ふわふわと。 ゆらゆらと。
いつか──この世に生を受けた前から知っていたようなあたたかさ。ぬるまゆさ。心地よさ。羊水に漂うような、血の海にたゆたうような、安堵感。あついのか、さむいのか、それすら分からず。明るいのか、暗いのか、それさえ見えず。騒がしいのか静かなのか、それでも聞こえず。闇が暗いのかすら理解出来なかった原初のわたし。わたしの原初。ふわふわと。ゆらゆらと。あの時のわたしはただ、浮いているだけでよかった。目を閉じて、うずくまって、呼吸すらせずにそこにあるだけで、わたしは生きていけた。何をしなくても生きていける。何もできなくても生きていける。何が欠けてても生きていける。何が見えなくても何が聞こえなくても何がわからなくても何も知らなくても、わたしは《繋がれている》──それだけで生きていけたのだ。だらだらと──ズルズルと。引きずられるように生きていた。生きているから繋がれた。真実を突けば、わたしを引っぱってくれる誰かがいたから、わたしは生まれることができた。
わたしはそうだった。 誰だってそうだろう。 けれどただ違ったのは、わたしはその感覚に酔っていた。 酔いしれる程に酔いしれた。
ふわふわと──ゆらゆらと。 浮かんでいるだけでいい。 ただそこに在るだけでいい。 ただそれだけで生きていける。
そんな感覚に、わたしは魅入った。 もっと正確に言えば、その時のわたしは多分、思い出したんだ。 思い出して、そして味をしめた。
あの頃に戻りたい。 あの時に還りたい。 あの時のわたしは楽だった。 あの頃のわたしには、ちゃんと居場所があった──求められて、居る居場所。 それだけあれば、他にはなにもいらなかった。
何も考えずに生きて、 何も感じずに生きていこう。
それだけを誓ったように、ただなんとなく生きてきたわたし。それは《縋り場》を見つけた時にそうしたしそれからも今に至ってもまるでそうだった。──『こうしていて』一番楽なのは、変わらなくても生きていけることだったから。ぶくぶくと息を吐ききって、吸えない空気を求めることもせず。気付いたら沈んでいくことだけを、
「────ん。んむぅ……」
視界が開くと、真っ白い光を放つ照明を直視してしまい、反射的に目を細めた。……天井にあるはずの照明が正面にあるってことは、つまりわたしの身体は仰向けられているということで。ゆっくりゆっくりと脳内で音を立てながら回転する思考回路の回転数が、あ これ寝起きだな。と、これまたゆっくり回る脳で考えた。照明から焦点を外して90゜回転させると、きらきらと輝く金色の長い髪の毛。大きくゆるーくウェーブしているそれは、カーペットの上に散開している。
「……かなめちゃん?」
呼びかけてみるも、ぴくりとも反応しないかなめちゃんはどうやらおやすみなさい夢の中、らしい。両の双眼を固く閉じていて、薄く開けた唇から呼吸している。肩が胸が身体が小さく上下しているのだ。回転のゆるい頭でなんとなく眠っているかなめちゃんを見つめているうちに喉の渇きに気が付いて水分を採ろうと冷蔵庫へ向かおうと寝返りをうって上半身を起こしたところで、そもそもここはわたしの家でないことを思い出した。思い出してすぐに、ゆらりと足元がゆれて、ふらついて自重を支え切れなくなったわたしはその場でしりもちをついてしまう。痛い。そしてどうやらその際にした音(どすん、)でかなめちゃんの安眠が妨げられてしまったようで、先程のわたしと同じような声を上げて、見ると綺麗なブルーの双眼がぱっちりと、こちらに向けられていた。
「……おはよう、かなめちゃん」 「……おそよう。あんたなんだか急に背ェ伸びたわね。150センチはあるんじゃないの」 「あは。見事に寝ぼけてるねー」
わたしは笑うが、かなめちゃんは真顔のまま言う。「寝ぼけちゃいないわよ。黄色い帽子はどうしたのかって聞いてんの」──うん。確実に寝ぼけているね。わたしはもう一度、今度はさっきよりもゆっくりと、立ち上がってキッチンへと歩み、冷蔵庫からアクエリを拝借した。勝手知ったる人の家、加えてまだ半分夢の中をさ迷っているかなめちゃんは文句も言わず、おまけに食器棚から出したグラスの1つに注いで勧めると素直にそれを飲み始めた。1カップのアクエリをしっかり飲み干したのを確認して、わたしも注いで、渇きを潤した。
「目、覚めたかな?」 「ん──まあ、ぼちぼち。だけどまだ微妙に夢見心地、だわ」 「どんな夢見てたの?」 「幼稚園の時のあんたがいた」 「ああ、それで『黄色い帽子』ね」 「ヒヨコみたいだったわー」 「え?ひよこちゃん?」 「……あんたこそ寝ぼけてんじゃないの?」
流れ読めよ流れ、と横目で見てくるかなめちゃん。あ、もう素直なかなめちゃんは引っ込んで辛辣なかなめちゃんに戻っちゃったんだ。攻守逆転というか主導権はあっけなくかなめちゃんに戻ってしまったことに落胆しつつ、まあ次回にご期待を任せようなどと訳のわからない慰めを自分に施しながら、アクエリを飲む。そういえばわたし、昔はポカリの方が好きだったんだよなぁ。あれ、なんで変わったんだっけか……。
「幼稚園のわたしが、ねぇ……」 「まあ今のあたしから見たらだけどね。昔はンな余裕なかったから、ぴよぴよぴよぴよヒヨコみたいなあんたが超うっとおしかった」 「え、それショックなんだけど!」 「超、うっとおしかった」 「繰り返さなくてもっ!」
しかも超を強調した。 幼稚園のわたし。 ……あまり憶えていない。 うーん、 それも珍しい事だけど……。
「うそうそ、可愛かった可愛かった」 「それぞれ2回繰り返すことで信憑性はことごとく薄れてくねっ!」
わたしはよくわからないキャラになってしまったことに気付き、ほんとにまだ寝ぼけてるのかもしれなかったが、漸く今日ここに来た訳を思い出してきたところだ。「近況報告をしに来たんだったねっ」あ、やっと思い出した。自宅訪問したときかなめちゃんはちょうど晩御飯を食べたところで、皿洗いし終わるのを待ってる間に寝ちゃってたんだ、わたし。ごめんねと謝ると、かなめちゃんは然程気にしてなさそうに頷いたけれど、物珍しそうにはしていた。
「あんた最近、よく寝るわよね」 「うん、なんか──眠くて。夜寝なくてもいいんだけど、その代わり授業中寝ちゃうし。おかしいなあ……」 「いや、それが正常なんだけどね。人間の正常は大体7時間睡眠よ?」 「いやいや、それは長いでしょっ?」 「いやいやいや」 「いやいやいやいや」 「なんの応酬だ」
突っ込まれた。大して気にせず、確かに最近、一日の睡眠時間が長く──否、正常的になってきているらしい。高校に入る前までは『一日の』睡眠時間なんて、ほぼ0に近かったというのに。
「うーん……不思議だね?」 「つーか、部活入ったからじゃねぇの?身体が疲労覚えてんだよ」 「マネジなのに?」 「マネジ業やってないでしょ」 「あ、そっか」
ひとり納得するわたしはそっちのけで、かなめちゃんは「あんたも変わったもんだねぇ」と、透明の低いテーブルに頬杖をつく。しみじみと吐き出されたその言葉に、なんか保護者みたいだと呟けば軽く小突かれる。毎回おなじみの変わらないやり取りに、わたしは笑って。かなめちゃんも、微笑んだ。
「誰がおばさんだ、こら斑っ!」 「あはははっ!ドモホルンリンクル使用間近、みたいなっ!」 「言い過ぎだ馬鹿!」 「ぎゃあああーっ」
「──それでねかなめちゃん、キャプテンが……そう、花井くんになったんだよっ!そんで副キャプテンが、栄口くんと阿部くん!」 「あー花井ね。確かにそれっぽいわ」 「みんな一発だったんだっ」 「へー。まあ興味ないけど」 「もう、またそんなこと言って。報告しろっつったのかなめちゃんじゃんっ」 「へーへー」
ぶっきらぼうな物言いのかなめちゃんだった。なんかいきなり機嫌が悪いなあ、かなめちゃんが近況話せって言ったから話しただけなのに。なんて思いながら、行きがけに買ってきた献上品のポッキーの一袋を開封して、2人でつまむ。ぽりぽりと噛み砕きながらわたしの話を聞いてくれるかなめちゃん。最近クラスであったこと、部活であったことは粗方すべて話したのだけれど──今日水谷くんに言われたことは、話さなかった。理由は、自分でもよくわからないけど。でも、なんとなく──かなめちゃんが、傷付いてしまうような、気がしたんだ。
「そっか。楽しいか、野球」 「うんっ。みんな、優しい」 「優しいかぁ?」 「怖いけどっ!」 「怖いのかよ」 「でも優しいもん。チョコレートくれたり」 「たり?」 「チョコレートくれたり」 「たり?」 「それから……チョコレートくれたり」 「それしかねえのかよ」
ズビシッと、脳天にかなめちゃんのチョップを喰らい、ちょうどつむじのあたりをさすっていると、かなめちゃんが、綺麗な声で、呼ぶ。「ん?」と返事して見ると、かなめちゃんはとても、凄く凄く、何故だか知らないけれど本当に申し訳なさそうな顔をしてわたしのことを見つめた。
「ごめんね」
と、かなめちゃんは言う。 「ごめんね」 と、かなめちゃんは繰り返した。
わたしは首を傾げたけど、次の瞬間からはもう何事もなかったかのように昨日カラオケに行ってあかねちゃんとL'Arc〜en〜Cielの瞳の住人をデュエっただとか、ひよこちゃんはイマドキの歌を歌っただとか、しころちゃんは結局オレンジジュースを飲んでタンバリン叩いていただけだったとか、いちごちゃんは名前の通りストロベリーキッスを歌っていただとかツマミにもイチゴを頼んでいただとかを話し始めていたので、わたしは聞きに徹することにした。何も考えることはせずに。
← →
|