足がなまる。痛い。 努力が腐る。辛い。 息が詰まる。苦しい。 肩に響く。憎い。
『わたしは、辛いです』
痛い。辛い。苦しい。憎い。
「お前に、何がわかんだよ」
壁伝う、血。 頭から血を流すそいつはいつもの暗い、沈んだ、陰気な目をしてオレを見る。オレは声が震えて、口の中を切っていた。多分、堪えていたからだ。
「何が辛いだよ。何が苦しいだよ。お前とオレを、一緒にすんな。お前に何がわかんだよ。お前に野球の、何がわかんだよ。マウンド登った時や1番もらった時の、言いようもねえあの気持ちが、わかんのかよ。お前に、野球できない息苦しさがわかんのかよ。居場所なくした辛さわかんのかよ。ケガなんてくっだらねえことで野球なくしたオレの辛さが、お前にわかるってのかよ」 「…………」 「ざっけんな!お前にも、カントクにだって、オレの痛みなんかわかるわけねえだろうが!」 「……榛名、先輩」
ひどく驚いたように、オレを見上げる。立ち上がって、松葉杖のとこまで故障したヒザをかばって、オレをいらつかせるだけの棒を蹴り飛ばす。フラついて、やっぱり座り込む情けない身体を、血まみれのそいつはあくまで心配した。そいつもまともに歩くことが出来ないのか、手と膝をついて、動物みたいに歩いてくる。床にガラスの破片があったからか、手の平も膝もうっすら血が広がっていた。何だか、無性に泣きたくなった。
「先輩……あの、びょういん、行ってくだ、さい、もっと酷く、なっちゃい、ます……から」 「……行かねえよ」 「り、リハビリ、して、下さい」 「……しねえ」 「あし……治して、下さい……」 「……うるせえよ……」 「野球……」 「……したくねえ……」
片ヒザを立てて、顔を埋めた。涙が、出てこない。怒鳴る声も、枯れた。
「──オレはもう、野球なんて、しねえんだ」
しん、と、 人気のない特別棟の校舎。 その一室はボロボロだ。 窓は割れて、 壁には血の跡。 その中にいる人間も、 きっとボロボロに違いない。
「──したく、ないんだよ……」
痛いって叫べない。 辛いと言って泣けない。 助けなんか求められない。 きっとみんな、 こんなボロボロの自分を、 強いって思っているから。 こんな馬鹿なヤツなのに。
「うそ……」 「うそじゃねえ……っ」
こんな、 メッキだらけのヤツでしかないのに。 それなのに。
「大丈夫、です、よ……」 「……なにが、」 「せんぱいのからだ、は、せんぱいの努力を、覚えて、います、から」
夏からずっと、不安で不安で。 ヒザが軋む度に震えて。言い聞かせるように大丈夫だと言って。捨てられたのだと悟っても何かの間違いだと逃げて。急に今までが虚しくなって。怖くて。
「大丈夫、です。先輩が、イヤになったり、むかついたり、脳が、心が、否定しても、その間は、先輩のからだが、努力とか、よろこびとか、そういうもの全部、きっと覚えていてくれてます」
こいつにはわからない。 初めてボールを握った時だとか、 グローブのニオイをかいだ時、 自分がピッチャーだと思った時、 ワイルドピッチで投げた時、 ストレート勝負で勝った時、 クラスのヤツとのエース争い、 もらった1のゼッケン、 ドロドロになったユニフォーム、 あったかいチームのやつら、 応援してくれてた家族。
オレだってそんなこと、思い出したくもないって思ってた。 ──けど、ムダなのか。 忘れようとしても、逃げようとしても、もうオレん中に、ずっといるのか。
「……びょういん、行きましょう、せんぱい、も……手、ガラスで、切っちゃって、ます」 「…………」
嫌だ、と声に出せなかった。 血が足りなくなったのか、更にフラフラし始めたそいつの頭が、ぽすりと肩に当たった。渇いた血で髪がパリパリになっているのがわかる。髪に手をかけて、壁に擦ったのだろう傷口を探り当ててみると、傷口からはこけた時みたいに楕円形で、まだ血が流れていた。おい、と呼びかけてみる。「…………」返事をよこさない代わりに、苦しそうに目をつぶったそいつは首を少しもたげた。そして唇を動かして、息を、吐く。耳を寄せた。せ、ん、ぱ、い、は、
「…………つれえよ」
「──元希。あんたって子は!」
頬が、熱くなった。 驚いて見上げると、右手を覆った母さんが、泣いている。オレが全くと言っていいほどに口をきかなくなった日から、毎日泣いているのは知っていた。知ってたけど、知らないフリをしていた。姉ちゃんはここにいない。あいつのケガの手当てをしているからだ。
「自分の子が……関係ない誰かに──女の子に、手をあげるなんて……っ」 「…………」
涙で顔はぐしゃぐしゃで、声が震えて、でもオレが怖くて震えているんじゃない。オレを壊れ物を扱うように、腫れ物に触れるようにするんじゃなくて、怒っている。怒りでわなないている。母さんは、オレを叱っているんだ。
「あんたは……どれだけ周りに心配かけて!学校からも電話があったわよ!窓割って、倉庫メチャメチャにして──どうして関係ないものに手を出すの!気がすまないなら、母さんを殴ればいいでしょう!?」 「…………な」 「あんた、夏からずっと不安がってたもんね。──気付いてあげられなかった……」 「やめろよ──」 「ごめんね……」 「──やめろよ。謝る。謝るから……。──病院も、」
母親が、泣いて、自分の息子に頭を下げるなんて。そんな光景に堪えられなかった。早口に、そう言って、その先に言おうとしていた言葉がわかった瞬間、オレは少しだけ、本心で、笑った。
「……元希?」 「許してよ。これから、病院、ちゃんと行くし。リハビリも、するから」
このままじゃあ、 辛いばっかだもんな。 そう言って鼻を啜ると、母さんはまた大泣きをした。
「よお」 「…………はあ!?」 「ンだそれ」 「え、あ、ハルナ!?」 「オレでわりーか」
いつもの起床時間。いつもの挨拶。いつもの朝食。いつもの会話。いつもの時間帯。そしていつもの奴。エレベーターに乗り込むと、1つ下の階で入ってきたお馴染みのメガネがオレを見て声を上げた。朝からアホじゃねーのコイツ、と思う。コイツはメガネのくせにアホだ。
「ど……したんだよ、今日」 「あー?別に。寝坊しただけだっつの」 「寝坊?」 「お前が知らねーだけで、学校には行ってんだよ」 「はあ!?」
たりめーだろ。お前はアホか。1階に着いたエレベーターの扉が勝手に開く。出ていくオレにメガネが慌てて『開く』ボタンを押して、それから走り寄って来たのを、今度は拒まなかった。
「授業は受けねえからな」 「なんで?」 「今日は担任にヨージなんだよ」 「何のだよ。ま、まさか榛名、お前、転校なんてする気じゃあ……」 「はあ!?ばっかかお前!何でオレが逃げなきゃなんねーんだよ!」 「そ、そっか?」 「ちげーよ!通院とかで学校来んの遅れるって言いに行くんだよ!今日もこれから診察とリハビリの説明!」 「リハビリ?……そっかあ!」 「ニヤニヤすんな。キモチワリイ」
バシッと背中を叩いてやると、それでもどこか嬉しそうに文句を言う幼なじみ。オレからバッグを奪い取って、その軽さに小言を言いながら、笑った。オレは昨日までの眉間のシワの感覚がなくなってるのをしっかりと確認して、とりあえずポケットの中にある退部届けを手でくしゃくしゃにした。
──これからどうするのかは、まだ決めてない。ケガが完治してまた投げられるようになってからも、あのカントクがオレをどうにかするつもりがあるのかもわからないし、自分がどうするつもりなのかもわからない。 ──もしかしたら、もうあの場所では投げられないかもしれない。あのカントクのいるあの場所には、もう立たせてもらえないかもしれない。そしてまた例の、言いようのない苛立ちが再来して、オレは荒れるかもしれない。けど、投げたい。だってオレは、ピッチャーなんだ。 ──でも、その時が来たら、多分。今度は、少しでも強く、受け止められる気がする。
そこまで考えて、それからやっぱりあいつに一言だけ謝ってやるのも悪くはないかもしれないと、思った。
「──って、ああ?」 「何、どした榛名」 「名前知らねえ……」
は?誰の?隣で騒ぐ秋丸を無視して、オレもちょっとアホかもしんない、と思った。
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