002 むしられる



「きゃーっ!」

──と。めちゃぶりっこだと過去に言われたことのある叫び声を上げてあからさまにびっくりしたような顔をして驚いているのは、『可愛らしい』がよく似合うリリーやミリアちゃんやステラちゃんなどのいわゆる美少女の類のものではなく、あくまで金髪金目の長身痩せ型、自称ミステリアスなグラサンである自称わたしの兄貴であった。つまりカイだ。

「い、い、いつの間にっ!いつの間に千智、こんな、可愛らしゅーなって!美少女やん!美女やん!美人さんやん!」
「うっぜぇ……」
「お、お兄ちゃん、ムラムラしてきた……っ!──ああ神よっ!どうかこの恋をお許し下さい。ラーメン」
「許されるかボケェ!」

いっそ股間を蹴り上げようと思ったら思いっくそ抱きつかれた。ぎゅうぎゅうと苦しい。呼吸が困難だ。ぎりぎりと肉が締め付けられる感覚につい怪力で締め返しそうになったけど、カイに抱きしめられるのは久しぶりではないがカイはわたしを抱きしめるのは久々なのだと思うと、ちょっとの間だけ大人しくしてやった。

「…………」
「…………」
「…………」
「……胸も成長してるやん」
「死ね」

股間を思いきり蹴り上げた。
カイはまた女らしい悲鳴を上げて沈没した。「きゃーカイ先生ー」「泣いてるー」「かわいそー」女の子達の同情的なカイへの声を聞きながら、わたしは講座教室の机に座って足を組んだ。「ナイス脚線美!」妹に何てことを言うのだろう。

「……は。相変わらずこの教室には美人が駐留してらっしゃることで」
「美人やってよリーガンちゃん」
「やだもう、千智ちゃんってば!」
「…………」
「えーリーガンだけなのカイせんせー」
「ずるいー」
「私達はー?」
「もちろんセレスちゃんもチルッチちゃんもルリルちゃんもユリアちゃんもシレンちゃんもみーんな可愛い思てるよ、オレは」
「えー?」
「どれくらい?」
「んー。食べちゃいたいぐらい」
「…………」

……えーと、なんだ。
わたしはいつまでこの放置プレイを許容していればよいのだろうか?ていうか、授業の後に居残るよう告げたのはカイの筈では。イラッときて、カイの腹部に肘を入れた上で美女軍団には早々にお引き取り願った。彼女達はいかにもしぶしぶといった装いだったが、教室を出る間際、「そうそう、八城。ひとつだけ忠告しておいてあげるわ」とわたしを振り返った。

「──なんでしょ。えっと……チルッチさん?」
「あなた、ブラックのファンには気を付けた方が良いわよ。あなた達が付き合っていた頃はまだ我慢が利いていたみたいだけれど、ブラックがああなっている今は自制が効かなくなってる」
「……別に、別れたわけでもないんですけどね……」
「そうなの?でもどうせ同じよ。みんなあなたが彼を捨てたと思ってる。それなのに今さらって憤慨している女子生徒は沢山いるでしょうね。今日から徹底的に標的にされるわよ」
「──それは、まあ……」

予想していたことではある。
壇上に上がった時の、
あの刺すような視線の数々。
憎悪と嫌悪の塊だ。
今朝の朝食時にもピリピリと。

「まあ──気を付けます」
「私たちは別に、どうでもいいのだけれど。まあほんの雑談よ」
「──でも先輩方、どうしてです?わたしが入学してきた時、色々と嫌がらせしてきてくれたあなた方が、どうしてわたしに忠告なんか?」

「それは派閥の問題ね」答えてくれたのはリーガン先輩だった。ツヤツヤの黒髪が眩しい。

「派閥?」
「というか、一派。私たちも少し前まではシリウス・ブラックの一派だったのだけれど……だから彼の周りをうろちょろしていたあなたにちょっと手を出してみただけなのよ。要は焼きもちね」
「焼きもちとか可愛らしいレベルのもんでもなかった気がしますけど……」
「けど今はカイ先生派だもの。やっぱり私たちには大人の男が合うわよね。ねえ八城、そう思わない?」
「……そうですね」

思わない、とは立場的にも空気的にも言えなかったので同意すると、彼女たちは綺麗に微笑んで(カイ宛てに)今度こそ教室を出ていった。うーん。3年の頃は彼女らの嫌がらせに多少なりともブチ切れそうになっていたわたしだけど、今回のケースにおいてはとてもいい人に見える。こればっかりはカイがこの世に存在していることについて、まんざら悪いものでもないと、そう思った。「そこでだけなん!?」思っただけでなくどうやら口に出してたようだった。

「うーん、カイ」
「何や?」
「二人きりになっちゃったね」
「…………」

カイの表情を伺おうと見やったがこちらに背を向けて教卓にアグラをかいていたので見えない。わたしはそのまま言葉を続ける。

「……カイさー、うちのお母さんと、いつ会ったよ?」
「……4年の時のハロウィンらへん」
「言えよ馬鹿」
「嫌や面倒くさい」
「言えよ馬鹿丼」
「イングリッシュやのに漢字の字面!?」
「で、どこで会った?」
「……夢の、中で」
「ゆめ?」
「えーと、あれやん。ステラっちの家のゴタゴタ片付けた時も、あの子の記憶見してもらう必要あってんけど千智に殴られて気絶したままやったし、しゃーないからあの子の夢に入り込んでん。お喋りしたりな。やからあの子とは4年のセレモニーが初対面やなかったんや」
「へー……で、ネレの夢にも潜ったってわけ」
「うん。夢の世界に侵入して、驚いたんがその情景やな。夢の世界っちゅーんは人の願望や欲望、こうなったらええなって希望の他に強烈に根付いたメモリーとか色々あるけど要するに人の頭ん中ってことや。あの人の頭ん中見た時、オレは正直めっちゃ驚いたよ。驚き過ぎて吐きそうになった」
「知識欲と支配欲か」
「うん。グロッキーな映像やった。でもそれだけやなくてな。あの人の夢に出てきたあの人の記憶を更に覗いてみたら」
「覗けるもんなの?」
「覗けるもんなの。で、見てみたら驚き桃の木扇風機、ピンクや。ピンク一色や。出てきた人間は2人。1人はあの人本人で、もう1人はひとりの男。要するに色ボケ状態やったわ」
「へー」
「で、オレはそのギャップに吐いた」

結局吐いたのかよ。
──まあ、全く2つの異なった願望や欲望が人から自分の脳内へ、直に入り込んでくるのだ。自分の思考とせめぎ合って混ざり合って、通常の人間の精神ならばまず耐えられない。いわば開心術のハイエンド級。だからそれが出来るカイは重宝される。らしい。その中でも特にキッツイのが、対象の葛藤の放棄による精神的矛盾の肥大化と執着の深さ。らしい。

「ふーん……まあ死ななかったわけだし結果オーライってことで別にカイを責めるつもりはないんだけどね」
「あ、ないん?なんやなんや、それやったらわざわざ夜ぅ着かんくてもよかったんやな。損した気分」
「損した気分、じゃねーっつの。わたしに怒られると思ってたのかよ」

あーよかったぁ、と胸を撫で下ろすカイはわたしがそう聞くと「いや」首を振る。がらりと口調が変わった。

「嫌われるかと思ったんだ」


「……カイのことは責めちゃいないけど、わたしはカイに言いたいことがあるよ。──否、伝えなくちゃいけなかったけど、黙ってたことがある」
「ん?なになに」
「『ごめんなさいと──』」

ごめんなさいと、伝えて下さい。
あなた達を、遺していくこと。
私はもう、生きられません。
あなた達と、もう少し一緒にいたかった、というのは未練というものなのでしょう。
けれど私には、未練があってももう仕用がないのです。
もう少し、あなた達と一緒に、生きてみたかった。カイや、千智と、家族のままでいたかった。例えそれがただの私のままごと遊びでしかなかったとしても、あなた達とずっと一緒にいたかった。
けれど、駄目なのです。
だって、私は。

私はもう、七度目なのです。

「『綺麗な髪──切らないで下さいね。私のことを、ほんの少しでも思っていて下さるのなら、私のことを、めまぐるしい日常の中、忘れるつもりがないというのなら、たまにほんの一時、眠れない夜やすることのない暇な時にたった一欠片でも、私のことを思い出してくれるというのなら、どうか伸ばしていて下さい。私はあなた達の、その、星のように、月のように、太陽のように、輝く金色が好きでした。太陽よりも、月よりも、星よりも好きでした。だからあなた達には──私の好きなあなた達でいてほしい。死者の懇願など足枷にしかならないのは承知しています。けれど私の──未練や後悔や遺恨を昇華させるには、そう縋るしかないのです。縋りつくしかないのです。だからどうか、あなた達は、私の好きでいたあなた達でいて下さい。そして変わって下さい。誰かと仲良くなりなさい。誰かを信用しなさい。誰かと友達になりなさい。誰かを頼りにしなさい。誰かを信頼しなさい。誰かと親友になりなさい。誰かと家族になりなさい。誰かと恋人になりなさい。誰かに恋しなさい。誰かと愛を養いなさい。誰かと──』」

その《誰か》が私になれなかったことが、なにより私の悔いでした。

廃棄された私を拾い、
育ててくれた人。
放棄していたカイを拾って持って来たわたしの頭を優しく撫でてくれた。わたしもカイも、それぞれたった数ヶ月しか一緒にいたことはなかったけれど、かつては獣であったわたし達を飼い、養い、培い、育み、そして愛しんでくれた少女がいた。

「『人間の、悪いところばかりでなく、良いところも存分に思い知って下さい。あなた達は、少し、偏見が過ぎます。人間になることを、放棄しないで下さい。あなた達が考えている程、人間は悪くはありませんよ』」

昔、わたし達のいた彼処は、何もかもを放棄した人間が、最後に行き着く最果ての地。お母さんみたく、唯一すらも保持していない人間が、流れ着く場所。そのことはわたしもカイも、なんとなく感じ取っていたことだった。だからカイは、ホグワーツに通い始めて世界の部品を知ったカイは、彼処を出て行った。愛を探すとか何とか言って。いきなり方言を喋るからびっくりしたけれど。わたしは残ったままだった。ひとり、残ったままだった。

「死ぬ前にね、七生はそう言っていたんだよ」

そして、
ひとりになって気付いた。
七生も、放棄した人間の内の一人であったことに。
どんな過程で、あの七度生きる少女が創られたのかは知らないが、とにかくあの子も迷子の一人だった。そしてわたし達を待っていた。あの子は多分ああして、時々迷い込んできた人間と生活を共にしていたのだろう。そしてその人がもう一度立ち直れるように、人生を送れるよう手助けをしていた。──けれど七生本人には其処を出るつもりはなかった。

「それならわたしもいつか、七生みたいになるのだろうか。ひとりでずっとここにいて、いつか何もかも失って、七生のように、死ぬまでここにいなければならないようになってしまうのか。……怖かった。そうなるのは嫌だった。楽しそうにしていた影で七生が苦しんでいたのを知っていたから、そうなるのだけは嫌だった。怖かった。だからわたしも、カイが出ていってしばらくしてから、あそこを離れることにしたの」
「…………」
「幸いにも知識はあったから、ドイツのとある研究機関に潜り込んだ。そこにいたのは変人ばっかりで、でもいつも陽気で明るかったから、わたしもそんな風になろうと思って、なりたいと思って、必死だった。身体も鍛えて戦えるようになった。もし魔女じゃなかったとしても、生きていける位には。それから日本に行って学校に通うようになって──ここに来て」

半ば無理矢理に、
多大な仕方なく。
……ダンブルドアには、恨み言のひとつでも言ってやろうかと思ってたのになぁ。
ここで手に入れたものは沢山あるから、口を閉ざすしかない。

わたしは机から下りて、カイの正面に立つ。顔を背けているカイを、見て、笑いかけた。

「そしてわたしは、愛せるようになったんだよ」


あくる日、中庭に呼び出しを受けた。
匿名さんからの手紙。
リンチかと思い戦闘体勢で向かった。
現れたのはレイブンクローの男子で、その男子はわたしを見ると顔を赤らめたまま一言「きみのことが好きなんだ」と言って、うつむいた。
びっくりした。
思わず「あ。ごめんなさい」と言った。
びっくりして断ってしまった。
「あ、いいんだ!気持ちを伝えたかっただけだから……」と、少女漫画に出てくる爽やかな咬ませ犬的な台詞を吐いて去って行った男子の背中を呆然と見つめていたわたし。


「──知らなかったのか?お前、前から割とモテていたぞ」

中庭で起こった、レイブンクローの男子生徒の一人一大舞台のことを話すと、ミリアちゃんはけろりとした顔でそう言って、読んでいた本(メルヘンチックな外国文学)に栞を挟んで、閉じる。わたしが「はあ?」と間抜けな声を上げると彼女は偉そうに溜め息を吐いた。

「気付かなかったのか。転入してきた時から、狙っていた輩はそこそこいたのだぞ。──否、狙おうとしていた、が正しいのか。ほら、千智って割と可愛いし」
「へー。それは知らなかったな」
「それはブラックに即日予約されたからだろうな。あいつ、影で色々とやらかしていたみたいだし。わざと他の男子がいるところで抱きしめたりキスしたり」
「狙ってやってたのか……」
「で、随分綺麗になって見違えたお前とブラックは既に別れたと思われているだろう?今朝方届いた手紙達もその類のものじゃないか?」
「時間なくてまだ読んでないよ」
「交際の申し込み5割、嫌がらせの手紙5割といったところか」
「あーうん、嫌がらせは増えたよねぇ」

あははっ、と笑うと呑気に構えるなと怒られた。頬を膨らませているミリアちゃん、また随分と表情豊かになったなあ。──まあそれは、再会したその日に、お互い全部話して理解して、和解出来たからなのだろうけれど。

「けどその和解がシリウスと出来てないってのが、わたし的にキツイんだよねーっ」

無視だ。
無視。
徹底的な無視。

あの日からずっと、シリウスとわたしは一言も言葉を交わさないままでいる。もちろんわたしは、何度も話しかけようとしているのだけれど、シリウスがわたしを無視し続けているのだ。ジェームズ達といる時に近付けば離れていくし、一人でいるところに声をかければ偶然通りかかった女の子とどこかに行ってしまう。ジェームズいわく、去年はシリウスの乱交があまりに著しかったせいで彼等仕掛け人のメンバーが一緒にいる時間もあまりなかったらしく、せっかく彼等といたところにわたしが行くとまた離れてしまうし、声をかけるとこれ見よがしに自分から女の子に声をかけるようになってしまうので、ジェームズ達に気を使うのとわたしの焼き餅の両方の理由で、最近シリウスには声をかけておらず、仕掛け人達とは距離を置いて過ごしているのだった。

「愛しさ余って憎さ百倍か、あるいはただ拗ねているだけなのか──どちらにせよ、一難去ってまた一難。お前の人生は一体どうなっているのだ」
「それはわたしにも分からないよ」
「──それでもブラック、お前が帰って来てから、夜に一人で抜け出すことはなくなったらしいぞ」
「……うん。ジェームズから聞いたよ」

彼は嬉しそうに「さすがは千智効果だね」と笑っていたけど。リーマスによると、リリーや他の友達といる時に割とちらちらこっちを見ているらしい。「非情に徹しきれないところが何とも犬らしいよね、あはは」こちらはとても楽しそうだった。ああぼく毎週楽しみにしてるんだよあのテレビ番組、面白いよねー。みたいなノリだった。非情はお前だと思った。

「んー……愛がある分、希望はある分、まだマシなのかもしれないよね……」
「けれど長期戦にはなるだろうな」

ミリアちゃんは、凛とした声ではっきりと言う。

「お前のことが大好きなブラックが、毎日毎日公衆の面前であれだけ愛を叫んでいたブラックが、お前の声を無視してお前の和解を拒み、お前の存在に目を背け一切関わろうとしないんだ。それなりの覚悟と表現してもよい。完璧に無視出来ていないところが何とも昔の名残があり過ぎておるが、ブラックはそれだけ、お前に傷付けられたんだ。単に謝っただけで、簡単に『ああそうだったのか、なら仕方がないよな』で済ませることが出来ない程、お前のいなかった1年半に絶望した。名前すら覚えていない女を毎晩狂ったように抱いてそれでも潤わない位、飢えた。置いていかれた、裏切られた、と感じていても無理はない状況だということは──自覚しているな?」

ミリアちゃんがわたしに向けたのはわたしに対する非難の言葉だったが、その声は酷く優しかった。わたしはそれに応えるようにして頷く。《裏切られた》という感覚なら、この身でも──あの記憶でも思い知っている。まがまがしい、どす黒い、うねりをあげてとぐろを巻く、感情。それは、屈託なく笑うシリウスを知っているわたしには──あまりにも痛い。首肯したわたしに、ミリアちゃんは微笑む。ほっとするような笑顔だと思った。

「──なら、よい」
「…………え」
「悪いと思うのならよい。反省したのなら、よい。次からしなければよい話だ。考えてみれば、深い処は互いに探らぬよう見て見ぬフリをしてきたお前達にとってもちょうどよい機会なのかもしれんしな」
「──機会、」
「転機、といったところか。大体、お前は恋人に対して隠し事が多すぎるのだ。それを容認していたブラックもブラックだし。そんなことでは、真の恋人とは言えん」
「……うん」
「私とセブルスのようにな」
「…………」

相変わらず肝心な部分へセブセブを引き合いに出したがる子だと思ったが、しかし考えてみればその通りで、今までなあなあにしてきた部分を全部ほじくり返して、2人で直視していかなければ、今までのような関係など、今のようにあっけなく崩れてしまう。

「……ゆっくり、そんで間違わないように、もっかい築き直していかなきゃね」
「うむ」
「わたし、シリウス好きだもんね」
「うむ」
「シリウスもわたし好きだもんね」
「うむ」
「好きなら、ちゃんと見なくちゃね」
「うむ」

大きく威厳たっぷりに頷いて、ミリアちゃんは笑う。この子は変わった。笑えるようになった。泣けるようになった。色んなことが出来るようになった。羨ましい。カイも、ミリアちゃんも、ステラちゃんも、みんなが、羨ましい。みんなを助ける傍らで、ずっと前から、みんなが羨ましかった。……わたしも変わりたい。出来ることなら、シリウスと一緒に。

「ところでミリアちゃん」
「うむ?」
「魔法史の課題は終わったのかな」
「……………」
「ミリアちゃん」
「はい」
「変わりなさい」
「かたじけないでござるっ!」

……それ、まだ使ってたのか。


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