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あなたに微笑む


桜の花が咲く頃になると思い出すのは、数年前に亡くなった家内のことだ。
あの年は桜の花が開いてから散るまでの期間が例年よりも長く、確か一週間以上は桜が咲き続けていたように思う。

北国の桜の季節は花開いて満開に咲き誇る前に風と共に足繁く散る年もあれば、開花と共に時期外れの雪に見舞われて愛でる事も出来ずに散っていく年もあるというのに。季節外れの雪が降らない代わりに朝晩の冷え込みに体を震わせながら、二人で近所の花木を眺めていた。

「今年は辛夷の花が桜と一緒に咲いたんですね」
「年々気候の変化を感じるな。私らが子供の頃には考えられんことだ」
「でもこうやって花が次々咲いていくのを見るのは、つい顔が綻んじゃいますね。ほら、あなたも」
「そうだな」

家内は出会った頃と変わらずに幼い少女のように無邪気にころころと笑う奴だった。もちろん、年相応に髪にも白髪が混じっているし、こうして笑えば目元にいくつも皺が刻まれる。それは自分とて同じで、こうして穏やかに年を重ねていくという事は昔の自分では考えられない事だった。

遠い昔の事をまるで昨日の事のように思い返せる。いつかの自分は幕末の時代を駆け抜けて、
歴史に名を刻む者として生きていた時代があった。あの頃は己の強さや誰もが敵わない力が自分にはあって、それが永遠に続くような気がしていた。自分の意のままに世界は動くのだと。

家内にはそんな私の話をしたことがあった。法螺だと笑い飛ばすこともなく、興味深そうにうなづいて

「だからあなたは昔から女性に人気があったんですね」

なんて言ったものだ。もちろん家内と一緒になってからは他の誰かに目もくれた事はない、そう弁解したらまたころころと笑っていた。



子供達がそれぞれ働きに出たり結婚したりで家を離れてから家内と自分だけの暮らしになった。広い家に二人だけの生活は結婚した時以来で、これから家内と二人でゆっくり穏やかに過ごして行こうと話していた矢先だった。

「昔、どっちが先に死ぬって話をしましたよね」
「そういえばそんな話をした事があったな」
「あなたの方が歳が上だから自分が先だって言ってたけど、私の方が先かも知れませんね」
「おい、滅多な事を言うもんじゃないだろう」
「…そうね」

家内は秋頃から床に伏せる事が多くなって、食事もあまり摂れなくなってきていた。医者にかかるのを渋っていたが、なんとか宥めて連れて行けば医者が重たい口を開いて、次の春を迎えられるかどうかだと言う。
足元が崩れ落ちるような錯覚を覚えて、その場で倒れそうになるのは何とか堪える事は出来たが、目の前が真っ暗になるほどの眩暈に襲われた。これから二人で、一緒に寄り添いながら過ごして行こうと言っていたのというのに。
家内にはその日の内にもう一緒にいられる時間がない事を伝えた。隠す事は自分には出来なくて、だが家内は思っていたよりも落ち着いていて大丈夫だと言って笑った。



昼間の日差しが暖かで、その陽気につられて窓を開ければ生温い風が木々の芽吹く匂いを運んでくる。私は家内の骨の浮いてきた手を撫でた。頬はこけて以前よりもずっと深く皺が刻まれた顔、それでも笑う顔は昔とそんなに変わらないように見える。

「体の調子はどうだ?」
「今日はだいぶ気分がいいです」
「そうか、それは良かった」
「色んな事をあなたにやってもらって申し訳ないわ」
「いや、長年主婦業をこなしてくれたお前に比べたら、なんて事はないだろう」
「……トシさん、ありがとう」
「なんだ、改まって」

その名前で呼ばれる事は久しく無かったから、思わず目を見開いてしまった。体を起こしているのも辛いだろうに家内が私の手をぎゅっと握って笑う。

「トシさん」
「なんだ?」
「…また来世があったら、その時も私をあなたの妻にしてくれますか?」
「もちろんだ」
「…よかった」

ホッとしたように笑って家内が布団に寝転ぶ。私は若い頃のように家内に顔を寄せて口付けた、触れるだけの口付けから離れると、家内はまるで若い頃の初心な少女のように頬を染めていた。

「一昨日、桜の花が咲いたらしい。近い内に一緒に見に行かないか?」
「いいですね、行きましょう」


ーーーーー


穏やかだった家内の容体が急変したのはそれからすぐだった。足先からしんしんと底冷えのする朝に、病院からの連絡に慌てて駆けつけると昨日まではついていなかった何かのモニターだとか酸素のマスクをつけた家内がそこにいた。何も言葉が出て来ずにただただ手を握ると弱々しく握り返してくる。

「…桜を見に行けなかったな、また次にでも見に行こう」

伸びた髪を撫でると薄く目を開いて小さくうなづいたようだった。どうしてこうもいつも見送る側なのかと思う、そろそろ自分も誰かに見送られる側になれたと思ったものだが。
短く浅い呼吸を繰り返して目を閉じて、手の力が抜けたと思ったらふうっと呼吸が止まった。触れている手はこんなにも温かだと言うのに。
不思議と涙は出なかった、人の事ばかり気にして自分の事は二の次にしてしまう家内が楽になれたのなら、最期を自分が傍にいた事が少しでも家内のためになれたのなら。

「愛しているよ」

もちろん返事はない。強く吹き抜けた風が窓を揺らして、それが家内の返事のようだと思う。


あれから何回目の桜の季節になるだろうか。今年は既に花が散ってしまって、青々とした葉が風に揺れていた。
家内がこの世を去ったと同じ日に孫娘が生まれた。
どことなく家内の面影を見るようで、このままじゃまだお前の方には行けそうにないなと一人笑っている。



2017.09.15
2018.04.19
山桜の花言葉「あなたに微笑む」
引越、加筆修正


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