えない程低い声で。

呟かれた榛名先輩は正座をした体勢のまま、びくりと肩を震わせた。その表情はどこか気まずそうでもあるし恥ずかしそうでもあるしいっそ開き直っているようでもあるのだけれどやはり恐怖一色に染まっているらしく、顔面蒼白とはまさにこのこと。女の人(どうやらマネージャーさんらしい)の表情はわたしに背を向けている時点で見えないのだけれど、先輩のこわばった表情から推測するに、うん。たぶんものすごく怖い顔をしているんだろう。

「──部活中に他校の女の子連れ込んで押し倒してるとは何事かーっ!!!」

怒鳴った。怒鳴られた。いつもわたしを怒鳴っている先輩が、怒鳴られた!とてつもない大声で怒鳴った女の人以外の人間──つまりわたしと先輩と秋丸さんとその他ボウズ頭の部員の方々はその声量に耳を塞ぐ。塞ぐが、怒鳴られた立場である先輩だけはそれを許されないようで、「聞いてんの!?」と、更に叱咤される。先輩は──見るからにビビっていた。

「み、宮下せんぱ……」
「何!!」
「ご、誤解が……」
「……言ってみな」
「ま、マッサージ!マッサージ受けてたんすよ!ほら、おい斑、そうだろ!?」
「え、えええええっはい!」

わたしにパスか!
──――丸投げか!

「マッサージぃ?」と怪しんだように、ゆらり、とこっちに振り返る女の人に、とにかくわたしは自己紹介から入ることにする。ボランティア活動を怪しまれるなんて、冗談じゃない。

「に、西浦高校1年野球部マネージャーの相内斑ですっ!は、榛名先輩から肩痛いって呼び出しを受けて、あの──マッサージしてくれって言われて!」
「…………肩?」
「こ、こってたんす!」
「ああ。そんなこと言ってたね、そういえば……でもどうしてあなたに?」
「こいつ、西浦でも、アスレチック・トレーナーみたいなことしてるんすよ、頭いーんで。勉強も教えてもらってて……」
「勉強?……1年の子にぃ?」
「超、頭いーんで!」

おお。
しどろもどろになってる先輩。
わたし並にどもっているぞ。
女の人が再びわたしに「本当?」と尋ねてきたので、出来る限りの速度で頷く。とりあえず頷いておけ。「本当なの?」「月謝いただいてますっ!」ほぼ毎日で月収3万円。先輩も部活や自主練あるし、けど睡眠は取らなきゃいけない等で夜のちょっとした時間だけだから大した収入にはならないけれど、まあたまにゲームしたりDVD見たりで勉強しない日もあるし、一人暮らしとはいえわたしもそこまでお金に困っているわけではないのだし。気軽なアルバイト程度で教えさせて頂いている。「でも年下に勉強って……」と顎に手を当てる女の人(まあ普通簡単に信じてもらえるようなことではないのだけれど)に「あの」と挙手したのは、あまりの迫力に今まで聞きに徹していた秋丸さんだった。…………いつの時代も救世主!メシア!

「2人の言ってること、本当ですよ。同じ中学で、斑ちゃんのことは話題になってました。試験は毎回満点らしいし、受験の時はオレも教えてもらったんです」
「秋丸も?」
「はい。斑ちゃん、今度はスポーツ医学にチャレンジなんだね」
「は、はい。なんか成り行きで……」
「……ふうん。わかった」

秋丸さんの介入で、奇跡のご理解をいただけたわたし達。わたしはちっとも悪くないはずなのに、安堵の息を漏らしてしまった。感謝の意で頭を下げると、秋丸さんは謝罪の意をそれで返してくれた。うん。これで、一件落着。勝手にそう安心してあのーじゃあわたしこれで失礼しますねお騒がせ申し訳ありませんでしたそれでは!と言おうとして最初の「あの」を発すると女の人がハッとしたようにわたしの両手を包み込む。というか、握られた。

「ごめんなさい!私、勝手に勘違い……そうよね、榛名はともかく、あなたはどっからどう見ても、清純そうな女の子だわ!」
「え──いやあの、わたし」
「あっ、飲み物!?喉が渇いたのね!」

違います。
人の話を聞かないで「大河、お茶入れたげて!」と大柄のボウズの人に命令して、わたしの両肩に手を移し、ぐ と下向きに押した。立ち上がりかけたわたしは、同じ位置にまた腰を下ろすことになる。大河、と呼ばれた人がすぐに走り戻ってきて、グラスに入れた麦茶を手渡してくれた。ニコニコと微笑む女の人。どうでもいいけど先輩は正座を崩さないままだ。この女の人が許可していないからだろうか。

「見ての通り、うちはマネージャー私一人なの!だからこうして交流する機会ってあんまりなくて!よかったらちょっと話してこうよ!」
「へ?あ──」
「あ。私は宮下涼音。よろしくね!」
「相内斑、です……」
「斑ちゃんね!」

ニッコリ。と笑う涼音さん。
手渡された麦茶。
部室の椅子に腰かけたわたし。
……うーん、これは。
しばらくは帰してもらえないな。

「あれ。でもマッサージしてただけだったんなら、なんであんな体勢に?」
「それは先輩が、上半身ハダカで迫ってきたからです」
「…………榛名ぁ?」
「ハ、ハダカは──冗談で!からかっただけっすよ!でもそしたら斑が後退った時にすっ転んでー、パンツ見えたから何かムラッときてー、のしかかってキスしようと顔近付けたところで宮下先輩が来たんすよ。っち。おしかった」
「…………」
「…………」
「ん?」

先輩はそろそろ黙ればいいのに。
沈黙したわたしと涼音さんを不思議そうに見比べる先輩。わたしはただ苦笑してしまう。

「榛名ぁ――!!!」

涼音さんが怒鳴る。
先輩がビビる。

それにしても、やっぱりあの時わたしはちゅうされそうになっていたんだなぁ、としみじみ言うと秋丸さんは「斑ちゃんはもっと危機感持たなきゃね」と言って頭を撫でてくれた。ていうか、パンツ見えてたのは普通に気付かなかっただけなのだけれど。


「──へー。それでそれで?」
「はい。スポーツ医学っていうのは常に定義することが難しいんです。なぜなら単一の専門科目ではなく、ヘルスケアの専門職だったり研究者だったり教育者を含めた、幅広い学問にわたる領域だから。スポーツ中の病気や怪我は環境や生理学や心理的な要因など、いろいろな要因で発生するものですので、一連の専門分野から心臓学や整形外科・生体力学及び外傷学まで包含することがあるんです」
「ふんふん」
「例えば練習や試合中の高温・低温・高度は結果に影響を与え、時には命の危険にまで発展することもあります。食事の乱れ・精神の乱れ・身体に負担をかけ過ぎる運動方法。加えて皮膚学的、内分泌学的な病気や選手に怒るその他の問題には、専門技能とスポーツに特化した知識が必要になってくるんですね」
「ほうほう」
「チーム内でこういった役割を担当するのが通常は内科医や外科医、アスレティックトレーナー、理学療法士やコーチで、新設の西浦では顧問の先生が色々、勉強会に赴いたりして学んでいるらしいです」
「──へぇーっ。知らなかったなあ、っていうか、考えたことなかった、私。うちの監督ってそんな熱心じゃないし。病気や怪我のこと気にするのって、榛名だけじゃないんだね」
「ですね。まあ、先輩のは根にもってるだけですけど」

「コラ!聞こえてっぞ、そこ!」マウンドからの声を無視して、わたしと涼音さんは片手に野球ボール・片手に針と糸ということで、ベンチで2人、練習球の修復をしていた。涼音さんの言う通りに武蔵野には涼音さん以外のマネジはいないみたいだし、部員さん達が練習に戻るのならば涼音さんもサポートに戻らなければならない。けれど涼音さんはわたしと喋りたい、らしく。それならばわたしはそのお手伝いでもしながら先輩の練習を見学しておこうと空になったグラスを返して皆さんと共にグラウンドに行くことにしたという訳だった。

「うーん。でもまさか、榛名にこーんな可愛い家庭教師がいたなんてなぁ。どうりで中々の成績残してると思ったよ。しかも年下!」
「あはは。先輩、授業中は爆睡ですもんね」
「ねっ、斑ちゃん。私とアドレス交換しない?マネジ友達っていないんだよね」
「え、あ 喜んで!」
「ありがとー!って、そういえば6月に抽選会だけどさ、歌の練習してる?」
「へ?歌?」
「夏大の開会式で、マネジは集まって皆歌うのよ。そのために抽選会では居残って、歌の練習しなくちゃいけないんだ」
「……知りませんでした」
「マジで?歌詞のプリントあげよっか。去年のあるし、明日榛名に渡しとくし」
「あ、ありがとうございます!」

頭を撫でてくれる涼音さん。
──そういえばわたし、今まで榛名先輩や秋丸さん以外に先輩と呼べる年上の人がいなかった。こうやって仲良くしてくれる人が増えるんだったら、先輩の突然の呼び出しも捨てたものじゃないかもしれないなぁ。ニコニコと笑みの絶えない先輩は、それこそ可愛らしい。落ち着いた状況で話してみると、とても優しい年上のひとである。携帯を取り出して、赤外線送信。受け取った涼音さんは変わったメアドだねー、とキャーキャー騒いでいる。嬉しそうに笑う姿を見て、わたしもつられて笑った。

「おーいそこのマネジ2人ー。手も動かして下さーい」
「ちゃんとやってるわよー」
「涼音さん涼音さん。労働者には、得てして団体行動権という権利が保証されています」
「ほうほう?」
「斑!ヨケーなこと吹き込むな!」