「………カイは、字がわからないの?」 それは暫く使っていなかった足のリハビリの一環として、街へ、そういえば生涯初のおつかいに行った時のことだった。もし何かあったら大変だからと七生が買う物のリストを手渡しながらお供に千智を付けてくれたわけだが、多分もしオレが慣れない足で転んだとしても千智は助けてはくれないのだと思う。多分オレが自分で立ち上がる様子を、屈んで顎に手を添えたようなくつろいだ姿勢でただ見つめてくるだけなのだろうと、思う。結果的に言えば道端で転ぶような無様は犯さず、少し扱い難い両足を時折引きずるようにして歩いてきただけに時間はかかってしまったが、まあ7つも離れている千智の歩幅には丁度良かったのかもしれないし、特に何事もなく街には辿り着くことが出来たのだから良しとする。そして実際頼まれた野菜を買おうと八百屋のような店の前で渡されたメモを開いた訳なのだが。………結論から言うと、読めなかった。何て書いてあるかがわからなかったのだ。うーん、と、メモを片手に唸っていたオレをそれまで無言で見上げていた千智は痺れを切らしたのか否か、オレの手からメモをひったくり(と言っても「ねえ」と声をかけられてどうかしたのかと屈んだオレの手からジャンプして取ったわけなのだが)店主の男性に向かってキャベツだのジャガイモだのピーマンだのを注文して、今度は財布をひったくって(「財布」と言われて素直に差し出しただけだが)代金を支払い、お釣りをもらって財布にしまうと返してくれた。つまり、おつかいをしたのは千智というわけだ。まあ、まだ4つである千智に、野菜を詰めた箱を担げるとは思えないので、荷物持ちとしては役に立っているとは思うのだが。しかし道端で転んでしまうのではないかと危ぶまれているオレにこのような重量のあるお使いを頼むという七生のしたたかさも中々のものだと感心出来るものがあった。落としたら割れてしまう卵あたりを頼まなかったのも、賞賛に値するものだとは思う。とにかくオレが荷物を全部担いで千智が手ぶらで七生の元へと帰って来れた時にはもう結構な時間が経過していたので、なるほどこれは丁度いいリハビリになるのかもしれない、と寝転んで疲れた身体を休めていたところに千智がちまちました動きでオレの頭の真横に座って、そう尋ねてきたのである。 「読み書きは出来ない」 「なんで?」 「習っていないからだ」 「なんで?」 「貧乏だったからだ」 「なんで?」 「……………」 「なんで?」 千智の好奇心はどうやら読み書きの出来ないオレに向かっているらしく、だんまりを決め込んでみても、その小さな手でオレの頭を掴み揺すってくるものだからしまいには気分が悪くなってきたので仕方なく上体を起こした。 「わたしも読み書き、習ってないよ」 「ん?なら何故読めて書けるんだ」 「家に本がいっぱいあったから」 「そうか。オレの家にはそんな娯楽はなかったぞ。貧乏だったから、その日の食い物の方が大事だった」 「わたしは本の方が大事だよ」 「だからそんなに小さいのか」 「こらてめえ」 ぽか、と、叩かれた。 子供らしい攻撃だ。 「効かないぞ」 と、笑って言った。 バシッ、と、殴られた。 子供らしくはなく、 「………痛え……」 「なめんな」 本気で痛かった。 バシッ、と、平手を受けた背中を鏡で確認すると赤く腫れ上がった手の形。………この小さな身体の、何処にこんな力が。ていうか、4歳児はここまでの力を出せるのか。 と。 痛がっているオレにはまったくのお構いなしで、千智は再び「ねえ」と言って、服を引っ張ってきた。 「なんで貧乏だったの?」 「……しつこいね、お前」 「なんで貧乏だったの?」 「子供には預かり知らぬ事よ」 「なんで貧乏だったの?」 ………本気でしつこいな。 ねえなんで? と、見上げてくる千智。 はたきをかけている七生も、どうかしたのかとオレ達を見つめている。 どうしよう、 と、 思う。 話すべきだろうか。 居候の分際で。 話しても良いのだろうか。 異端の身分で。 見上げてくる千智。 不思議そうな七生。 引かれてしまうかもしれない。 怖がられるかもしれない。 嫌がられるかもしれなかった。 「ねえなんで?」 言って───良いのか。 吐き出して、良いのか。 苦しみを。 「母親が、異端だったからだ」 痛みを。 「母は、物事を動かす力があった。物事を予知する力があった。物事を感知する力があった。母は、当人以外は知らない筈の誰かの秘密を知っていた」 辛さを。 「人は、自分とは違うものを恐怖し畏怖する。人は、自分達には見えない聞こえない感じとれないものを恐怖し畏怖する。そしてその《怖さ》や《不安》を取り除きたがる。何か誰かのせいにしたがるんだ。母はその標的とされた」 悔しさを。 「仕事を与えてもらえず。供給も分けてはもらえず。村の隅に追いやられたオレ達は衰弱を待つだけだ。けどそれでも死ぬのは苦しくて、何でも食ったし何処ででも寝た。そうして生きてきたんだ」 孤独さを。 「けどそれでも母は殺された」 嘆きを。 「殺されて、オレ自身も殺されそうになった。だからオレは、逃げて来たんだ」 悲しみを。 「全部壊して───逃げて来た」 怒りを。 「多分もう、オレが元いた村は地図から消えている。母が、遺してくれた力が、多分、助けてくれたんだ」 この、もどかしさをすべて。 吐き出せたなら。 吐き出して──── 受け入れられるなら。 「……………」 チラリ、と、千智を見下ろした。 ちょこん、 と座って、 オレの肩に、 小さな手を置いていて。 その表情は、 あどけないものだった。 立ったままの七生を見上げる。 はたきを手に、 持っていて、 いつものような、 穏やかな瞳。 「………迷信や、まだ明らかでなかった天災現象の原因は全部、魔女に押し付けられるんだよ」 千智が、見上げたまま、言った。 「本に書いてあったよ」 「………あ、そう」 「カイのお母さんは魔女だと思う」 ストレートな感想。 子供は、残酷だ。 千智だし。 グサッと、きたけど。 「───ま。確かに変な能力だったし、異端って言われても別に、周りと違っていたのは事実だったけどな」 込み上げる涙を堪え、強がるようにそう取り繕ったが、千智はゆるりと首を横に振るのだ。「違う」と。首を傾げる。 「異端じゃない」 「………は?」 「異端じゃなくて。カイのお母さんは、ただ魔女だっただけ」 「───え」 魔女。 異端。 千智は言う。 「イコールじゃ、ない」 ───それからは、結局のところオレ達が貧乏だった訳を知れて満足したのか肩から手を外してオレの隣から離れ、またえらく難しそうな本を読み始めてしまった千智の代わりにはたきをしまった七生がオレに、魔法使いが住んでいる《魔法界》というものの存在を教えてくれた。魔法使い。魔女。魔法。魔法生物。魔法薬。漏れ鍋。煉瓦。ダイアゴン横丁。ノクターン横丁。魔法省。グリンゴッツ。ホグズミード。そして、ホグワーツ。魔法魔術学校。夢のような、まっかなおとぎばなしのような、現実の話。 「ホグワーツに入るのは11歳だそうですから、その内カイにも入学許可証が届くのかもしれませんね。その時使ったのが、魔法だった───の、でしたら」 「………はあ。けど、どうして七生が、そんな事を───もしかして、」 「私ではありませんよ。千智です」 「千智?」 「千智も、大概はあなたと似たような経緯でここに辿り着いたらしいですから」 「────」 「あなたを拾って来たのも、あるいは感じ取ったのかもしれませんね。同じような、ニオイを」 死に直面して─── 結局、 他人の肉を裂く路を採った。 ニオイ。 同じような、 血のニオイ。 「私の真似をしてみたかっただけかもしれませんが」と、七生は優しく笑って、そして夕飯の支度をするからと台所へ行ってしまう。ありったけの気遣いが、胸に染みた。 「…………魔法、使い」 静かになった部屋で、呟く。 自分の手を見下ろした。 あの時の感覚を思い出し、 そして、 自身の母の力を思い出す。 あれが、魔法。 「………千智」 「……………」 聞いているのかはわからないが、 聴こえてはいるのだろう。 本から視線をそらさない千智を一方的に見据えて、オレは口を開く。 「───母も、ホグワーツに居たのか」 尋ねてみた。 「多分ね」 と返ってきた。 会話ならしてくれるらしい。 「なら何故、母は魔法界で暮らさなかった。此方では結局異端だとみなされてしまうというのに」 「わからない。けど多分、逃げたんだ」 「………逃げた?」 「わたしがそうしたように。カイもそうしたように。カイのお母さんも逃げたのかもしれない」 「何故」 「魔法界は今、キケンだから」 「───どういう──」 「カイがそうしたように、カイのお母さんを殺した人達がそうしたように、魔法使いの中でも差別や憎しみは存在するから」 「だから何かしらの理由で、こちらへ、逃げて来たのかもしれない」千智はそう言って、ページを捲る。オレは千智の方へと近寄って、その隣へ腰を下ろす。 「千智は、11になったら、ホグワーツへ行くのか」 「………わからない」 「手紙が来るんだったな」 「うん」 「千智には来るか」 「うん。知り合いの魔法使いが、前に、そう言ってた」 「オレにも───来るか」 そう尋ねると、千智は顔を上げて、オレの顔をまじまじと見つめる。何故か恥ずかしいようなこそばゆいような気持ちになるが、オレも見つめ返した。大きな丸い瞳が、オレを見上げる。しばらくお互いだんまりの後、千智は言った。 「来るよ」 と。 そして元通り、読書に戻る千智。 オレは身を乗り出すようにして、千智の読んでいるらしい本に視線を落とす。見慣れない字の羅列で、目眩がしそうだったが、 「ホグワーツへ入ったら、本を読むか?」 「読まなければならないよ」 「そうか。本を読むには、字を読めなければならないか?」 「読めなければならないよ」 「そうか。字を書くことはないか?」 「書かなければならないよ」 「そうか。書けなければならないか」 「書けなければならないよ」 「そうか。───千智」 「うん」 「オレに読み書きを教えてくれ」 「うん」 ───千智。 ───買い物へ着いてきてくれ。 ───うん。 ───そんなノリで、オレは千智に読み書きを教えてもらう事となった。 |