ss32 積み重なった年月と | ナノ 積み重なった年月と



 朝起きて、真っ先にリビングの壁に掛けられた大判のカレンダーの前に立つ。一番上の一枚をめくり取り、ひと月分があたしの手の中におさまる。壁に残されたのはあと二枚。
 今年も、もうあとこれだけ。
「おはよう」
「おはよう、マスター」
 寝癖を立てたまま隣に立ったマスターがカレンダーを覗き込む。
「んー、もう11月かー。早いねー」
 そうね、あたしもそう思ってたの。言う前に貴女は、トントンとカレンダーの次の水曜日を指で差しながら問う。
「今年も、ケーキだけでいい? 今日あたりどっかで予約してきちゃうけど」
 毎年のことなので、もうそれだけで、通じる。
「うん、大丈夫。ご馳走作って待ってるから」
「自分の誕生日なのに、自分で用意するのもって思うんだけどねぇ」
 毎年のことなので、大騒ぎするのも、気が引けてしまった。家族の分と、なんだかんだ隔月くらいで大騒ぎしているわけだし。
 目新しくなくていい、特別でない特別な一日がどれだけ幸せで特別か、十分に知っているから。
「マスターはあたしの料理じゃ不満?」
 からかってみると存外慌てて、そんなことないよ、とオーバーリアクションで腕を振る。
「めーちゃんの料理が世界で一番」
 真剣な顔でそう言われたら、他の料理なんて食べさせられないじゃない?
「じゃあ、世界で一番美味しい朝ごはん作るから、寝ぐせ直してきて。また髪乾かさないまま寝たわね。今日も酷いわよ」
「はーい」
 子どものように素直に洗面台の方へ消える後ろ姿を、エプロンを付けながら見送る。
 裏の白い大きな紙片は、何かに使えるだろうと、8つに折ってポケットにしまった。



 その日の夕食後、マスターはリビングのソファに一人で残って、業界誌を複数並べて熱心に読んでいた。
 あたしが食器を全部片付けてしまっても、まだ。
 ソファの背から覗きこめば、紙面に躍るのは、私の名前とV3の文字。
 初の日本語版DB搭載VOCALOID、暁の歌姫、MEIKO。彼女は、そして国産VOCALOIDは、10年目を迎えるーー。
 そうね。あたしは変わらず、あたしだけど。
「やっぱ、気になる?」
 貴女は振り返って問う。
「それはあたしの台詞よ」
「そっか」
 そうだよね、と紙面に向き直って自分に言い聞かせるみたいに呟いた。そして突然に再び振り返って、早口になってしまってすこし聞こえづらい口調で取ってつけたように言う。
「買わないよ?」
「そんな余裕ないでしょう」
「うん、まぁ、そうだけど」
 新しく買う余裕は、ない。知ってる。
 じゃあ、例えば誰かを下取りに出して入れ替える事は。あたしは、知らない。
「他の子もそうだけど、めーちゃんはめーちゃんだし、うちの子が世界で一番だし、別に歌わせるわけじゃないし、V3である必要性がないし、それに」
「そうね」
 一人で勝手に慌てて、言い訳みたいに言葉を紡ぐ貴女の姿を楽しく眺める。楽しめてる自分自身にも笑みが溢れる。
「どうせ買うなら、新エンジン版じゃなくて、IAか結月ゆかりがいいしなぁ……いやでも、うーん」
 ほんとに、しょうがない人。
「な、なんで笑うの」
「さぁ、どっかの誰かさんが、あんまりにもあんまりなVOCALOIDヲタクだって再認識しただけよ」
 貴女は、子どもみたいにムキになって口を尖らせる。
「世界で一番愛してるのは、めーちゃんだよ」
「さぁ、どうかしら」
 ちょっと煽ってみれば、貴女は簡単に乗せられて、ざらり、と唇が触れる。
 離れて、ほんとだよ、と、ちょっと得意げな顔。
 あたしは目を細めて自分の唇に触れて、そこに残った感触を確かめる。
「乾燥、してるわよ」
 落ちた雑誌を拾い上げて言うと、貴女は虚をつかれた顔をした。
「もう、そんな季節かぁ。リップ出しとかないと」
 あたしは、頬に触れた手指が、ささくれだっているのも見逃さなかった。
 季節は巡るだけでなく、確実に積み重なって、あなたの肌を痛めている。
 あたし達は年を重ねても歳を取らない。目の前の貴女は違うようで、触れるたびに変わっていく。
「そろそろ寝なくて大丈夫?」
「あー、うん、そだね」
 こんな夜は、そのまま一緒にどちらかの寝室に行くこともあったけれど。最近ではめったになくなってしまった。なくなったからと言ってどうということはないけれど。
 そう。貴女は徹夜が辛くなり、肌が荒れ、疲れたというのが口癖になり、旺盛な食欲は落ち着き、その姿はほんの少し小さくなった。
 些細な事だ。
 その些細な事の積み重ねが、歳を取ることだということに気付いたのは、この約十年の間のごくごく最近。
 出会ったばかりの頃は、貴女が歳をとるということが、例えば何十年か先に貴女がおばあちゃんと呼ばれるようなものになることなんて理解も想像もできなかったし、気にもしなかったけれど。
 貴女は、貴女だけが、時間の流れの中で変わっていってしまう。
「あ、そうだ、忘れないうちに渡しとく」
「これは?」
 あらかじめ用意してあったのか、雑誌のうちの一冊から挟んであった茶封筒を抜き取り、渡される。表書きもなく、素っ気ないものだ。
「ちょっと前に会社でもらったの。自分は使わないからね。誕生日プレゼント、好きなの買ってきなね」
 中からは、そこそこの額の有名百貨店の商品券が出てきた。
「手抜きね」
「好きなものの方がいいでしょ」
「まぁ」
 今まで貴女が選んでくれていたものも、悪くはなかったわよ。その全てが今、宝物だから。
「うん、じゃあ、ちょっと早いけど寝ようかなぁ。おやすみ」
「おやすみなさい」
 背中を見送って、これを渡すためにわざわざ待っていてくれたのかもしれない、と思った。



 積み重なった年月と流れ去っていった年月なら、あたしの手の中には、どちらのほうが多いのかしらね。
 貴女の手の中ならば、どちらのほうが。
 では、残された年月は?
 変わってしまったことを嘆くには、まだ早すぎる気がしたーー。



 自分の誕生日と呼ばれる日に、朝から電車に揺られて、都市部に出る。
 一人で遠出なんて、10年間で数えるほどしかしたことがないくらい珍しいことだったが、せっかくもらったプレゼントを使わなければと思い、どうせなら、自分のパーティーのご馳走に変わったものでも並べようかとも思い。
 ネットでいくらでも世界中の物が取り寄せられる時代になっても、実物が並んだ場所に人は集まる不思議。人が集まるところには、生活しているだけでは目にしない驚くほどいろいろな物が集まり、さらに人が集まる。
 これだけのものがあれば、適当に見ていれば欲しいもののひとつもあるだろうと思ったのだけれど。
『なにかお探しのものがございますか?』
 さすが百貨店の、ディスカウントストアとは違う丁寧な接客態度に感心しながら、何度目かの声がけに同じように断りを入れながら、内心で戸惑う。
 もらった商品券がわりとまとまった額で、細々したものはもちろん、そこそこまとまったものでもなんでも買えてしまいそうなのが余計に困る。
 あたしの探しているものって何だろう。欲しいものって。
 エレベーターで最上階まで上ってから、エスカレーターでワンフロアずつ下りながら丁寧に見て回ったのだけれど、ついに何も目星すらつけることができないまま1階の化粧品売り場まで下りてきてしまった。
 あたし達に高価な化粧品は必要ないし、これより下はいわゆるデパ地下と呼ばれる食品売り場だ。
 先に下へ行って、明日のディナーのメニューの方を決めてしまおうか、いっそ、全額食べ物に変えてしまおうか。そう思って足をエスカレーターの方に伸ばした時、綺麗な手をした若い女性店員から客引きのためだろうスキンケア商品のサンプルを手渡された。あまりにも自然に差し出されてなんとなくもらってしまって、返すのも、と一瞬考えて、良いことを思いついた。
「あの」
 声をかけると、その店員は白い歯を見せる整った笑顔で常套句を言う。
「なにかお探しのものがございますか?」
「はい」
 欲しいもの、見つかりました。



 パーティーのメインディッシュは、鯛の塩窯焼きになった。デパ地下で見つけて買った、大きくはないけれど尾頭付きの鯛と、どこぞの高級岩塩をふんだんに使ったそれは、家のスチームオーブンで簡単に出来たわりにとてもお祝いらしくて見栄えが良かったし、家族にも好評だった。その他のおかずも、目一杯色合いや見た目にこだわって。十年で、すっかりあたしの料理の腕前はプロ級になってしまった、と呆れながらも心の中で自画自賛したり。
 食後には、どこで予約をしてきたのか高そうなファミリー用の大きなホールのショートケーキを切り分けて、恥ずかしいけれどバースデーソングを歌ってもらって、スパークリングワインとジュースで乾杯をして。
 最後に、かわいい弟妹達からプレゼントを受け取って、パーティーはお開き。
「あれ、マスターは渡さないの?」
「先に渡して、選んでもらったから」
 椅子に座ったままの貴女は、落ち着いて笑っているけど、その笑顔はちょっと苦い。
「あれでしょ、流行りのカタログギフトとか」
「もっと手抜きだったわよね?」
「なに、現金渡したの!?」
 あたしが追撃したために、マスターは黄色にサラウンドで詰め寄られているが、笑みを深くするだけで答えない。
「今日は俺達が片付けるから」
「メイコさんは休んでください」
「そうは言うけど、毎年あれだこれだのしまう場所がわからないって訊きに来るのは誰? 中途半端は嫌よ?」
 私は食器を重ねてキッチンに消えるマフラーを追いかける。
 ああ、その前に。
「ねぇ、マスター、先に、あたしの部屋行って、待ってて」
「うん。今日はめーちゃんの日だからね。何なりと」



「やぁ」
 食器洗いを任せて、あたしが自室に戻ると、ベッドに座った貴女が組んでいた脚を揃えて片手を上げる。
 私はスツールを寄せて、向き合って座った。
「マスター、目瞑って」
 言えば、素直に目をつぶり、待つ。
 私は急いで引き出しから用意してたものを取り出した。
 最初に、美容液入りのリップグロスを適量指に取って貴女の唇に塗り広げる。
「ん、冷た、い?」
「目開けていいから、手を出して」
 次に、ハンドクリームを手に取って、マッサージも兼ねて、ゆっくりゆっくり貴女の手になじませていく。
 2本の大小のチューブをブランド名の入った紙袋に戻して、事情の呑み込めていない貴女に渡す。
「はい、これあげる」
「え。あ、ありがと。……随分、高そうだね」
 紙袋には同じブランドのスキンケア用品の一式が入っている。
「高いわよ、かなり。マスター、値段聞いたらビックリするから言わないけど」
「これ、どうしたの? ……って、まさか、こないだのでこれ買ってきたの?」
「ええ」
「ぜ、全額?」
「さすがに他に今日の食材買ったりで全額注ぎ込んだりはしてないわ」
 明らかにほっとした顔をする。本当に昔から自分自身にお金をかけるのが苦手ね。
「めーちゃんの欲しいもの買いなって言ったのに」
「だってザラザラの手で触られるの嫌だったのよ」
 少し寂しそうに言う貴女に、ちょっと冷たく突き放したようにそう言うと、珍しく傷付いた顔をする。
 そんな表情の貴女も嫌いじゃないけれど。むしろ、色々と堪らなくなる。
「あたしが欲しいのは、マスターだけよ」
 恥ずかしいけれど、手を握って、しっかり目を見て言う。
「ね」
 キスして、触って。言わなくても伝わるのは、きっと2人の間に積み重なった日々の賜物だ。
 そうしてまた、さらに一夜を重ねる。



あとがき→





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