あるものこわい(シリウス)



「───ねえ、シリウス」

広い胸板に頬を寄せ、わたしの金色を優しく絡ませる指は繊細で、細やかだけど力強い。ちゅ、と耳元でそんな音を響かせてから、シリウスは「ん?」と、返した。くすぐったい感覚に軽いめまいを覚えながら、沸いてくる眠気を抑えるために思考して、口を開く。

「あのさ───……例えばの話なんだけどシリウスは、友達に嘘を吐く子の気持ちはわかる?」
「え?」
「えっとだから、友達に成り立てーとか、そういう時にさ。いまいち信用出来なかったり、どこまで信じていいか、わかんなかったり。そういう時、シリウスはどうする?」
「よく分かんねぇけどさ──どうするっつーか………どうもしねーかな」
「なにもしないの?」
「なにもしない。ただ、いずれ信頼出来るようになるヤツが相手なら、自然とさらけ出せるようになるし、そうでないならフツーに友達やる程度」
「例えるならジェームズとか?」
「だな。けど、あいつは最初っから晒しすぎだったな。だからオレもつられたのか、ひねくれた考え方してたんだけど、段々感情的になれるようになってった」

耳元でぽそぽそと、心理の深いところの話をする時のシリウスには、普段のような底抜けの明るさはない。むしろ月明かりのもとでのみ生命を許される矮小な存在のように、微かで低く、甘えるような声色で、考えながら喋るようになる。子供のように素直に笑い、時には現実に触れた事実のように陰り。わたしはシリウスの答えを聞いて、そしてただ思う。シリウスにこんなこと、聞くべきではなかったのではないかと。人狼ゆえにどこか陰を纏っていたリーマスとの事ならまだしも、まだしもジェームズ。青空の下がよく似合う、ジェームズ・ポッター。彼とシリウスのなれそめを例えば聞いたとして、それをわたしとミリアちゃんとの間柄に当てはめることは、出来ないのだから。───わたしとジェームズは、違う。わたしは彼のように、友達を助けることは出来ても救うことは出来ない。輝くことは出来ても、照らしてやることは出来ないのだ。

「じゃ、2つめ。シリウスは嘘を吐かれる人間の気持ちがわかる?」
「それは即答だな。わかるよ」
「わかるんだ」

「今まさにそんな状態だもんな」と言って、わたしの頬に自分の人差し指を軽く刺す。少し伸びている爪が痛い。

「わかるんだ」
「わかるよ」
「でもシリウスは、もう問い詰めたりはしないんだね」
「しねーよ。何にしたって、関係ねーよ。オレらは、ずっと一緒にいるんだから。なあ、そうだろ?」
「────そうだね」

───けれど、シリウスをミリアちゃんに置き換えることに、違和感はない。
あの子はこの世に生まれ出た時から。
シリウスはホグワーツに入った時から。
実の家族からは格段の疎外を受けてきた彼らだ、お互いがお互いを見て同族嫌悪、自己嫌悪。吐気をもよおす程の嫌悪感。それらを感じてしまうのは、もはや性格だとか思想だとかの違いでどうこうという問題ではなく。───むしろ他人から同情を受けたがらない自尊心ゆえの。その、わたしにもなるべく見せたがらない自尊心を。思わずくすぐってやりたくなるのは、シリウスがここまでわたしに甘えを見せてくるのが愛しいからなのか。───この年で、母性に目覚めるとは。それも生涯落ちることはないだろうと、なぜか根拠もなしに思い込んでいた恋。そういえばカイだって、ピンクのレースのリボンですらお色気用品に変えているカイですら、あれらの女の子好きというのは遊びでも軽い気持ちでも冗談でさえ、ない。あれでも馬鹿は馬鹿なりに、積極的に自分の幸せを掴もうと必死に───否、躍起になっているだけのことなのだ。そら、幸せになれとは言ったけど。こんなうちらでも幸せになれればいいって、思っていたのは事実だけど。

「…………千智?」
「────ん。ごめん、ぼーっとしちゃってたかな」
「眠い?」
「────シリウスの」
「うん」
「────腕の中は、あったかいから」
「うん」
「────シリウスは、わたしのことを責めないから」
「うん」
「────シリウスは、わたしを好きだと言ったから」
「うん」
「から──だから───……なんだろ。続き忘れた……いや、そもそも考えながら喋ってるわけじゃないんだけどさぁ……」
「うん」
「だから───うーん……あー、もー、畜生。シリウス」
「うん」
「大好きだ」

「──オレもだよ」
そう言って笑う。
シリウス。
星の子、シリウス。
言い逃れのような『好き』にも、
ただ嬉しそうにすり寄る。
言い澱んだ言葉の続きを催促することも、しない。

───わたしのようなものが、
───幸せになっていいのだろうか。

「もう寝る。おやすみ」
「おやすみ」

呼吸するのが苦しくなる度に腕の中へと逃げるわたしは、いつの間に臆病者へと成り下がったのか。本来からわたしは逃走者だったのか。

ただこの場所を居心地よいと感じたのは、これはまさしく愛情ゆえの感覚なのだと。

これは愛なのか。
恋ですらあるのか。
そもそもわたしが、誰かに対して恋心を持つということ自体が不測の事実だったのだ。
───静かに死んだように寝息を立てるシリウスの顔を間近で見つめながら、そう思う。

……………。
…………………。

『─────愛には、かくたる印なんてなんもないんや』
『……………はあ?』

カイはいつかそんなことを言って、首を傾げたわたしを見、『わからんかなぁ』と勝手なため息を吐いたものだった。わたしが首を傾げるのも当然だと思う。目覚めての第一声が、それなのだ。唐突にこの男は何を語るのだろうと、もしかすると頭を打ってしまったのかと、聞いてみると失礼だと言ってこづかれた。

『わからんかなぁ───千智にゃ、わからんよなぁ────』
『喧嘩うってる?』
『残念さま、もう売りきれや。…………そうやなくてな。んーと。人間とは、何時までたっても何処までいっても愛を求めむさぼる生き物なんやなって、オレはつくづく実感したわけなんや』
『わけなんだ』
『なんや。だからオレはここを出てく』
『……………』
『オレは愛を、探しに行く』
『……………』

勝手に行けと思った。
本気で。

『かくたる証のない愛を見つけた時に、人ははじめて人間になれるとオレは思う。だからオレはここを出ていく』

何処か淋しそうに笑うカイを見て、わたしは何故か少し不快になった。馬鹿だ、カイは。そんなに淋しそうに笑うくらいなら、そんなに淋しいのなら、ずっとここにいればいいのに。名残惜しそうに態々わたしに別れを告げるくらいなら、どこにも行かなければいいのに。愛にかくたる証などないのなら、はじめから探さなければいいのに。探さなければ見つからないようなものが愛なら、そんなもの探さなければいいのに。愛することが幻に近い印だというのなら、愛さなければいい。愛さなければ人間でないと述べるなら、人間になんかならなければいい。獣のままでいい。わたしはそう思う。けれどカイは、そうは思わなかったらしいのだ。

『ふうん。ふうんふうんふうん──────あっそ。まあ、どうでもいいけど』

唇を尖らせて言うわたしは、人間になろうとしていたカイにとって、さぞかし滑稽に見えたのだろう。───今なら思う。あれは、お気に入りの玩具を手放さなければならなくなった子供の、最後のわがままのような気持ち。あの時のカイにもそう見えたのだろう、まるで我が子でも見つめるような目で苦笑し、背が低かったカイよりさらにチビだったわたしの金髪をくしゃくしゃにして、結局カイは出ていった。

─────結局。
カイがここから出ていった最大の理由を、わたしは汲んでやることが出来ない子供だったのだ。
愛を探すだの人間になるだの、そういったギリギリ触れることのなかった核心の部分を避けての、酷く抽象的だった言い訳を。

─────ただ。
シリウスを。ミリアちゃんを。ステラちゃんを。ジェームズを。リリーを。リーマスを。ピーターを。セブセブを。
好きになった今だからわかるあの時のカイの真意、それが今も衰えてはいないこと。
直接的に言われていないその言葉を今のわたしが知った気になるのは、酷くずるいことのように思える。

『どうしても行くの?』
『わかってくれ、どうかお願いやから手放してくれ。オレは、ここにおったらいかん存在なんや』
『そんなことはないと思うけど』
『いいや、いかん。ここにおることを、オレは赦されん。───もうここには、いられんのや』

その先の言葉を思い出して。
今隣で眠るシリウスを見つめて。
部屋にいる彼女達を思い。
下で駆ける彼等を汲み。
地下で生きる彼をなぞり。

幸せすぎて、泣きたくなった。

ゴースト


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