ベリオ | ナノ




  口の悪いチンピラパティシエ


「また来るよ」

そう言い残し、臨也が店を後にしてからたっぷり数十秒後。厨房から静かに出て来た葵が、扉から上体を外に出し未だに見送っている泉に「早く閉めんぞ」と声をかけると、頷いて外に出してあるメニューボードを取りに行く。戻って来た泉がふと辺りを見回すので「晃さんならひとはを寝かしつけてるよ」と知らせてやる。葵の兄である晃と、泉との一人娘の林田ひとははまだ五歳だ。日中は忙しい時などホールスタッフの一員として手伝ってもらうこともあるのだが、閉店時刻の二十一時にはさすがに夜も遅いので寝かせなければならない。娘の世話とカフェの仕事は夫婦交代で行っており、晃は三階で今頃は絵本の読み聞かせでもしているのだろう。そんな日常の様子を思い浮かべたのか、泉は「そう」と返して、微笑む。

「どうでもいいけどよ、さっさと片付けちまおうぜ。明日も早ぇんだから」
「そうね──あら?」
「ん?」

急に入口の方に目をやった泉につられて葵もそちらを見る。──と、チリンチリン、と控えめな鈴の音と共に扉が開いた。「ただいま〜」と、気の抜けた声と共に姿を現したのは、金髪の女性だった。葵と同じようなコックコートとエプロン姿の女性である。その姿を捉えた途端、葵は溜め息を吐いた。

「……人のカオ見るなり溜め息って何。失礼だろーが」
「お前なぁ……こんな時間までどこほっつき歩いてたんだよ。折原さんさっき帰ったぞ」
「明日の新作考えてた。絵ぇ描いたけど、見る?」
「あの人の相手する俺の身にもなれよ!」
「はいはいお疲れさま」
「…………」

肩にかけていたショルダーバッグからスケッチブックを取り出して、葵に押し付けたその女性は「おかえりなさい」と微笑む泉に「お腹へった。何か軽いの作って」とけだるげな表情で頼む。そんな女性に、泉は大袈裟にキリッと眉尻を吊り上げる。

「こら。挨拶をしなさい」
「……ただいま、おねーちゃん。お腹へった」
「サンドイッチでいい?今日の材料がまだ残ってるから」
「何でもいー」
「お前ら!俺の話を聞け!」


「──あいつも相変わらず変なヤツだよね」

カウンターにかけ、サンドイッチを頬張りながら、梢は言う。隣に頬杖をついてそれをジト目で見遣る葵は「あの人は嫌なヤツだ」と返した。ファーのついた黒コートを毎日毎日飽きもせずに着続けるところとか、隣で顔の変形など全く気にせずにただサンドイッチを貪り続ける自分の姉に言い寄るところとかは、確かに変と言えば変なのだろうが。しかしそういう『変』という一言だけでは、『嫌なヤツ』という一言のみでは、折原臨也という人間を表し切れないことは分かっている。

「たまにはお前、自分で相手ェしろよな。いないってわかった途端標的にされる俺の身にもなってみろ」
「おいこら。ちゃんと『おねーさま』と呼べっていつも言ってんだろうが」
「はいはい、姉貴」
「臨也にもなけなしの敬語を使えるってのに、なんであたしには使えねんだよ」
「あの人は赤の他人だからな」

ただじぃっと姉の食事する姿を観察していても仕方のないことに気付いたのか──葵は先程自分に押し付けられてカウンターテーブルに置いていたスケッチブックを片手でペラペラとめくっていく。ざらざらと目の粗い紙には、色鉛筆で描かれた絵が所狭しと並んでいる。

シャルロット・オ・フリュイ。
ラズベリーとキルシュのパニエ。
カラマンジーのルリジューズ。
タルト・ア・ラルデショワーズ。

ケーキの設計図の役割を果たすそれには、味の説明などは一切ない。申し訳程度にケーキの名前が添えられているだけで、例えば何のクリームを使うだとか、生地の種類だとか、使用する酒の分類だとか、そういった細かなものは全て隣の見るからに空っぽそうな金色の頭の中に綺麗にしまってあることを葵は知っている。そしてこの『絵』になるまでに、何度も繰り返し精密な製作のイメージを重ねていることも。だからこそ、その絵を見ただけで梢はすぐに一個のケーキを完成させてしまうのだが。

「うまうま」

まあ、そうでなきゃこんな新作をポンポン生み出せねぇか。と考えると納得せざるを得ない。

──このパティシエは、
まぎれもない、天才だ。

日々、そう実感する。

「ぁん?何ジロジロ見てんだ、てめぇ」
「……ただのチンピラにしか見えないけどな」
「ああっ!?」

まさしく――
チンピラパティシエだと。






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