刻み込む。 刻み込め。
どうか覚えていろ。 どうか消し去るな。
その目にその耳にその鼻にその口にその肌にその髪にその肉にその骨にその手にその胴にその脚にその身にその脳にその心にその魂に植え付けてやれ。
見ず知らずのお前だけは、 オレを刻んでは忘れるな。
どうか。 頼むから。
「…………元希?」
名前を、呼ばれた。振り向くと、一瞬震えた母親が視界に映る。もう行くの、と無理矢理に笑う母親に舌打ちをすると、やっぱり表情をこわばらせて、やけに優しい声色で語りかけるのだ。今日も早いのね。やめろよ、と耳を塞ぎたくなるような、ひどく優しい声で。何も言わずに扉を勢いよく押し開けて、あとは振り向きもせずに歩き出した。反動で、ギギイ、と勝手に閉まっていく扉から、微かな「いってらっしゃい」が聞こえた気がした。
「……馬鹿じゃねえの」
学校になんか行かないこと、わかってるくせに。投げられない投げる気もない投げさせてもらえないオレが、見学だけでもするとでも思ってんのかよ。夏に買ったスニーカーがアスファルトを踏みしめる音としては相応しくない、コツ、コツ、という音が無性にいらついて、一瞬松葉杖をブン投げたくなったけど、これがなければ満足に歩き回ることも出来ないし、第一オレは今、投げられないんだ。そのことに余計胸がムカムカしてきて、コツコツという耳障りな音を響かせてオレは進む。勉強はおろか部活にさえもやる気をなくしたオレが、それでも学校に行こうとする理由なんてないと思っているひどく正しい母親の言葉通り、行ってやろうじゃないか。学校へ。あそこには今日も、オレの加虐心と暴力性をほんの少しだけ緩め、罪悪感を生むことの出来るデクがいるのだ。
「なんだそれ」 「し……ゃしん、です……」 「……写真?」 「……こ……この間、あった、た、いいく、祭、の……」 「ふーん」
そいつの手にしていた何枚かの写真を奪い取り、少しずらして力を入れてやればビリビリ、とたやすく破れた。あ、と間抜けな声をあげたそいつの暗い目は、はらはらと床に落ちてゴミになって少しの風でどこかへ飛んで行った紙切れを見送っていた。わりい、破れたわ。心にもない言葉と、慌てて首を振るそいつに口端が上がる。ふふ、と、気が緩めば笑い声まで漏れてしまいそうな自分を、狂ってると感じた。
「……は、る……先ぱ」 「誰が口きいていいっつったよ」 「…………」
今日は一階の渡り廊下を歩いていたそいつは、オレを視界に入れると、びくりと一瞬震えては、軽く息を吐く。それはため息ではなく、恐くて息をのんだのとも違っていて、オレはそれが嫌いではない。茶色の、初めてそいつを見た日よりは切り揃えてある短い髪を頭ごと掴んで引っ張ってきた校舎裏の、備蓄倉庫への窓は割って開けた。その時に「先輩……ひ、ひだりて、」と言いかけたそいつは血まみれの裏拳で鼻血を出して、汚いものがついたとオレはそいつの制服のスカーフで手を拭いて甲を縛るのだった。
「きたねーもん付けんなよ」 「……ご……めんなさい……」 「馴れ馴れしい」 「……すみま、せん」
典型的ないじめられっ子タイプの弱いヤツだ、と常々思う。理不尽な暴力や暴言に謝って、命令されればやって来て、ホンモノの馬鹿はいるもんだと鼻で笑う。自分より明らかにひ弱くて小さくて柔らかい。よくニュースなんかで動物虐待だとか流れていたような気がするけど、そんなことをする奴らの気持ちなんて、やり場のない怒りと加虐心を持つヤツにしか理解出来ないものだと感じながら、ふと窓際に座り込んだそいつの脚に目をやると短い直線状の血が出ていた。見たところによると、オレが割ったガラスで切ったらしい。オレの視線に気付いたそいつも同じく脚を見て、あ、と声を漏らした。気付かなかったのか。本当にアホな奴だ。指でそっと払うように血を拭っても、またすぐに赤くなるその脚を見て、オレはそいつの手を取った。長袖を、肘の辺りまでまくる。「…………?」怪訝でなく、あくまで不思議そうに首を傾げるそいつ。オレは笑う。
「なあ、ガラスってなんで切れるんだろうな」 「…………。…………?」 「答えろよ」 「え……か、かたい、から」 「紙でも切れんじゃん。まあ、べつに髪でもいーけど」 「…………。……鋭い、から…………で、ですか……?」 「おお」
短く答えて、そいつの腕を掴んでいる手の、親指の爪を、そいつの肌に突き立てた。「いっ、」くん、と引っ込めようと一瞬抵抗した腕に力を入れて、さらに爪を食い込ませる。目をつむって声を出さないようにしているそいつに、
「どんだけ力入れたら、ツメで皮膚切れんだろうな」
と囁いてやる。 びくり、と震える姿がいい。 フッと暗くどす黒くなるその目が、オレは一番気に入っていた。
結局、血は出なかった。 当たり前だ。怪我をして全てを放棄していてもオレのツメは何かの規則に従っているかのように爪切りとヤスリで短く保たれていたのだから。そのかわりに何か所にも渡って赤い直線が、ミミズ腫れみたくぷっくり浮き上がっていたりして見るからに痛そうなそいつの左腕だった。何度も何十度も血管を圧迫して骨に押し付けていたせいか、もう力が入らないらしくオレが腕を離すとダラリとだらし無くそいつの身体にぶら下がった。
「あーあ。つまんねえの」 「…………」 「痛くねえの?それ」 「…………」
痛くないわけがなくとも、何も言わずに、泣きもせずに、ただ目をつぶって悲鳴をこらえて耐えきったそいつは肯定とも否定ともわからないように、そもそもオレの言葉が通じていないかのように、フラリと首を下げた。頷いたのか、俯いただけなのか。は、は、と不規則なリズムで吐かれる荒い息と、垂れるだけの左を右手でそおっと被せている。
「……ま。痛くないわけねーわな」 「…………」 「おい。泣いてんの?」 「…………」
いつもはオレが聞いた時は返事ぐらいすんのに。ちょっとだけ珍しさを感じて、べたっと座り込んでいるそいつを覗き込むようにしてしゃがんでみた。
「……せ」 「お。しゃべった」 「せんぱい、は、い、痛く、ない、で、です、か」 「…………は?」 「……けが、」 「────黙れよ」
髪をわしづかみにして、思いきり横に振り抜いた。そいつは肩から滑るようにして倒れて、そのままでしばらく呻くようにわなないた後、右腕を立てて起き上がる。「い、た……」埃っぽい倉庫にそいつはむせて、オレを見た。暗い目をしている。初めて会った時からそう思ってた。死んだ目をしていると思った。オレはその目がどうしようもなく気にさわり、その目にどうしようもなく安心したからこそ、逃げ出した女子達のことなんかに目もやらず、その顔をぶん殴ったのだった。
「……頼むから黙れよ。そんな、心配するような目でオレを見るな。オレが今何したのかわかってんだろ。お前を殴ったんだ。ヒデーヤツだろ。泣けよ。泣いて、誰か大人にチクればいいだろ。それでお前は、痛くならずにすむんだろうが」 「……で、も」 「何でそれが、わかんねえんだ!」
立ち上がり、言いながら、フラフラと立ち上がったそいつを思い切り殴った。反動でカランと倒れる杖。そいつと一緒に崩れる身体。ビキ、と走る痛みを膝に感じて、そいつの上に落ちた。「っぐ」潰れた声。そうだ重いだろ。オレはタッパあるからそんだけ重いんだよ。起き上がろうとして、また痛み。すぐに松葉杖を探して──探して、そんな自分が嫌になる。おいおいおい、エースピッチャー榛名元希。お前はいつから、杖がなきゃ立てないジジイになったんだよ。「せ……だいじょ、ぶ、ですか」下敷きになっているそいつの言葉にハッとして、手をついて上体を起こした。けほ、と咳をしたそいつ。生理的なものだろう、涙が微かに。
「つ、らく、ないです か?」
黙れ。
「わ、わ、たしは、辛い、です」
やっぱりオレは、 そいつを殴ったんだと思う。
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