001 おにいちゃん



「くさっ!」

がたんがたんがたんがたんがたん。
僅かに揺れる車内。
右から左へ流れていく景色。
あちらこちらから聞こえてくるおしゃべりの声。笑い声。黄色い声。
コンパートメント。
車内販売のおばさん。
そして9月1日。今日の日付。

……とまでくれば、そこはもう立派なホグワーツ特急の乗客であり、それに乗る者の大半ないし殆どがホグワーツ魔法魔術学校の生徒であるという。あるいは今日から生徒になるという子供達。つまり新入生。新入生は在学生とは違ってまだ自身の寮が決まっていないので今夜の組分けの儀式までは暗い同系色の制服を身に纏っている……らしい。わたしはちょうど今から1年前の3年生からのスタートということで気合いを入れまくり、いわゆる改造制服というもので儀式を受けた記憶があるので体験はしていないが。さて。ところでそんなホグワーツ・エクスプレスに乗る生徒群の中に、1ヶ月以上前に4人詰めて座った記憶があるところの座席を悠々と1人で使い、かつホグワーツの生徒などではない癖に車内販売していたお菓子を大量に買い込んで食べ始め、始めたところ3秒で「くさっ!」と言い、べっと吐き出した人間が1人だけいる。いることにはいる。誰だろう。犯人は、このコンパートメント内にいる。って言ってもこのコンパートメントにはわたしと奴の2人しかいないのだが。

「千智!!これ、くさいっ!!なんでお菓子やのにこんなくさいん、これっ!!信じられへん!!腐ってんちゃう!?」
「……百味ビーンズだよ」
「らっきょ!!らっきょは、きつい!!」

べえっと吐き出したビーンズはそのままにしておくと衛生上良くないので、杖を振って消し去ってやる。すると「おおっ!」と声を上げる、奴。……本来ならお前、自分でやらなきゃいけない事だぞ。

「やー、すごいすごい。もう千智ってば、すっかり魔女っ子さんっ!」
「黙れよ不良債権めが」
「いやいやいやいや。魔力のコントロールもうまい具合に舵取れてるみたいやし、やっぱ入ってよかったやろ?ホグワーツ」
「…………」
「おにーちゃん、安心しました」
「……死ね」
「なんでっ!?」

おにーちゃんは妹の顔面に吐物をぶちまけたりはしない。妹の顔は大切に守るのが、世の中の正しいおにーちゃんであるはずだ。箱からさっきのらっきょ味のように取り出したビーンズを、何のためらいもなく口に放り入れる、我が家の不良債権。さっきのらっきょ味に懲りてしまわない所が、ダンブルドアとは違うところだが、それは評価すべきなのか否なのか。逆に言えば、何をしてものれんに腕押し柳に風で、まったく影響がないということなのだ。

「……まったく。急に消えたり現れたり。あーやっとそろそろ死んでくれた頃かなって思ってたのにな。何で生きてんだよ」
「んー?いやあ、ボクが死んだら新世界の希望がなくなっちゃうでしょう」
「死ね。むしろ死ね」
「正直なところ、ほんとに死にかけててんけどな。千智から連絡くれるなんて思ってもみなくて嬉しさのあまりに元気になる体操を踊ったら復活しちゃいましたとさ」
「しなければよかった!」

連絡しなければよかった!
自分で何とかすればよかった!
くそう、なんでこんな奴の力なんて求めてしまったんだ!
忘却術なんて、一番最初にマスターしておけばよかったんだ!

「えっと、ラザニアちゃんだっけ?千智が珍しく無償で人助けたお相手ちゃん」
「そだよ。名前はミリアちゃん。日本人で、今日からまた半・同居生活」

「同居ねえ」そう言って、くくく、と自称おにーちゃんは笑う。何を隠そうこの男、元々は1つだったあの馬鹿でかい部屋をこともあろうにまっぷたつにしちゃった張本人なのだとか。その事実を知ったのが、この男がミュンヘンにある家に転がり込んで来た8月下旬のことなのである。その時の奴の一言がこれだ。

「金貸して!」

…………。
どんなアニキだよってね。

「で?話によー聞くシリウスくんは?なんでここにおらんの?」
「お前が入口の前に『入ったら死ぬ』なんて殺し文句を書いた紙を貼るからまさかここにわたしがいるなんて思わないんだと思うよ」
「ちぇ。会いたかったのになー」
「何をする気だ……」
「兄弟の杯を」
「ふざけんなー」
「本気ですぅー」
「ふざけんなー」

言い合う中でも車内販売のお菓子は減っていく。その様子はいつぞやのリーマスを思い出させるが、その時はこんな感情は沸かなかった。死んでしまえ。愛してる。そしてそんな感情を抱かれたおにーさまはというと、今度は「からっ!!!」と言いミント菓子を吹き出していた。器用にも、わたしの顔面に。やっぱり、死ね。


「千智っ!」
と、わたしを最初に見つけたのはステラちゃんだった。トランクを持って汽車から降りたわたしに駆け寄ってくるステラちゃんは可愛い。

「やっとわたしに癒しが……」
「?」

首を傾げるステラちゃん。
そりゃ、わかんないよな。
ちなみに《奴》は着いた早々「お化粧直してきまあす」という気持ち悪い嘘を吐いてコンパートメントを出て行って、それから姿は見ていない。まあ、なんとかするんだろう。

「どうしたの、千智。顔色が悪いわ。それに、目の隈」
「ああ、うん。ちょっと寝不足……」
「あら。情事?」
「違う」
「あら。残念」
「ステラちゃん」
「うん?」
「恥じらいを、もて」

わたしの周りはこんなのばっかりか。
ステラちゃんは気にせずうふふと笑って「やあよ」なんて言いながら、対面しているわたしの向こうに知り合いを見つけたのか、あっと声を上げ、大きく手を振った。「リリー!ジェームズ!リーマス!ピーター!」本当に明るくなったステラちゃんのそう言った声に、わたしも振り返る。リリーとジェームズとリーマスとピーターがいるということは、必然的に。

「オレに挨拶はなしかっ!」
「シリウス!」

後ろの車両の方から突っ込みつつ走り寄ってきたシリウスはわたしが振り向くと気付いたようで、「千智ーっ!!」と。相変わらず人目も気にせず叫んで加速して、そしてその勢いのままで飛び付いてきた。「ぎゃっ」わたしも反射的に叫んで、加速したシリウスを当然受け止めきれず、そのまま空中で孤を描いて背中から地面に落ちて、慣性の法則プラス動態摩擦力でしばらくの間、背面スライディング。ずさささささ。

「…………」
「……あー……千智。久しぶり、だなっ?」
「死ね」
「がーんっ!」

口で言うなよ。
そう突っ込むとシリウスは「またなんか機嫌悪いなー」とかぶつぶつ言いながらわたしの上から退く。……こちとら背中痛めてんだぞ。そう文句を言おうとしたが、「ほら」と既に立ち上がったシリウスから差し出された手に、結局はわたしが折れてその手を借りた。


「うっわー。見て見てみんな、新入生だよ、小さいよ、可愛いよ!」
「そう?私は千智の方が可愛いと思うけれど」
「そういえば千智も去年は新入生に紛れていたんだよね。身長的にも見事に」
「そうそう。僕はちゃんと聞いていたよ、マクゴナガル先生に向かって、あの暇暇コール。面白い女の子がいるよって、シリウスと話してたんだよね?」
「おう。あいつ絶対グリフィンドールだぜ!って。やっぱその通りだった」
「組み分け帽子があんなに楽しそうに組み分けしていたのを、私、初めて見たもの」
「あの時、け、喧嘩してなかった……?」
「ふん。私はダンブルドアから聞いて知っていたぞ。千智は間違いなくグリフィンドールだって」
「…………」

そんなわけで、
全員着席、イン、大広間。
グリフィンドールのテーブルは端から数えて2つめなので、その脇で所在なさそうだったり緊張した面持ちだったり目を輝かせていたりふてぶてしい態度だったりと多様な顔つきで規律して並んでいる黒い制服に包まれたような新入生たちをじっくり観察することが出来る。わたしも去年は立場こそ違えど、この列の最後尾に並んで立っていたものだ。思い出してしみじみとしながら最初の言葉を発したら、皆思い思いの返事が返ってきて、感慨深い雰囲気は一気にぶち壊されてしまったの、であーる。いや、ステラちゃんだけは許してやってもいいけれど。壇上では既に組み分け帽子による寮決めが行われている。「グリフィンドール!」「スリザリン!」「ハッフルパフ!」「レイブンクロー!」あの帽子はあれだけ声を張り上げていて喉が枯れてしまわないのだろうか?そもそもあれは、一体どういった魔法で喋れるようになっているのだろう。一度じっくり解剖して、まず第一にあの帽子なるものに声帯機能がついているのか、調べてみる必要があると思う。

と。
そんなことを考えていた時。

「あー、暇っ!!」

と。
そんな声が、聞こえてきた。
今していた話が話なだけに、わたしも含めた近隣の皆の視線が一斉にその声へと向かう。

真っ黒なローブを着た女の子だった。同じく黒のプリーツ・スカート。ただし、ホグワーツ指定の制服なのはその2ヶ所だけで、他はローブと同じく真っ黒のブラウスの下に紫色のカラーシャツを着込んでおり、極端短いスカートに黒×紫色のボーダー柄ハイソックスというファッションだ。ネクタイの色は真っ黒だったので、間違いなく新入生のはずなのだが。「異彩だ……」呟くと、ジェームズ達だけでなくグリフィンドール中から「お前が言うか」という視線を投げ掛けられた。

「あの子さあ、なんか千智に似てない?」
「似てないよジェームズ」
「あの子さあ、僕はグリフィンドールになると思うなあ」

……くすん。
これ、いじめだ。

そうこうしているうちにミネちゃんに名前を呼ばれたらしく、その女の子は「はあい」と間の抜けた声で人波をかきわけ前へと歩いていった。ステージに上がり、組み分け帽子と対面する椅子に腰掛けて帽子を深々と被るも、その場に似つかわしいファッションと、そして何より異彩を放つその黄緑色に跳ねた髪の毛が、後ろの席からでも十二分に目立っている。すると組み分け帽子がすぐに「スリザリン!」と、高らかに叫んだ。ジェームズが「えっ」と声を上げる。組み分けの言葉を聞いた女の子は脱帽し、《当然だ》という表情をしてステージを降り、さっさとスリザリンの輪の中へ入っていった。これには他のグリフィンドール生も驚いたらしく、目を見開いたり、あからさまにがっかりした様子の人もいた。

「あれえ?おっかしいなあ。組み分け帽子、しっかりグリフィンドールに面白い子を運んできておくれよ!」

ジェームズが吠えてもどうにもならず、組み分けはそれからもしばらく続いた。

そして、続いた後。
「うぉっふん」
と、咳払いをするダンブルドア。
大広間内にいるすべての人間がそれで一斉に前を向いた。
マイクの前に立つ恐怖の長髭の一歩後ろに、昔出会って、突然ご無沙汰なく、そして最近になって再び見慣れてきた顔が、いつもの軽い笑みを浮かべている。わたし以外にもその姿に気が付いたのか、きゃあ、と高い声が沸く。

「──さて。今年もまた例年のように、教科担当教授が新しくホグワーツに来て下さった」

まぶしく輝く金の長髪。
闇の中に浮かぶ猫のような瞳。
鳶色のローブを羽織り、
しっかりとステージに起立している。
そして、自信の満ちた笑み。
孤を描いた唇はふとこちらに向けて、薄く何かを呟いた。気がした。


「レディース、アンド、ジェントルマン。ボクの教室へようこそ。昨日ダンブルドアにご紹介あずかりました通り、今日からキミ等に《闇の魔術に対する防衛術》を教える事になったカイっていーます。まあ防衛術だけでなく、今年から始める特別教科も担当することになってんねんけど、まあそれは夏休み中にホグワーツから送られてきた手紙に詳細が知らされてる筈やな?特別な資質があると見込んだ生徒にのみ参加が許される──ああ、それにつきましては手紙を読んで下さい。あっ、日渡カイって本名なんやけど、アジアンネームって覚えにくいやろ思って、先生、覚え方考えてきたから。日を渡す謎の物体エックスと読んでカイ、χね。キャラはミステリアスなグラサンってことで立てていこうかと考えてますー。皆さん、よろしゅーね」

金色の長髪をゆるく1つにまとめ、猫のような金色の瞳を覆い隠すよう、薄い青紫のサングラスをかけていた。ローブは着ておらず、まるで自身が生徒であるかのように糊の効いたカッターシャツをだらしなく腰ではいた黒いズボンに入れ、その下には真っ赤なカラーシャツを着込んでいる。年は20より少し若く見え、その学生のような格好には全く違和感がない。しかし彼の口にくわえられた煙草が、その外見を裏切っていた。そしてその、妙になれなれしい話し方。日渡カイ、と自称した。その場にいる彼とわたし以外の生徒の反応は似たり寄ったりで、一見かなり整って見えるその美貌に息を漏らす女子生徒(大半)だったり、そのくだけた笑い方に教職を見い出せない男子生徒(大半)、そしていかにも《面白そうな先生だなあ》と目を輝かせる男子生徒(一部指定)に《何だこいつは》と不快感を抱く、似たような少年少女(完全指定)。───で、机に肘をつけてその掌に顎を乗せ、そんな《教授》を睨むように見上げるわたし。しかしカイは、そんなわたし達生徒の反応を全て受け入れているかのように、ただへらへらとした笑みを口元に浮かべるのだ。

「えーっと。まず4年生になった皆さんには、この魔法界で禁じられている魔法、いわゆる《許されざる》3つの呪文について教えちゃいます」

カイは黒板の端から端へゆっくりと往復して、杖を手にしてわたし達生徒をざっと一望してみせた。そして「そこのキミ!」と、杖で指す。起立を命じられたのは、ピーターだった。

「ごめんな、まだ名前覚えてないねん。キミ、名前は?」
「ピーター・ペティグリュー、です」
「うんよしピーター。まず、許されざる呪文とはどういうもんか、答えてみ」
「う、え、え、」

緊張しているのかビビっているのか、うまく口が回らず言葉に出来ないピーター。周りの生徒が、くすくすと笑う。……ピーターって《教授》が苦手だからなぁ。わたしの隣に座っているリリーが心配そうに見守っている。カイは「あー」とか「うー」とか口ごもっているピーターに、「落ち着き、な」と笑いかけた。

「えと……同じ類属であるヒトに対して使用しただけでも、アズカバン送りになる呪文……」
「せーかい。ドールに3点ね。そやな、そんでアズカバンに送られた全ての人間が、そこで一生を終えることとなる──いわゆる、終身刑、や。周りはヒトゴロシばっかやしディメンターはおって一日中ブルーな気分やし、もーお先真っ暗。絶望のどん底、や」
「…………」
「あっ、ピーター、もうええよ」

笑顔で生徒をビビらせる教授。
やっとだが、何事もなく着席できたピーターを見て、少し安心した。──カイが教師なんて、未だに想像が出来ない。絶対何かやらかしてしまうのではないか、と、授業が始まった時からずっと、ポケットの中の杖を握っている状態なのだ。「そんでぇー、その3つの呪文ってゆーのがぁ」と言いながらまたこちらを一蔑して、また杖でびしっと指命した。一番前の窓際の席、スリザリン生が起立する。

「キミ、お名前は?」
「……セブルス・スネイプです」
「おっけーセブくん。じゃーその3つ、答えてちょー」
「…………」

セブセブが少しだけ沈黙する。
まさか答えられないわけではあるまいだろうが、とセブセブを見つめていると、思わず目が合う。そして、突然脳内に、ぴん、と何かが張った感覚がした。あ、これ、久々の、テレパシー。

《この男はお前の何だ?》

…………。
セブくん呼びで感付かれたか?
その問いに答えあぐねていると、諦めたのか「その呪文とはまず」と答え始めた。

「まず、服従の呪文」
「うん。インペリオね」

カイはそれを聞いて、天井から吊られていた虫籠の中のピクシーに杖を向け、呪文を唱えた。ビクッ、と身体が硬直したピクシーが、その後急に力が脱けたようにふらふらと教卓の上を歩いて、カイが杖を振るとその通りに踊り出す。その何の躊躇いも含まない行動に、セブセブだけでなく生徒全員が驚愕に目を見開いた。

「相手を想いのままに操ることが出来る呪文やな。受けたもんは、まるで浮いているかのような気持ちになって、その通りに動いてしまう。今や有名なヴォルデモートや死喰い人は例えば仲間を増やす時、これを多くの人間に使用して操る。弊害は、魔法省が、誰がヴォルデモートに従って、誰が操られているのか、見抜くことが殆ど出来てへんって事やねんけど……身内批判はおいといて。セブくん、2つめは?」
「……磔の呪文」
「うん。クルーシオ、苦しめ」

杖でハートマークを描いてピクシーを踊らせながら説明していたカイが、再びセブセブの答えを聞くと、再びピクシーに呪文を唱えた。瞬間、ギャッ、と醜い声が聞こえ、さっきまで踊っていたそれは教卓の上を何か不気味な叫び声を挙げてのたうちまわる。何処かから、うわあ、と小さく悲鳴が聞こえた。

「相手に、こんな痛いんやったらまだ死んだ方がマシや!て思わせるほどの苦痛を与える呪文や。今や有名な──ヴォルデモートはこれで多くの魔法使いや魔女を拷問した。曰く、《続殺したければ、その苦痛を与えることを楽しむことだ》とか何とか言ってたらしいよ。ま、おいといて……セブくん、ラスト1っ!」

何処か楽しそうに続きを促すカイ。
その間も、苦痛と苦渋に歪んだピクシーは躍り狂っている。

「……死の呪文」

セブセブが、嫌そうに答えた。

「うん。アバダ・ケダブラ」

カイが、そう発した。
すると、見覚えのある、緑の閃光が走り──向けられた先の命は絶滅した。どうしようもなく、停止したのだ。それを見届けた後、ガタガタッ!と大きな音がそこら中から響き、うわっ!だの、きゃあ!だの、誰かが叫ぶ。中には悲鳴すら上げられない生徒もいた。さすがにスリザリン生の大半は《知っている》という風な表情をしていたが、ピーターは口元を押さえ、青くなっていた。リリーは涙目になっている。「ザリン寮に10点。座ってええよ」と言われたセブセブは、隣に座るミリアちゃんと共に硬直していた。そこでふと、ジェームズ達の反応が気になった。ジェームズは。シリウスは。リーマスは。ステラちゃんは。彼等はわたしより後ろの席に着いているので、声が聞こえないとなると様子がわからない。「相手を一瞬にして殺してまう呪文や」カイは、続ける。いつか出会った時のような、いつか消えた時のような、いつか帰ってきた時のような、そして汽車の中でわたしと喋っていた時と何ら変わりのない、いたって通常の声色だった。

「これで殺された死体には傷がない。マグルがこの呪文で殺害された事件の捜査資料によると、《何も健康に生きている状態と変わらず、ただひとつ違っていたのは心臓が止まり死亡していた》という事実だけやったらしい」

しーん、と静まる教室。
沈黙したわたし達を見て、「ヴォルデモートは──もうええかな」とカイはピクシーの死骸を消し去った。

「アバダ・ケダブラには反対呪文も防衛呪文も効かんし、そもそも存在せん。やから、オレがこの一年で教えるんは一つだけや。それは──《生きること》」

静かな部屋に、カイの声だけが響く。

「《生きること》。生き延びること。少しでも長く、少しでも強く、少しでも正しく、生きていられること。誰かに脅かされることではなく、ただひたすら、自分の命は自分で守る方法を」

カイはやっぱり微笑んでいる。
口端を上げて、頬を緩ませている。
半透明のサングラスが邪魔をして、瞳のその奥は見えない。
生きること、と誰かの復唱が聞こえた。

「例えば最初の服従の呪文。これは心──精神が強ければ抵抗、または打ち破ることも出来る。次に磔の呪文。これも対策としては、要するに痛みを感じずにいられる──まあ例えばモルヒネを身体に染み込ませるとか何とかして、その強い精神を保つことが出来ればいい」

麻酔系な、と補強するカイ。ふと、わたしの前の席に座る全員の生徒が、じっとカイを見つめているのに気付いて、わたしはひとり、少しだけ後ろを振り返る。一番後ろに座る友人も恋人も同僚も、皆が皆、いつの間にか食い入るようにカイの話を聞いているのだ。誰かが、「でも、最後の呪文は……」と呟いた。カイはその声の方を見ることはせず、あくまで此処にいる全員に強く語りかけるようにして、あくまで笑顔で言う。

「魔法なんてのは所詮、力の押し合いでしかない。使い手同士の力の差が歴然であれば、失神呪文より武装解除の呪文のが先攻してしまう場合もあるやろう。やから、この授業ではとにかく実戦での力を付けることのみを、重点的に絞る。魔力、武力、智力、精神力、なんでもいい。とにかく少しでも強うなれ。自分の意志に従って生きる人間もそうでない人間も、それが微量だったとしても自分で選択出来る程度には、なれ。──もし仮に死の呪文を自分が向けられそうになれば、向けられたら。たった一つの生き残ることの出来るかもしれん可能性は、こちらからもそれをかけてやることや」

──その鍛えた力は、死の呪文さえ相殺出来る力とも成る。酷く優しげな笑みを浮かべたカイは、わたし達全員の方を見て、しっかりとそう言ったのだ。ぱち、ぱち、ぱち。掌同士を打ち合わせる音が、何処かから聞こえた。やがてそれは波紋となり、教室全体へと輪にかけることとなる。グリフィンドール生はまさに喝采状態だ。スリザリンの生徒も、カイのただならぬ発言に怯えたのか驚いたのか口を開けたままだったが、手だけはただ動いていた。──と。そこで、待っていましたと云うように終了のチャイムが鳴った。

「去年の授業の様子は聞いてないけど──今年は何処までも実戦形式で進めていきたいと思ってる。こんなご世代、誰かが自分を守ってくれる。そう思った奴から危険に晒されていくからな」

カイは最後にそう言い残して、拍手の海に潜って行くように教室を出て行った。生徒のような見かけをして、もっともらしく格好をつけながら。──どの世界も広しと言えど、教授と名の付く人間は共通して何処か風変わりな点があるものではあるが、こいつは。カイだけはいつも、誰とも交わらない、確固たる意思を秘めているかのように、それを隠すように振る舞っている。

「良かったねー授業ー」
「ホント。最初ピクシーのあれはちょっとビックリしちゃったけどー」
「あの先生、格好良くない?」
「ミステリアスな感じで──」
「───―髪がサラサラで」
「笑顔が可愛くて──」
「────大人って感じ?」
「頼りがいのある──」
「──これから楽しみ──」
「──そういえば特別授業って何のことかしら?」

きゃあきゃあ、と主に女子生徒が、教材を鞄にしまいながら話に花を咲かせている。その時、気付く。

ああ、そうか。
そういうことか。
と。

「──千智?」
「……ん?」
「ん、じゃないわよ。どうかしたの?私達も、次の授業に急がなくちゃ」
「あー……うん」

肩をゆすられて見ると、リリーが隣で心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。教室にはもう誰もいなくて、聞けばシリウスとジェームズは悪戯へと向かい、その他は思い思い先に選択科目の教室へと行ってしまったらしく。ああ、マグル学を採ったわたしとリリーが残ったのか。行きましょう、と促すリリーに頷いて、わたし達も教室を出た。廊下を早歩きで先に進む途中に、リリーが先程の授業の感想を漏らす。

「さっきの授業、良かったわね。今までのように保守的でなく、あくまで立ち向かう意思を持ちましょうって感じで。私、何か感動しちゃったわ!あんなに若いのに魔法省勤めしていて、教授だなんて──」
「やめておいた方がいいと思うよ」

興奮したように話す正義感の塊のようなリリーに、わたしは最も適切なアドバイスをしておくことにした。

「ああいうタイプは大抵が格好付けで演出家、そして何より女癖が悪いんだ」


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