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どうせもう逃げられない


私は何から逃れるように走っているのか、走り出してからどれくらいの時間が経っているのか。雪を踏みつけて走る音がざくざくと規則的に耳に届く。それと同時に自分の早鐘を打つ心臓の鼓動と呼吸が忙しなく響いてくる。

ただただ森の中を月明かりを頼りに走り続けている。つんと張り詰めた空気は呼吸をする度に冷たく、苦しくてむせ込みそうだった。耳が、鼻が、もう顔全体が冷気に晒されて冷たくてちぎれそうな痛みを感じていた。
それでも、それでも私は足を止められなかった。

いる。後ろから少しずつ距離を縮めてきている。だけど、後ろを振り返る程の余裕はない。
私の体力はもう限界だ。少しずつ走る速度が落ちてきて、背後から足音が近づいてくる度に体が恐怖に支配されていく。

「あ!」

踏み出した足がそのまま沈み込む。足場の雪が崩れて、そのまま前のめりに倒れ込んだ。さっきまで踏みしめていた固い雪原と違って私が倒れ込んだ場所の雪は柔らかく、転んだ拍子に服の裾から靴の中まで雪が入って来た。肌に直接触れる雪の冷たさに気を取られそうになったが、そんな事に構ってられる余裕はない。
今はとにかく立ち止まっては行けないのに。

「…そんなに逃げなくてもいいのに」
「ひっ!」

月明かりを背にしていた私の後ろから影がひとつ伸びていて、どくんと心臓がまたひとつ大きな音を立てた。

月明かりが陰る。頭上の空は月が煌々と光っていたのに、雲が月を隠してしまった。
早く、なんとしてでもここから立ち上がってこの男から逃げなくては、そう思うのにもう体が自由に動いてくれない。

「い、いやだ…」

ずっとここまで走ってきていて私は呼吸もままならないのに、どうしてこの男は息一つ切らさないでいるのか。

「寒いか?」

違う。身動きが取れずにいるのも、震えているのも寒いからだけの理由じゃない。背後にいた男が私の前に立ち回って手を差し出してきても、私はその手を掴めるわけがない。
私が座り込んだままいつまでも動かないから、痺れを切らしたように私の片腕を掴み上げられた。途端に強い力で締めつけられて、ミシリと骨が軋む音がした。

「痛い…!」
「悪い悪い、なまえがいつまでも俺から逃げようとするから」

笑いながらそう言っているように見えるが、彼の目の奥は笑ってはいないだろう。
月の光がまた青白く辺りを照らし始めて、私は嫌でもその男の顔を見るしかなくなった。

「つかまえた」
「杉元やめて…、はなして」
「鬼ごっこ、楽しかったか?」

ポケットに入っていた杉元の左手が、私の首元を捕らえた。その手はかすかに暖かくて指先からゆっくりと力を込められていく。私の首なんか簡単にへし折れそうな大きな手のひらが恐ろしい。
杉元の目は何とも言えない色を帯びていて、見つめられるだけで息が詰まりそうだ。

「もう、逃がさない」

ああ、この男からは逃げられない。
どうせ逃げても追いかけてきて、抵抗すればする程この男を喜ばせるだけだろう。

今まで罠にかけて捕まえてきた動物たちも、最期の時はこんな気分だったのか。
絶望とも諦めともつかない思いを抱えたまま、少しずつ薄れていく意識の中で私は目を閉じた。

(このまま、全部喰われていく)


2016.08.28
2018.04.09
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