それは、とあるクリスマスイヴの早朝のことであった。きっちり朝の11時59分に目を覚ましたわたしは、隣のベッドに誰もいないことを確認した。わたしの部屋スペースにも、ミリアちゃんの部屋スペースにも、ステラちゃんの部屋スペースにも、誰もいないことを確認した。ここにはいつも早朝6時にわたしを叩き起こすミリアちゃんも、私にだけ部屋が無いのはずるいとわたしの部屋スペースを半分略奪したステラちゃんも、いないのである。わたしが声を出さないと静まり返る部屋。ベッドから出て、パジャマの上からカーディガンを着ただけの格好で、そっと扉のところまで歩いていって、そっと耳を寄せた。爆発音と、「うはははははは!」という声が、微かに聞こえた。 「……さっそく悪戯グッズで遊んでるんだ」 休暇中ずっとひとりだと知ったシリウスが、通販でゾンコ商品を片っ端から注文しまくっていたのをジェームズから教えてもらっていたわたしは耳を離して、苦笑してしまった。どうせ3日もしたら、ひとりが淋しくなるくせに。 「……さて。どうやって話しかけるか、だなあ」 そうっと、なるべく音を立てないように扉を開けて、部屋から出るわたし。こんな爆発音や機械音や効果音やたったひとりの笑い声がうるさい中では気付かれやしないとは思うけど、そこはまあ、立場的に。一応確認のために他の女の子たちの部屋のドアノブを回してみたり耳をそばだててみたりしたけれど、どうやら本当に、みんな、家に帰っているかはとにかくここにはいないらしい。「おーっ!モクモクわたあめスモーク!」階段のすぐそば、シリウスからは見えない位置に座り込んで、わたしはドクドクと速い心臓のあたりに手をあてた。 どうしよう。 シリウスがいるよ。 どうしようミリアちゃん、 どうしようステラちゃん、 どうしようリリー、 どうしようジェームズ、 どうしようリーマス、 どうしようピーター、 どうしようセブセブ、 どうしようレギュくん、 どうしようミューちゃん、 どうしようカイ。 顔だけ出して、シリウスを見た。 もうしばらく触れていないさらさらする黒い髪。もうしばらく見つめられていないグレイの瞳。もうしばらく呼ばれていない名前。もうしばらく握っていないごつくて大きな手。もうしばらく知らないぬくもり。もうしばらく向けられていない笑顔。ドクドクと心臓。血の流れる勢いの強さが、振動となって身体を熱くさせる。 どうしよう、シリウス。 わたし、きみが好きみたいだ。 「……シリウス!」 力いっぱい、叫ぶように呼んだわたしの声は、ひどく情けなかった。そして。 「──千智……?」 口をパクパクさせて、目を見開き、唖然とした様子でわたしの名前を口にするシリウスの声だって、同じように。 「な……んで、ここに……」 「……その――シリウスと、ふたりになりたかったから――」 「…………」 「ちゃんと、話したかったんだ」 記憶を、見せられたことがあった。 その記憶を持ったわたしにも、 同じことは出来るのだろう。 でも、 気持ちを見せることは出来ない。 今まで感じてきた気持ち。 誰かを好きだとか、 何かにむかついたとか、 何が悲しかったんだとか、 今、ドキドキしているとか、 きみが愛しいんだとか。 そういった、今まで16年絶えることなく感じ続けてきたものを、なにひとつ零すことなく、他人に伝えることが出来たらいいのに。はやる気持ちも、すべて伝えられないもどかしさも、全部だ。 『わたし』を伝えたいし、 『きみ』のことが知りたい。 「……好きだよ。シリウスが好きだよ。今まで、っていうかあの時別れるまで、割と素面で言ってきたけど、本当はそんな簡単に言えないことなんだって、今わかった。これすっごい緊張すんだね」 「……話すことなんて、ない」 「仲直りしたいんだよ。わたしが悪かったとこ、謝って、ちゃんとして、もっかいシリウスに触れたいんだよ。もう一回だけ、わたしを許して欲しいんだよ」 「…………」 声が震える。 足の感覚がない。 「わたし嫌だよ、このままなんて。やっと、わたしがずっと大馬鹿だったってわかったのに。わたしが、人生かけて悪かったとこがわかったっていうのに。シリウスにわたしのこと、すっげー性格悪い女だって思われたままだとか、シリウスが、わたしがシリウスのことを全然好きじゃなかったんだって思われたままだとか、そんなの嫌なんだよ。好きだよ。今も好きだよ。シリウスにもそう思っててほしいんだよ」 「…………千智」 3年前から、シリウスを好きになったってことに嘘はない。好きだったさ、本当に。でも色んな後ろめたさとか背徳感とか罪悪感とか、どっか冷めてた姿勢とか、そういうもののせいで、シリウスを不安にさせてしまい、更にわたしの問題のせいで約束を破ってしまって、結局は自分が壊したんだ。ぼやけた視界の中、今もうつむいて、拳を握り、突っ立っているシリウスを見て、そう思う。ミリアちゃん達は怒りながらも許してはくれたけど、それだってわたしは大分恵まれているからで、彼ら彼女らが優しかったからに外ならない。友達や家族、大切な人のために勇気を奮うことを何より潔しとするグリフィンドールの生徒としてみれば、わたしのやったことは裏切り以外の何でもないというのに。でも。 「わたし我が儘だよ。好き勝手して一年以上空白あけて、そいでいて許してほしいんだ。わかってほしいんだ。きみがその間わたしをどう解釈したか知っているし気持ちだってわかるけど、その間やっていたことはすっげームカつくし悲しいしおぞ気がするし、それに無視されんの嫌だ」 「……千智」 「でも前にスリザリンの子から守ってくれたのは嬉しかった。3年前迫られた時以上にドキドキしたかもしれない。完全に惚れ直した。っていうか代わりに叩かれた頬、痛かったよね?ごめんね。あの後リーマスにからかわれたよ、ペアルックかって。恥ずかしかったけどちょっと嬉しかった」 「千智……」 「……じゃなくて話逸れちゃったけど、わたし……これって、すっごい我が儘なんだ。わかってるんだよ。でも仕方ないじゃん。好きなんだよ。他の子たちなんかよりずっとシリウスのことよく知ってるし、わたしの方が絶対シリウスのこと好きだもん。もしあのままわたしが帰って来なかったらシリウス、婚約者つけられるとこだったんだってね。でも駄目だよ。わたしいるんだから、他の子と結婚するなんて駄目。無理なんだから。シリウスと結婚すんの、わたしだもん。これもう決定だもん。もう逃げられないんだから」 「千智」 「嫌だって言ったって無理なんだから。わたし何だってするもん。シリウスと結婚すんの、わたしなんだから。そのためだったらブラック夫人なんて脅しちゃうんだから。リーマスが前言ってた作戦だって実行出来ちゃうんだから。シリウスのこと襲っちゃうんだから。犯しちゃうんだから。邪魔するやつなんて、殺しちゃうんだから。わ、たしの、なんだから。シリウスに触れられていいの、触っていいのも、わたしだけなんだから」 「千智──」 「わたし──わたしのだもん──シリウスは最初っからずーっと、わたし──」 「──千智っ!」 肩を掴まれていた。 目の前にいた。 わたしを見ていた。 名前を呼んでいた。 わたしに触れていた。 いつの間にか。 「──千智、泣いてる……」 頬に触れられて、指が目尻を軽く拭う。目の前に持って来られたシリウスの親指は濡れていた。つん、と鼻の奥の感覚。ぼやけていた視界。眉尻を下げたシリウスが、すぐそばに居る。安堵。「……しっ、り、ウス……」流暢なブリティッシュ・イングリッシュの発音のつもりが、酷く鼻声の、詰まり詰まりになってしまう。顔のパーツすらぼやけるようになってしまった中、もういいから、と聞こえたのがわたしの幻聴でなければいい。背中に回った腕の締め付けが、気のせいでなければいい。懐かしい、ずっと感じたかった温かさが、嘘でなかったなら、わたしはもう、死んだっていいんだ。 「……夏休み、うちに泊まりに来るって言った」 「ごめん……」 「新学期、同じコンパートメント乗るって言った」 「……ごめんね」 「秋に、天体観測するって言った」 「ごめんって……」 「……誕生日パーティー、してくれるって言った」 「ごめんなさい」 「オレのだけじゃないぞ」 「うん」 「ジェームズのも」 「うん」 「リーマスのも」 「うん」 「ピーターのも」 「うん」 「リリーのも」 「うん」 「ステラのも」 「うん」 「…………」 「ミリアちゃんのも、ね」 「千智のだって」 「……ん」 「……一年以上も、無駄にした」 「うん」 「……お前のいない生活は、すごくつまらなかったよ」 …………。 わたしもだよ。 「ひとりの女の子が、いました」 語るように、諭すように、言う。シリウスの着ているハイネックセーターの毛糸に頬を擦り寄せて、ただずっと求めていた腕に抱かれてぼうっとする視界はもう何処も見てはいない。髪の毛を優しくすく指の動きが3年前とまったく変わっていなかったことに喜びと、全力で受け止められていなかった申し訳なさを感じながらもうっとりとしてしまう。シリウスは何も言わない。何も言わずに、わたしの、わたしと家族の昔話を聞いてくれるのである。あの日できなかった話を、しよう。 「その子は昔から魔法界に継続する純血の家の長女として生まれ、純血主義の家庭で、純血主義の両親からそれなりの愛情と偏見を植え付けられ、優秀な闇の魔法使いとなるべく知識を詰め込まれ、育てられてきました。──女の子の名前は、ネルドレ」 きらきらと輝く金色の髪。 うっとりするような笑顔。 優雅でそつのない言動作。 渡された『記憶』に甦る。 「ネルドレは両親や家族の期待通り優秀な賢い子に育ちましたが、どういうわけか──賢過ぎてしまったからか、純血主義ではありませんでした。自我の芽生える年齢に達するまでは両親の意向でマグルに触れることがなかったからか、マグルに好意を抱くようなことはありませんでしたが、別段これといって、人間の身体に流れる血液ごときに目くじらをたてるような子供ではありませんでした。それよりもネレは、人体の構造、血液が造られ流れるしくみの方に興味があったのです」 それでいて家族にはそんな考えを悟られないように徹底して行儀よく丁寧に、そして雅に。純血主義の考え方は決して心から賛同できる心持ちは出来なかったけれど、少女は自分が『いい子』でいれば両親や家族が喜ぶことを知っていた。少女は人並みに家族のことを愛していたためのことであった。 「少女はホグワーツに入学し、家族の和を乱したくないので帽子にスリザリンを希望しました。そこでネルドレは適度に優等生を演じ、適度にスリザリン生を演じ、そして貪欲に知識を得るため図書館に入り浸ります」 図書館の入り口に一番近い棚から一冊ずつ、ジャンルも作者も年代も難度も魔法族もマグルも関係なく、片っ端から読み漁り始める。その知識は綺麗に脳内へと吸い込まれ、膨れ上がり、どんどん枝を広げていく。 「驚異的な読書スピードで、1年生の終わりには図書館の隅の方にまで足を運びます。知識の幅を広げます。ある日ネルドレは図書館でひとりの女子生徒と出会います。その人は5つ年上の、黒髪が酷く美しい、スリザリンの先輩でした。ふたりは──たった1年しかホグワーツで過ごすことは出来ませんでしたが、とても仲良くなりました。手紙のやりとりをしたり、休暇があると、家へ遊びに行ったりする程度には」 「……にわかには信じらんねーけどな。あの母親に、親友が出来るなんて」 「ふふ。どんな人間にだってね、そうなる以前があるものだよ」 「千智はまだ、出てこないの?」 「まーだ。もうちょっとしたら、超ミニマムなわたしが登場するんだからさ」 はぁい、とシリウスは笑う。とても柔らかく笑う人間だとは前から思っていたけれど、今は加えて、とても表情が安らかそうである。まあ、それは、わたしもなんだろうけれど。 「……こほん。で、しばらくは穏やかな時間が続くんだけど──ある日ネルドレは、ひとつの鏡を見つけます。それは実家の物置から発掘した、古い古い装飾の施された鏡です。覗いてみると、そこには、なんとマグル界が映っているではありませんか!とても面白いと思ったネルドレは新しいおもちゃを研究材料とし、いじくり回しました」 「ずいぶんアクティブなお母さんだな」 「で、いじくり回している内に、何気なく映り変わる景色や人間の中、ひとりのマグルの男性が鏡とネルドレの瞳に映った途端──彼女は恋に落ちたのです」 シリウスは「えっ」と声を出して目を見開いた。……うん、可愛い。ジェームズ達仕掛け人とリリー、ステラちゃん、ミリアちゃん達に同じ話をした時も、みんなはいちいち驚いたり食いついたりしてくれたよなぁ。元気かな、みんな。 「一目惚れでした。初恋でした。ネルドレはその鏡のことを、親友の、『先輩』にだけ打ち明けて、その片思いを楽しみました。当然その先輩はいい顔をしませんでしたが──ネルドレは頑固でしたから。ずっとその男を見つめ続けていました。やがて片思いの苦しみに耐えられなくなったネルドレは、男と出会い、恋を叶えるために家と家族を捨てます。魔法界という世界までも捨ててその男の元へと走ったのでした。そして恋人同士になりました」 「すっげぇな……」 「しかし男はネルドレのそんな正体を知りませんでした。愛し合って、やがて子供が生まれたすぐ後にそれが発覚し、ふたりは別れます。素性が知られた原因はね、ふたりの子供──わたしが、赤ちゃんの時に、魔法を使ったんだって。それでバレちゃった」 「…………」 「それで怖くなったのか、別れて。しばらくの間はお母さんと2人で暮らしてたんだ。お母さんは男を失い、希望を失い、けれどどうすることも出来ないというのでまた元の、部屋にこもり、ひたすら研究にあけくれる日々を送っていました。子供のことは、ほぼ放置でした。子供は自分が見捨てられたのだと、なんとなく思いながらしぶとくひとりで、なんとか勝手に生きながらえていました」 「…………」 「ある日、かつての男がやって来ます。男には新しい恋人ができて、その恋人と婚約をしていたらしいです。男はわたしのことについて、どうやら自分が引き取ろうと話をしに来たようです。ネルドレはヒステリックになって男に掴みかかり、しかし力では男に敵わず、叶わず、すっかり頭のおかしくなった彼女は男の目の前でわたしを殺そうと、もう長年握っていなかった杖を手にとります。わたしは死ぬかと思った。ところが、死ななかった。ネルドレの方が死んでいた。なんでだろって思ったら、男がね。拳銃で」 「……撃ったのか」 「子供を守るため──って感じだったけどね。実際のところ、男が内心どういう風にわたしたち親子を思っていたのか、脅威だったのか、どういうつもりで拳銃を持って来ていたのか、わからないんだ。わたしにはネルドレの記憶があって、彼女の気持ちを想像することは出来るけどそれまでだし、彼女の中の彼はいつだってフィルター越しの感覚だったし。男の真意はわからなかった。けれど彼はわたしに言ったんだ。いきなさい、って」 ──いきなさい。 いきるとは、何なのだろう。 自分のように、見捨てられても、見放されてもしぶとく生に食らいつくことだろうか。みじめなひもじい思いを、常に抱えていくことなのだろうか。 ──いきなさい。此処ではない、何処かへ。 どこへいくというのだ。 わたしには一体、どこがある? ──凡てを忘れてしまいなさい。 忘れてしまったら、なくしてしまう。 記憶も家も家族も。 お母さんだけじゃない。 あなたのこともだ。 ──彼女はきみの母親ではなかったし──私もきみの父親ではない。だからこれは、きみとは何ら関係のない処で行われた、男女のいさかいだ。 ネルドレが母親でなく、 あなたが父でないなら、 わたしの家族は何なんだ。 ──だからこれは、きみには何の関係もなく、そしてこのことを憶えておく必要はないのだよ。 床に転がる女が何であるのか。 知る必要さえないと言う。 ──いきなさい。 行けばいいのか。 逝けばいいのか。 生きればいいのか。 「……わたしには、わからなかったよ」 でも結果的にわたしはその通りにしたのである。その記憶はしばらく忘れていたし、わたしはこうして、いきている。こうして、嫌いだった人のために涙を流せるようになったのも、いきている証なのであると。結果なのであると。 「……そのあとはしばらく独りでフラフラしてて、気絶して、気付いたら七生っていう黒髪少女がいて、お世話してくれて、居候。ヒモ?まあいいや。で、生活してたら道端でカイを拾って。……って、あ。あのねシリウス、カイって実は、血の繋がりのあるお兄ちゃんじゃあ──」 「知ってる」 「え」 「不本意ながら、知ってる」 「…………」 頬を膨らませて、眉を寄せるシリウスを見て、悟った。カイが教えたんだ。シリウスが拗ねていた原因はここらへんにもありそうだなあ、と推察する。今度じっくりと締め上げて尋問しなければいけないけれど、まあ、大体の察しはつくというか。 「……七生が死んじゃって、カイがホグワーツに行ってからはまたひとりでね。平気だったんだけど──カイ、在学中に家を出たんだ。愛を探す、とか何とか。その時は正直むかついた。そのむかつきの反動だけでわたしも家出て、修行しながら仕事して、ホグワーツに入るまでは日本で中学生してた」 「……なーんか、千智んとこだけいやに感情説明が省かれてない?」 「だって……恥ずかしいじゃないか」 「まあいーや。やっと話してもらえたんだし。夜は長いし」 「今は昼だよシリウス」 「気にしないの」 気にするよ。わたしが起きたのがちょうど昼寸前で、こうして談話室でまったりしながら昔話をして、今は昼下がり。朝食は寝てたから食べていないし、昼ご飯もまだだしでいい加減お腹が空いて死にそうである。腹が鳴らない今のうちに、わたしに抱き着いてすっかり満足そうなシリウスを引きはがして、なんとか昼食へと誘導しなければならな「ぐるるるるるる」いのだから。……今なんか、変な音がしたね?「……千智?」はい、わたしです。 「……お腹鳴りましたけど、何か!?」 「……や、可愛いなって」 「いいよもう!シリウス、お腹空いた!お昼ご飯食べに行こう!」 「おう。……あ、でも千智。ここにはオレと千智しかいなくて、生徒も教師もゴーストもしもべ妖精もいねーから、自分で作んなきゃなんねえけど」 「……うわ」 …………。 そこまでしなくて良かったのに。 というのは、 すべて安全に何事もなく終わることが出来たからこそ、言えることである。 |