001



髪なんか要らない。目なんか要らない。
鼻なんか要らない。口なんか要らない。
耳なんか要らない。喉なんか要らない。
手なんか要らない。胴なんか要らない。
心なんか要らない。臓なんか要らない。

外面など要らない。
中身など要らない。

ただ、足は必要だった。

歩く為に。進む為に。
動く為に。逃げる為に。

足だけは必要だった。
自分はいつか、辿り着かねばならない。
そんな気がしていたからだ。




踵から、地に下ろす。皮膚が裂けて血が滲む。指先から、地に着けた。真ん中で折れた爪先から血が吹き出た。じくじくと痛み、ずきずきと痛む。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。それでも歩かなければ。そうして一歩、また踏み出す。歩くことを決めるのは、勇気が要った。何せ、歩く度に尋常ではない痛みを感じなければならないからだ。それでも歩かなければ、自分はならなかった。小石なんて生易しいものではなく、其処は瓦礫や硝子の破片や人の一部や頸、弾丸やナイフに塵屑同然のものが処狭しと散らばっているものだから、歩く度に自分は痛みを感じなければならないのだ、せめて木の皮の靴でも落ちているならば少しはマシになるものの、塵はある癖に、全く役立たずの地だ。パキリ、今度は折れた木の枝を踏んずけたらしく、鈍い痛みの後に続き始めたのは、さっきよりも大分濃い血の足跡であった。

「───あ"ー……畜生……」

もう暫く、喉を潤してはいない。しわ渇れた声で呟いて、今度は喉が痛くなる。痛くなるが、足のそれよりは大分マシだった。ズル、ズル、と、さっきから引きずるようになっていた、一応コートのつもりで纏っていた布切れを遂に外してその場に捨て置いた。屈む為の無駄な体力はなかったので、ぱ、と手を放すと、ひらひらと短く舞って、少し離れた所に落ちた。土埃まみれのそれは、赤い水分を吸ってすっかり重くなっていたのだ。

「畜生────あの野郎───あの野郎────殺す──絶対──いつか、殺してやる───あの野郎──あの野郎──あの野郎───」

畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生。

《あの野郎》が誰なのかと聞かれたら、《知らない》としか答えるしかない。自分は今、誰か何かも解らぬ程に大きく邪悪で理不尽なものに、怒りを募らせているのだ。その上それが目に見えず、耳に聞こえず、鼻で嗅げず、舌で味わえず、手でも触れられやしないようなものなのだから、それはもう《あの野郎》と表現することしか出来ないのだ。───まあ、そんなことを自分に尋ねてくれるような勇気のある人間は、それも生きている人間は、生憎此処には居ないのだが。

ズッ、ズッ、ズッ、ズッ、ズッ、ズッ。

先程マントを捨てたというのに歩みが一向に捗る気配を見せないのは、多分、この足にも恐らく限界を警告しているからだ。このまま歩みを止めず、急いていれば、遠くない内に必ず動かなくなってしまう。激痛はあるものの、気力でなんとか動かせていた今よりも状況は悪化して、最早手で地を這い進むしかないのだろうが、残念なことに、自身の体重を全て支えて動かすことが出来るような力もない。

ズル、ズル、ズル、ズル、ズル、ズル。

否───進む、ではなく。
逃げ──なのかもしれない。
どちらでも、いいのだが。

逃げたいのかも、しれない。
込み上げる痛みから。
無力の悔しさから。
無駄なあがきの苦しさから。
無くしたことの悲しさから。
無くしたことの寂しさから。
無くしたことの虚しさから。

痛いのだ。
悔しいのだ。
苦しいのだ。
悲しいのだ。
寂しいのだ。
虚しいのだ。

「────畜生……」

呟いて、
一歩前へ動かした足の感覚が消える。
あ、と。
思った時には、前のめりになって、うつ伏せで地面に倒れてしまう。じくり、と、地に触れている箇所から痛みが沸いた。多分、此処にある山ほどのガラクタで切ったんだ。石でまともに打った部位もあるようで、控えめな鈍痛も憎い。畜生、と。呟く。硝子の刺さった掌を、握り締めて。畜生、と。呟かずにはいられなかった。畜生、畜生、畜生。とうとう、動けなくなってしまったではないか。再び起き上がろうとして────足に力が入らない。

「畜生……………」

ごろり、と仰向けになって。
全身の疲労と、痛みに歪む。

ああ────畜生。
ここまで─────なのか。
自分は、ここで終わるのか。

こんな───何もない処で。
まるで───獣のように。

こんな処で、朽ちるのか。
こんなに──空は青いのに。

「ここで───死ぬのか」

死。死。死。
死。死。死。

今は身近にあるもの。
今も直面してるもの。

土にまみれた───自身の髪。
逃げてくる時に邪魔だからと引き千切って来たから縮れているし、背中まであった長さが今は肩に着くか着かないかだ。今や黄土の───淀んだ色。昔は綺麗だと、よく褒められていたのに。

「───ちくしょ……」

死にたく───ねえなあ。

情けない自分に、
涙が滲んだ。

霞む視界は、
いつ開いてくれるのだろうか。

逃げる力さえ枯れてしまったのだ。


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