『お前、ホントに野球やめたいのかよ』
その言葉を、今考えると、自分で思っていたよりはずっと素直に受け入れられた気がする。その言葉に突き動かされてシニアに入ったオレは1年のアベタカヤと組まされて、ずっとバッテリーだった。正直言って、部活動をやむを得ない形で退部することになったオレはシニアっていう新しい、部活とは違った空気の環境でやっていくことに不満や怒りややるせなさがあったし、カベのタカヤは生意気で、でもキャッチングには中々見所があったりで、イライラすることも衝突したりもあったけど、再びケガをすることもなく無事に、シニアを引退することが出来た、中学3年の、夏。
「榛名さあ、高校とかどーすんの?」 「……ああ?」
コンビニで買った棒アイスをくわえたまま、秋丸の方を向くとヤツは数学の教科書なんかめくっていやがったので、軽く蹴りを食らわせる。「いってーな!何すんだよ!」下校する時にまで教科書開くとか、お前はガリベンか。数学を睨みつけながら、けど、そういえばそうかと前を向く。そうか。中学3年か。
「そっか、次は高校野球か」 「おお。榛名はどこ行くか、まだ決めてないんだな」 「……高校ねえ」 「話はきてんじゃないの?私立だったら推薦あるし。おっまえ、シニアじゃー目立ってたもんなあ」 「あー……私立な。スポーツ推薦とかあるとこ、カントクから何個か教えてもらった」 「いーとこあった?」
秋丸は教科書から顔を上げないまま尋ねる。オレは少し考えた振りをして、間をちょっとだけ空けて、アイスをかじった。うん、ソーダの味だ。
「オレ、公立行くわ」
実はちょっとだけ、 前から考えていたことだった。
「……マジ?」 「んな驚くことかよ」 「だって榛名。オレ、お前は私立の、ちゃんと野球に熱入れてるトコ選ぶと思ってた」 「は?勝手に思うなよ」 「だって、そういうトコの方が、多分お前にはいいだろ?」
言外に、昔のことを指しているのに気が付いた。確かに、そうだ。アイツは野球の『や』の字すら知らないようなヤツで、監督っていうよりはむしろ教師みたいに生活態度の方ばかり指導してきて、そのくせ野球の方は『いい投手に投げさせておけば勝てる』とか思っていて、その『いい投手』はいわゆる使い捨て状態。故障するまで使う。けど、秋丸の言葉に、オレは違うと首を振る。あれはあれで、勝つことには貪欲なヤツだった。だから選手の状態なんてお構いなしに、強いヤツだけずっと出していただけだ。そしてそれは、多分、指導に熱心な監督だったら誰もが一度は考えることだろうとオレは考える。ゆるいとこなら。
「熱いとこはもーこりごりだわ」 「……榛名」 「もちろん、そんだけじゃねえぜ。公立で、それなりにトレーニング設備があって、グラウンドが学校にくっついてて、そーいうトコな」 「……ふーん」 「……お前は?どうすんだよ」
急に話を振られて驚いたのか、秋丸は「えっ、オレ?」とこっちを見る。目障りな数学の教科書はカバンに突っ込んでやった。
「オレはなー、今度の模試である程度決めるよ」 「模試?」 「……どのクラスも、ホームルームで言ってたと思うんだけど……五木の模擬試験だよ。申し込みは明後日まで!」 「ふーん。興味ねえ」 「そんなこと言って。もしお前の言う条件の高校が頭よかったりしたら、お前死ぬぞ?」 「んなレベル上げねえし」 「模試までに志望校目星つけといてさあ。合格見込みとか知っといた方が勉強しやすいだろ?」 「そりゃ、まあ……」 「おばさんに言ってみろって。どーせそろそろ高校どーすんだって言われる時期なんだし」 「……勉強。したくねーなー」 「そら誰でもそうだろ」
五木の模擬テストの結果が返って来る頃には、自分でも『そろそろヤバイな』と思い始めていた。というのも、定期テストが返ってきた。周りが塾だの何だの通って成績が上がり始めているのに対してオレ、平均点以下。追い撃ちをかけるように五木の結果を見たオレは、ギャーギャーと騒ぐクラスの中、こっそりとうなだれるしかないのだった。
「合格可能性、25パー……」
実際に模試を受けた当日までに秋丸を引きずって、野球部の練習を見て、いいな、と思う高校をいくつか志望校の欄に書いてみたオレの、一番高い合格可能性の数字が、それだった。というのも、公立で野球部があるだけならまだしも、トレーニング設備があったりグラウンドがすぐ側だったりする高校といえば、どこもそれなりに偏差値がある高校が多い。野球だけに打ち込めるような私立だったら勉強のことなんて二の次に出来るような高校が多く、偏差値は低いからそれなりに受かるかもしれないのに、一身上の都合によって、それは却下なわけだ。
「やっべーなー……これ」
こんなん親に見せらんねえぞ。大体、親だって授業料がムダにかかるような私立よりは公立に行った方が助かるからって言って、公立志望を推してるってううのに。「はーるな!」と、声をかけられた瞬間、ヒラヒラとさせていた模試の結果の紙を奪われた。「あっ!てめっ」犯人は河野というクラスメート(野球部メンバー)である。河野はオレの結果の紙を片手に、ニヤニヤと楽しそうに笑う。
「さーって。榛名くんの初めての模試の結果はどーなんでしょーねーっ」 「返せアホ!」 「んーと、どれど、……れ……」 「…………」 「……榛名」 「……んだよ」 「…………これ、ヤバイ」 「…………」
やっぱりか。
「うわー榛名、これ、まじやばいって……オレ、こんな点数初めて見たよ」とかぬかす河野は頭がいい。確かこいつは私立のお勉強学校に行くはずだ。頭がいい高校を目指すヤツは、よくも悪くも狭い中学生のコミュニティでは話題になったりしている。
「お前、真剣に勉強した方がいいよ。後期までだって、あと半年なんだぞ」 「……じゃー教えてくれよ。正直、もー何をどうすりゃいいのかわかんないレベルまできてんだよな……」 「……オレの手にはおえん」 「ひでーやつ」 「お前のがヒデーよ」 「…………」
「へえ。河野にそんなこと言われたんだ」帰り道。秋丸が興味深げな声をもらした。へえじゃねえよお前、へえって。幼なじみがめずらしく悩んでるのに暢気なヤツだ。秋丸に尋ねてみたところ、どうにか80パー前後あるらしい。
「おい。ベンキョー教えろ」 「えー……榛名に勉強って……オレ無理……」 「ムリとか言うなよ!お前、オレが落ちてもいーってのか!?」 「じ、じゃあ塾にでも行けばいいだろ?第一、オレだって、人に勉強教えるほどかしこくないし」
……まあ、コイツにオレの学力を上げられるとは思わないけどよ。夕日が沈もうとしている河川敷をそうやって歩いていると、ふと、ちょっと先の、河原まで続く階段のところに座り込んでいる横顔に気付いた。あ、と声が出た。
「……あいつだ」 「え?……あ。あの子」 「あ?お前知ってんの?」 「知ってるよ。天才の子だろ」 「……天才?」 「うん。アメリカからの帰国子女だって。去年転校してきて、ちょっと有名になった。相内斑ちゃん」 「……相内」
相内斑ね。一回呟いて、天才ね、と繰り返した。帰国子女、ってことは留学生か。中一のガキがアメリカで何を勉強しに行くんだとか、あいつのあのどす黒い目はそれと何か関係があるのかとか、そういったことはオレがいくら考えたってわかるものじゃないし、そんなことは別に興味ない。オレはそのかわりに思いついたとある問題の解決策として、なかなかこれはイイんじゃないかと思い、思わずにんまりした。そして、「うわー、どーしよ。話しかけてみよっかな。ウザッとか思われないかな」街で芸能人を見かけたような反応の秋丸を放って、ずんずんとそいつへ近寄っていく。「え、はる」秋丸の制止なんかきかん。石段に座って、空を見てたそがれているようなそいつはオレがすぐ側まで来て足を止めてもまるで気付かないでいるから、オレは一言、声をかけた。おい。と。そいつが、オレを見た。そして目を見開く。
「……よお」 「は……る、な先輩?」 「覚えてんじゃん」 「……こ、こんにち、は……」
挨拶なんざいらねえよ、そんな仲じゃあねーしな。と言う。はい、と弱々しい声でそいつは応えた。相変わらず、なんかひ弱なやつだ。気概の感じられない、言ってみるなら魂がなくて身体だけ勝手に動いてるロボットみたいに。……でも、意思はあったんだよ、な。やっと追いついて隣に並んだ秋丸。オレは秋丸を親指で指さして言う。
「オレ、武蔵野行くから」 「え?」 「もー決めた」 「…………」 「だってあそこ最適だろ。公立だわ校則ゆりーわサッカー部のためについたトレーニング設備はあるわ。野球部は人数すくねーけどカントクはあんま練習来ないってえしよ」 「…………」 「いや、そうだけど……榛名お前、」
「けどそれには、頭が足りねえ」
オレは言う。 戸惑っている、 困ったような顔をするそいつに。 名前も知らないそいつ。 以前のようにこんな河川敷でくすぶったままのそいつに断言した。オレが決意したその日からこいつが学校に行かず、何をしているのかは知らない。そのせいで結局謝る機会をなくしたことも今のオレにはどうだっていい。ただ本当にこいつが、オレの道を作る手助けが出来るような人間だというのなら、その力をオレに貸せ。
「オレに勉強おしえろ」 「……え?」 「……は?」 「天才だっつーんならな」
あるもんは使えよ。 才能は放置すんな。 今のオレは、 お前みたいなやつが一番嫌いなんだ。
「そのジマンの頭で、オレを合格させてみろよ」
絶句した秋丸が何とか言ってわめく。オレはそいつを見たままだった。「いや、そのこ別にジマンしてないし!」ツッコミなんざいらん。拒否権なんか持ってない。
「…………。はい……」
ほら見ろよ。 そいつは困惑したままだって、ちゃんと応えるヤツなんだ。
「──って、いいのかよ!」 「お前ブチコワシだな」
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