002



─────温かい。

その一点でのみ、思考は拓かれた。

「─────……」

身体が、ズキズキと痛む。足が手が、顔面が頭が、肩が胴体が腰が、太股がふくらはぎが。全体的に悲鳴を上げているのは恐らく筋肉痛のせいなのだろう。結構な距離を歩いていたのだから、そしてあんな散々たる道を道とも呼べないような道を通ってきたのだから、当然のことなのだけれど。こんなに痛むんじゃ、しばらく休まねば、再び直立することはおろか、上体を起こすことすらままならないだろう。また歩き出すには、時間を要するか。その事実に無意識で顔をしかめていたのか、眉間に皺の寄る感覚の後、やはり軽い痛みが走る。あー、痛えよ。痛い。痛い。……………あれ?「生きて、る…………?」声が出た。驚いた。────自分は、生きているのか?疑問に思い、そして不思議に思い、すると自分が、目を閉じたままであることに気付く。ああ、だから、生きているというのに真っ暗闇だったんだ。瞼を開こうとして、また痛み。痛み。痛い。痛いということ。まだ生きてるということ。───瞼を、「開ける」開けた。

「…………………は?」

空はいつの間にこんなに白くなったのだろう。太陽も、白いぞ。太陽って、こんなにごちゃごちゃした仕組みだったのか、へえ、知らなかったな。目が焼けてしまうからいつもは直視出来ない光をまじまじと見つめて(というより首を動かせない)、感心した。

「……太陽は、機械仕掛けだったのか」
「そんなわけがないよ」

………………ん?

「主系列星が機械だったら驚きだよ」

………………んん?

「誰かいるのか?」

首を動かせないので目玉だけを動かして360゜見回してみるが何も見つからなかったところで呼びかけてみたら「いるよ」とだけ返ってきた。この声から察するに、これは恐らくヒトだ。そして女だ。そして幼い。………いるのか。そうか。ヒトがいるのか。自分の他に。何故か、息を吐いた。そして、疑問を氷解しなければ。

「今は朝か?昼か?夜なのか?」
「昼だよ」
「昼か。昼の空は白いのか?」
「そんなわけがないよ」
「白いじゃないか」
「当たり前だよ。ここ屋内だし」
「……………はあ?」

言われてみると、今まで空だと思っていたものは単なる屋内の天井だったらしく、大きな白いタイルが敷き詰められていて、そして太陽だと思っていたものはただのランプである。言われて、ここが屋内だということには合点がいった。だが、自分は屋外にいた筈なのだが。────なるほど。なるほどなるほど。

「自分は遂に瞬間移動を獲得したか」
「そんなわけがないよ」

突っ込まれて、じゃあ一体どういう経緯で自分は此処にいるのかを尋ねようとしたところで、キィ、と何かの軋むような音の後、「拾ってきたんです」と、また別の女の声がした。首が動かないので正確には判らないのだが、ここが屋内だという以上は扉を開けて入ってきたらしい。最初からいた幼い声の主は、相変わらず姿が見えない。首が動かないので、今入ってきた女のことも捉えることは出来ないだろうと思っていたら、視界の端からど真ん中に、にゅっと、一面、女の顔が現れたので驚いて後退ろうとしたが失敗した。(横になっているので後はない上に肩を動かしたら激痛が走った)

「───お加減はどうですか?」

鈴の鳴るような、
綺麗な音だった。
声と同時に現れたのは、
黒髪の、真っ白い肌の女だ。
年は多分、
自分と同じくらい。

自分が首を動かすことが出来ないから、多分気遣ってくれたのだろう、こちらを覗き込むようにして、女の顔が微笑む。

「────……」
「動かないでくださいね。動けないと思いますけれど」
「───お前は、」
「私は、七生と申します。視界に入らないとは思いますが、さっきからあなたが喋っていたのが、千智と言います。千智、返事をしてください」
「やだ」
「今の声です」
「………ここは?」
「私の家です」
「………何故、自分は此処に」
「千智が拾ってきたのです」

覗き込んできたまま、にっこりと穏やかな笑みを携えて答える─────七生。「拾って、とは?」動けない身な以上、会話をすることでしか情報を聞き出すことが出来ない自身の身体を恨めしく思いながら、少し警戒を声に潜ませて尋ねた。

「わかりません。私が庭を掃除していたら、千智があなたを引きずって、帰って来たのです。私は買い物を頼んだ筈なのですが………豆腐はありませんでした」
「……………はあ」
「傷が深かったので、手当てさせて頂きました」
「……………それは、どうも」
「いえいえ。どうということはありませんよ」

にっこり。
……………。

何だ、この、重圧は。
圧されてるような。

「内蔵のすぐ近くまで硝子や木片が突き刺さっていましたので危ぶんでいたのですが、胃が空っぽだったお陰で命を取り留められたのです、お腹が空いてはいませんか?スープを作ってみました。飲みますか?」

…………………腹。
やはり、重症だったらしい。
頷く事は出来ないので瞬きで答えると、なんとか通じたらしく、七生は背中とシーツの間に片手を挟み、もう片方を肩に添え、上体を起こして壁にもたれさせてくれた。痛みはあったが、彼女の言うことには、これでも鎮痛剤で和らいではいるのだとか。

「肉を食べたいところかもしれませんが、胃が大分収縮してしまっているので、少しずつ慣らしていきましょう」

今度は椅子に腰かけた七生が、スプーンで掬ったスープを口へと運んでくる。少しだけ自分のそれを開くと、じんわりと温かいスープが喉を通る。美味い、と、思った。七生は微笑んで、また掬う。

「熱くはないですか?」
「…………温かい」
「それは良かったです」

………七生に食わせて貰っている間、自分はどうしても気になっているものがあった。それは体勢が変わったことで見えるようになった、最初の幼い声の主らしき子供である。確か七生は千智と呼んでいた、金色の髪が妙に綺麗で、そして異様に長い幼女だった。目はくりっと丸くて、そして、自分と同じ色をしていた。5才にも満たないような、とても小さな、女の子。この子が、7つ程年の離れた自分を、運んで来たのだと?引きずって───来たのだと?自分が千智をまじまじと見つめていることにもまるで気付いていないというように、千智はただ古ぼけた、分厚い本のページを捲っている。絵本か、とも思ったが、それにしては異様な『anatomy』というタイトル。

「───千智も、あなたと同じく、行き倒れていたのですよ。私が拾って、それから此処で2人で暮らしています」
「…………はあ」
「此処には幸い、この子のお気に召すらしい書物の宝庫のようなものですから、この子は一日中本を読んでいるのですよ」
「…………字、読めるんすか」
「読めるみたいですね。私、教えてはいないのですが───どうしてあなたを拾って来たのかと疑問にお思いかもしれませんが、それはこの子に直接聞いてくださいね。私には判らないので。まあ、聞いても半分以上は無視されてしまうのですが」
「………無視されるのかよ」
「気まぐれなもので。気が向いた時にしか喋らないのですよ」
「………そっすか」

ごくり、と、スープを飲み込む。細かく切った野菜や、肉も少し入っているので、栄養価が高そうだ。ベッドの側面を背もたれにして本を読む千智は、自分と七生が話をしていてもピクリとも動かず、目だけが文字を追っている次第で、何故、どのようにして自分をここまで引きずって来たのかを尋ねた処で、返事が返ってくる可能性は低そうだった。最初は話してくれたのに、と思ったが、その時は七生がいなかったので、千智なりに気を遣ってくれていたのかもしれなかった。すぐ側で微笑んで施してくれる七生から少し離れた処で、何も言わずに無表情でページを捲る千智。あまり幼児らしくはない姿だったが、自分も人のことを言えるような幼少時代ではなかったのかもしれない、と、閉口した。

「………とりあえず、怪我が治るまで、どうか此処で養生して下さい」
「───え。だが、」
「良いのです。此処は──その為に造られたものでした。父が建てたものですが──今は私のものです。好きに使わせて下さいな」
「─────」

ふわり、と、また笑う。
その笑みに反応したのか、千智が此方を見上げてきた。表情はなく。けれど。

「………宜しく、頼んます」


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