ss21 いつかのサプライズ | ナノ
マスターの部屋の前で、マスターとメイコさんが言い争いをしている。だんだんと大きくなる声は、廊下とドアを挟んだリビングにいてもうるさいくらいだ。
「そんなの聞いてないわ」
声を荒げているのは、主にメイコさんだけだけど。
「言ってないからねー」
マスターの飄々とした物言いはいつも通りでも、今のこの状態では、メイコさんの怒りの炎に油を注いでいることにしかならない。
静まりかえったドアの向こう側、メイコさんが珍しく本気で怒ってるのがわかる。役割として下の子たちを、そしてしばしばマスターをたしなめ叱ることはままあるけれど、怒ることは滅多にない人だ。
「じゃ、そういうことで。朝食も昼食も、いらないや」
マスターの方は、わざと逆撫でしてるとしか思えない態度で。
「ああ、あと、夕食の準備はしないでいいから」
黙り続けるメイコさんに一方的に言い置いて、静かに扉の閉まる音がする。
閉め出された? いえ、マスターの部屋にだけは錠がないので、開けようと思えば簡単に開けられる。そう、開けようと思えば。
しばしの沈黙。扉が再び開く音はない。
「みんなは知ってたの?」
メイコさんはリビングのドアを開け、今のやりとりを私達が聞いていた前提で、不機嫌そうな、それでいて困惑した顔で尋ねる。
その場にいた男2人は答えないし、視線を合わせようとさえしない。その非常に気まずい空気が答えているようなものだけれど。
メイコさんの表情が曇る。
美しい顔が台無しですよ。いえ、それでも十二分に美しいのがメイコさんですが。
「いいえ、初耳です」
仕方がないので、私が答える。
嘘をつくのは心が痛むけれど、不機嫌なメイコさんをこれ以上見ていられないから。マスターのいつもよりひどい気まぐれに振り回され続け、かれこれ一昨日からずっとこんな調子だ。
「そう……」
ホッとしたような、まだ信じられないというような、そんな複雑な感情を自ら振り払うように、ダイニングテーブルに無造作に置いてあったエプロンを身に付けて言う。
「朝ご飯にしましょうか」
つまらないニュースに集中しているフリをしていた2人が、これ幸いにそそくさと食卓についた。
私は読んでいた今日付けの新聞をマガジンラックに置いてから、食卓に戻る。
「何、食べる。簡単なものでいい?」
3人で首肯。
「卵と、ベーコンでいいわね。……そういえばミクとリンは?」
リンの姿は先刻、メイコさんがマスターを起こしに行って口論になる少し前までここにあったはずだ。
ミクは、私が目覚めた時にはまだ深い夢の中で、ちょっとやそっと揺すったって起きないのは知ってるので、放っておいた。起きる時には起きる子だし。
「あら、噂をすれば。おはよう」
「おはよう……」
「おはよー!」
ミクとリンが階段を降りてくる。
一方はかなりの長さの翠の髪を寝癖でぐしゃぐしゃにしたパジャマ姿で、もう一方はピンとリボンできっちりまとめた金髪にいつものセーラー服姿で。
リンがミクを起こしに行った、なんて誰がみてもわかること。よくあることだし、何故かリンが起こすとすぐ起きるのだ。
生きる目覚まし時計のリンに起こされたら誰だって起きざるをえないだろうけど。レンはそれが嫌で、自発的に早起きしてるくらいだし。
まあ、それだけが理由じゃないでしょう。
ミクが身だしなみを整えて洗面所から戻ったのと同時に、スクランブルエッグにかりかりに焼いたベーコン、焼きたてのトーストがサーブされる。
こんな時でも、食後にベリーとヨーグルトのスムージーが出てくるあたり抜かりない。
皆でごちそうさまを言い終えて、お皿を下げている時にふとメイコさんがミクに声をかけた。
「そういえば、ずいぶん朝寝坊だったけど、昨日は遅くまで起きてたの?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど。マスターが今日はお仕事ないって言ってたから――」
その場にいる半分が凍りついた。賢しい子は、空気を読んでかそこで黙ってしまう。
「どういうこと……?」
「えっと……」
嘘をつくのがいっとう苦手な彼女は、視線を斜め下あたりをふらふらと彷徨わせ、一生懸命言葉を探している。一生懸命さが相手に伝わっている時点でアウトだということにも気付かずに。
「もう、いいわ」
メイコさんはこちらに背を向け、一つにまとめたお皿を持ってシンクへと。
ミクを問い詰めるのはお門違いだと気付いたのか、はたまた興味を失ったのか、それ以上言葉を重ねることはなかった。
ああ、やっぱり不機嫌ですね。いつもより大きく鳴る食器の音が、それを如実に語っている。
手伝いを申し出たリンが随分素っ気なく追い出されたのを見ていたので、私はもう何も言えない。
言うべき言葉は他にちゃんとあるのに。
その少々乱暴な動きに似つかわしくないしなやかな五指を捕まえて、その言葉を耳元で囁けば、彼女はきっと不機嫌さなんか忘れて私だけに照れたように笑ってくれるだろう。
たった一言でいい。お誕生日おめでとうございます、と。
でも、それは言えない。マスターから、言わないよう一方的に“お願い”されているから。
――それは3日前、メイコさんの入浴中だった。
マスターはメイコさんが戻ってこないことを確認して、私達5人を見回してから言った。
曰く、11月5日はサプライズパーティーをしようと計画していること。曰く、急遽5日に有給休暇をもらうかわりに、3日の祝日に雑務をこなすために出勤すること。曰く、各自プレゼントを用意するのはかまわないけど、5日の準備は全て任せて欲しいこと。
最後に、
「11月5日は日付が変わってから“ある時”まで決してめーちゃんに誕生日をほのめかすようなことは口に出しちゃダメだよー。もちろん今ここでの話もしない。いいね?」
笑顔で念を押し、困惑する私達を置いて、その時もさっさと自室に引っ込んでしまった。
誕生日を忘れているフリをしておいて、後であっと驚かせるなんて、ずいぶん古典的なサプライズ。
聞けば、カイトさんに対しても一度実行したことがあるらしい。ミクがくる前の冬、カイトさんの初めての誕生日。メイコさんとマスターの2人で計画して。
おめでとうって言ってもらえなくても、14日にチョコもらえたからいいかなって思ってたら、17日の夜にアイスケーキが届いたんだ――なんて、全然なんとも思っていないような、いつもの人の好い笑顔で彼は言った。
この人は、本当に誕生日を皆にすっかり忘れられていても、最後まで笑って黙っているんでしょう。
でも、メイコさんは違う。もう不機嫌さを隠そうともしていない。こんな風に、こどものように感情を顕にすることはあまりないかもしれない。
その理由は、マスターの仕事の予定を一人だけ伝えられていなかったから、だけではないと思う。
6年前の今日に、この家にやってきたわけではない彼女にとって、11月5日がどれほど大切な日なのか私にはわからないけれど。
結局、マスターは宣言通り、お昼になっても部屋を出てこなかった。
平日の昼間ということを考えれば何でもない6人で囲む食卓でも、何かが欠けている感じを押しつけてくるような違和感が確実にあった。
例えば、わざわざ伏せて置かれている7人目の食器とか。
その足りない部分を無理やり埋めようとするかのようなミクとリンの会話だけが、すきま風のようにむなしくぐるぐる回っていた。
時の経過とともに、メイコさんの表情はさらに硬く険しくなる。
それでも、私達にはどうすることもできない。マスターの“お願い”を忠実に実行しているから。
意地の悪い人だ。いや、私達も同罪か。
西の空の淡い朱鷺色のグラデーションが秋の短い昼間の終わりを知らせる頃、マスターは何食わぬ顔で部屋をでてきた。
リビングにいるのは私だけ。メイコさんはさっさと最低限の家事を片付けると、珍しく自室に戻ってしまっていた。
そういえば午後のティータイムを逃してしまったとぼんやり考えていたら、マスターが笑顔で声をかけてきた。
「ルカ、みんなで出掛けるよ。急で悪いけど、準備してもらえる?」
マスターはこちらの苦労も知らないで、相変わらず唐突にひっかき回していく。
私の反応を待たず、さらに吹き抜けの階段に叫ぶ。
「みくー、りーん、れーん、かいとー、めいこー!」
ぞろぞろと降りてきて皆が揃うと、同じことを言う。
「さぁ、出かけるよ。ちゃちゃっと準備してー」
「……出かけるって、どこによ?」
メイコさんが尋ねる。なんだか眠たそうな声なので、寝ていたのかもしれない。
「うん? ちょっとそこまでドライブ」
「うちの車、五人乗りじゃない……」
「そ。だから全員乗れるレンタカー予約してるの。今、すぐそこの店に取りにいってくるから、20分後にマンションの前の道路に集合ね」
マスターは家の鍵を指に引っ掛けてくるくると弄びながら、体の半分はもうすでに廊下にある。
「外は寒いから暖かい格好してねー。……あ、リンは着替えたほうがいいかもね」
この中でリンだけが、VOCALOIDの衣装を着ていた。それを気にするということは、街に出るんだろうか。
マスターはマスターで、デニムにシャツにUNIQLOのコートといういつも通りのオシャレする気のない格好。フォーマルな場所に行くってわけでもなさそうだけれど。
「じゃあ、あたし着替えてくる。ミク姉も」
「えっ、わたしも……?」
「そ。せっかくみんなでおでかけなら、オシャレしよ?」
結局6人とも自室に一度戻ることとなった。
そして、約束の20分を少し過ぎて、マンションのエントランス前に私達は集まることができた。
そこに横付けされた、人より物を運ぶのに便利そうなハイエース。予約までしたならもっといい車がなかったのだろうか。
クラクションがうるさくない程度に軽く鳴らされて、運転席からマスターが降りてきた。
「はは、みんなモデルさんみたいだ」
私達をぐるっと見回して、目を細めて笑う。
リンの一言に影響を受けたのは一目瞭然で、皆、普段より少しばかり気合いの入った服装だ。十人並みの人間よりは良くできている外見も手伝って、確かにそれぞれ別のジャンルのファッション雑誌から出てきたようだ。
全身黒の、ラフな格好のマスターが、運転手だというのも相まってまるで付き人のようだ。自覚があるかないかは別にして、間違いなく彼女が私達の主【マスター】なのだけど。
「ほらほら、乗って乗って」
わざわざこちら側に回ってドアを開けてくれたりするから余計に。
最後部座席にリンとレンがミクをはさんで座った。その前に私が乗ると、無言で隣にメイコさんが乗りこんでくる。
あれ、と思ったときには、カイトさんが重たいスライドドアを外から閉めていて。
ああそうか、メイコさんは助手席に乗るものだと勝手に思っていた。
そのメイコさんは、ドアに肘をついてもたれかかって、つまらなそうに窓の外を見ている。
「後ろも、ちゃんとシートベルト締めた?」
キーを回しながら振り返って訊いたマスターに年少組が元気な返事をして、それが発車の合図となった。
マニュアルってどうやって運転するんだっけ、とか呟くからひやひやしたものだけれど、エンストすることもなく順調に車は夕闇の間を走る。
都内を数十分のドライブ。
そして、とある路地裏のコインパーキングに車を停めて、降りるよう促された。
ほんの少し歩くと、開けた場所に出た。
どこか、明確な目的地があるらしい。ファミリーやカップルが三々五々集まってきて、私達と同じ方向に歩いている。
1人でさっさと先導して歩いていたマスターが、歩調を幾分緩め、腕時計を見ながら呟いた。
「そろそろ、かな?」
広場の中央に人が集まり、カウントダウンが始まる。
――10、9、8、7、6、5、4、3、2、1……、
「0!」
そこにいる人達の声と心が重なった瞬間。
――光が降ってきた。
芸術的なモニュメントに、石畳の上のオブジェに、剪定された木々に。
街を、群青の空を、ここにいる私達を照らすそれは、クリスマスイルミネーション。
そこここで感嘆のため息と歓声が混じりあい、反響する。
幻想的な光の下、人々が平和を願い愛を囁く中、マスターはメイコさんの左手をとり、より強く光が輝く方へと誘い出す。
あまりにも自然な所作に見惚れさえして、一拍遅れ慌てて二人の背中を追い掛けた。
「これって……」
「いつか行こうねって言ったよね。今日、何日?」
「えっ? 11月、5日。……あ」
なるほど、いつか……5日、ね。
私は後ろからそっと近付き、メイコさんの空いてる右腕に抱きついた。振り払われるなんてことはもちろんなかったけど、メイコさんの意識はマスターに向いたままだ。
「……覚えてたの?」
「イルミネーション、見たかったんでしょ?」
「そうじゃなくて……」
その焦れる視線から逃れるように、マスターは大きく一歩後ろに離れて、両手を降参だとでもいうように顔の横に上げて苦笑い。
「ルカは……」
私が口を開く前に、マスターがメイコさんの見えないところで人差し指を立てて首をかしげてみせた。
まだ、ですか……? まだ言ってはいけないのですか。
メイコさんの視線に、しかたなしに笑顔だけを返しておく。
「さーて、どんどん行くよー」
困惑する私達を置いて、はしゃいでる年少組をつかまえてさっさと車を置いてきたところに戻っていってしまう。
その後は、車に乗ったまま都内のイルミネーションスポットを回るドライブに。
今度はメイコさんが助手席に座っている。
最後に私が乗り込んだとき、ドアを閉めるのを腕を伸ばして手伝うカイトさんが、ごめんねと呟いた気がした。
何に対して謝っているのだろう。メイコさんに助手席を譲ったこと? 隣が自分でってこと? それとも?
自分の空耳だという可能性も捨てきれなくて聞き返そうと振り返っても、歩道側の方がよく見えるよ、なんて皆にも聞こえるように言って笑うだけだった。
窓ガラスに映り込む光を見ながら、だから先に乗り込んだのかとなんとなく納得した。
見物客が集まっているためのちょっとした渋滞も楽しむかのように、ゆっくりと光と光の間を進む。
確かにこの席なら天の川のようになった街路樹の列もよく見える。そして、先程と同じように窓ガラスにもたれかかってつまらなそうなメイコさんの、口元が楽しそうにうれしそうに笑みを描いているのも――。
いくつかの有名スポットと地元の商店街のささやかなイルミネーションを見て回り、マンションの前に戻ってきて、二時間程のドライブが終わった。
「じゃあ、車返してくるねー」
乗り物大好きで一秒でも長く乗っていたい双子と、2人に挟まれて降りるに降りれなくなってしまったミクを乗せたまま、マスターは車を出した。
大人組、と呼ばれる3人で一足先に部屋へと帰る。
オートロックのエントランスを抜けエレベーターで中層階へと上がる間も、特に会話はなかったが、メイコさんに家を出た時のピリピリした感じはなくなっていた。
自宅の鍵を開けて、厚いスチールドアを引いたメイコさんが声をあげた。
「……あれ? あたし電気消していったはずだけど」
廊下に薄く漏れる光は、ダイニングのドアの曇りガラスから。
ショートブーツを脱いであがったメイコさんが、そのドアを開け、ノブに手を掛けたまま固まった。
後ろに続いたカイトさんがメイコさんの頭ごしに部屋を覗き、めったに笑み以外を形作らない顔に驚愕が表れる。
私は、慌てるほどに爪先に引っ掛かるロングブーツをやっとのことで脱いで、用意されているスリッパも無視して、ふらふらと誘われるように歩を進めるメイコさんを追った。
そして、目の当たりにした光景に唖然とした。
薄暗い部屋の隅には綿で雪化粧されたクリスマスツリー、ダイニングテーブルには何故かまだ湯気をたてているパーティーフード、窓にはスノースプレーで“Merry X'mas.”の代わりに“HappyBirthday MEIKO!”、そしてベランダを彩り光源となっているイルミネーション。
なんというか、米国のクリスマスの風景を切り取って無理矢理貼りつけたみたいだ。
「これ……」
メイコさんが、カイトさんの背丈程もあるツリーを見上げて言う。
「みんなで……?」
いや、それはたぶんマスターが1人で勝手に……。
「うん、そう」
カイトさんがさらっと爽やかに、事もなげに肯定した。
彼はこの計画を知っていた……? いや、この部屋を最初に目にしたとき、彼は演技ではなく驚いていたのを見ているので、そんなわけはないと思うのだけれど。
カイトさんは私の訝しむ表情に気付いたのか、ツリーのてっぺんの星に手をのばしているメイコさんの後ろに隠れるようにして、私にだけ聞こえるように囁いて笑った。
「マスターに1日振り回されたんだから、これくらい言っても怒られないでしょ」
と。まったく、食えない人だ。
メイコさんが金色の星の表面を指でなでた時、ピーンポーン、とチャイムがやわらかに響く。
「あ、私が出ます」
キッチン横の壁に埋め込まれているインターホンの通話ボタンを押すと、小さなモニターにマンションのエントランスとマスターの顔が映る。
「どうかしましたか?」
「ああ、ルカ? ごめん、鍵ないの忘れてた。開けてもらえる?」
鍵をもっていないで出掛けるなんて珍しいこともあるものだ。しかし特にそこには深く追及せずに、遠隔操作でオートロックを解除する。
「ありがとう」
モニターの奥、冷たいガラスの自動ドアが開いたそばから双子が駆け込んで、その後をゆっくりマスターとミクが追って、ドアが閉まるのと同時にモニターが自動的にオフになった。
そのまま玄関に向かい、こちらも解錠しておく。ついでにスリッパを履く。
パタパタとリビングに戻れば、メイコさんとカイトさんはこの寒いのにわざわざベランダに出てイルミネーションを見物している。
戻った時に少しでも暖かい方がいいだろうと、部屋の暖房を入れておくことにした。
ほどなくして、マスター達も帰ってきた。
いつものように大声で帰宅を知らせるようなことはせず、リビングに入ってきてから直接ただいま、と声をかけられた。
「おかえりなさい。ところでこれは――、」
「はい、ルカも」
ずいぶんと様相が変わったこの部屋の真実を問いただそうとする私の言葉は遮られ、何か小さなモノを手渡された。
「これ? クラッカーだけど」
先端から出ている紐が引いてくれと自己主張する、極彩色のファンシーな円錐は間違いなくパーティー用のクラッカーだった。
「そうではなくて、ですね……」
「あ。大丈夫だよ、今回はちゃんと音だけのにしたからね。片付けの心配はいらないよ」
「え? ええ。そう、ですか……」
そんな、褒められるのを待っている子供のような満面の笑みで言われても……。
「さ、都合がいいことにメイコの注意はカイトがそらしてくれてるし、いっせーのーせ、でいくよ!」
何を、とか何処に、かは訊かなくてもわかる。後ろに控えてる3人が、実に楽しそうにクラッカーを構えているから。
「いっせーのー、せっ」
マスターがサッシ戸を開けたのと同時に、連続した4発の破裂音。わずかに鼻腔をくすぐる火薬臭。
そして、目を見開いて驚いたまま固まっているメイコさん。
「ハッピーバースデー! メイコ」
「おめでとう、お姉ちゃん」
「おめでとう!」
「おめでとう!」
「おめでとうございます、メイコさん」
「おめでとう、めーちゃん」
それらの魔法の言葉は、メイコさんを最上級の笑顔に変えた。
サプライズ成功、ですかね。
「さ、ご飯にしよ」
部屋の照明をつけて、席につく。
メイコさんはマスターの定位置のお誕生日席に。逆に、マスターはメイコさんの定位置のキッチンに立ちやすい席につき、あれこれ動いている。
今は魔法瓶から熱々のコーンポタージュを注ぎ、カリカリのクルトンを浮かべて。
「これ、どうしたの……?」
スープカップを受け取りながら、メイコさんが至極当たり前な疑問を口にする。
「うーん、秘密……? とりあえず後、あと! 料理冷めちゃうし」
マスターはみんなにオレンジジュースを、メイコさんと私にシャンパンを注いで回りながら、ささっと楽しい夕食の音頭をとった。
瑞々しい大皿のサラダに、肉汁滴るローストビーフに、鯛のカルパッチョ、パスタやサンドイッチといったいかにもなパーティーフードに、食後には冷蔵庫からはホールのショートケーキまででてきた。
どんなトリックを使ったかは知らないけれど、出来合いのモノっぽくもなく、かといってメイコさんやマスターの手料理の味とも違うそれらは、悔しいけれど美味しかった。
8等分にしたケーキの最後の一切れをリンとレンが争っている間に、ミクが一度部屋に戻り柔らかな赤でラッピングされた包みを持ってきた。
「はい、お姉ちゃん。リンちゃんとレン君とわたしから」
1/16の大きさになったケーキをそれぞれ頬張りながら最後のイチゴを巡って火花を散らしていた双子が、それに気付いて姿勢を正す。
「ありがとう。開けてもいい?」
「どうぞ」
出てきたのは――、
「鍋敷き?」
厚手のフェルトを重ねて作られたもののようだ。
「そう! 3人で作ったの!」
「……キットだけど」
「レン! それは言っちゃダメだよ」
「あはは、ありがとう。大事に使わせてもらうわ」
「これは俺から」
いつの間にかメイコさんの後ろに立っていたカイトさんが、メイコさんの細い首に赤いストールを巻く。
栗色の髪と肌の色に合う、落ち着いた深紅。
「ありがとう」
「どういたしまして」
そして、紳士的な笑みを浮かべて私に道を譲った。
「あの、私から、です」
今朝からずっと肌身離さず持っていた小箱を手渡す。
自分の体温が少し移っているのに気付かれないかと変に心配したけれど、一瞬触れたメイコさんの指のほうがよっぽど熱かった。
小箱の中にはもうひとつの箱――リングケース。
「指輪……?」
「そうです」
メイコさんの左手を取り、ピンクシルバーを小指にはめる。
「ピンキーリングです。左手の小指にはめると幸せが逃げないんですよ」
その隣の指にはめて、永遠の幸せで縛ってしまいたいのが本心だけれど。
「ありがとう」
メイコさんは、はめた左手を照明に透かしたりしている。とりあえず気に入ってもらえたようだ。
「マスターは?」
席についたままだったマスターに、リンが声をかける。
「このサプライズ全てが、じゃダメかな。めーちゃんのためなら毎日をクリスマスにしてみせるよ?」
このマスターなら、本気でやりかねない……。
「ありがとう。その気持ちだけ受け取っておくわ。パーティーはたまに、だから楽しいのよ」
「めーちゃんがそう言うのなら」
マスターは特に残念がる様子も見せずに微笑んで、それからパーティーの終わりを宣言した。今日くらいは自分が責任を持って片付けるからと、メイコさんに部屋に戻るよう釘をさして。
楽しい時間はいつだって駆け足で過ぎていき、この夜だって例外ではなく、時計の短針はほぼ真上を示していた。
あくびを噛み殺している年少組とメイコさんが各自部屋に戻っていく。
私もそれについていこうとしたら、腕を引かれた。
「……?」
「ああ、片付け手伝ってって言うんじゃないよ。これ、持って、メイコの部屋に行って来て」
トレーに乗せられた氷で満たされたアイスバケットにピック、それとは別にワインクーラー、各種アルコールにロックグラスとワイングラスが2つずつ。
晩酌セット、にしては、ツールもお酒の種類も量もなかなかに本格的だ。
「……」
「うん? 3人でがいい?」
「いえ。……あぁ、そういうわけでは。えと」
苦笑するマスターに、なんて答えたらいいものか。
「行ってらっしゃい」
考えあぐねている間にトレーを渡され、両手がふさがってどうにもできない。
私は言葉にならないあやふやな返事をして、バランスゲームのようなトレーとそれを渡してきた人間をうらめしく思いながら重たい足取りで、しかし相反する軽い心を持て余しながら、階段を一段ずつしっかりと踏みしめながら上った。
振り返ることはしない。
日付が変わる前に、もう一度おめでとうを言えるだろうか――。
がさがさとゴミ袋が擦れる音と、食器のあたる音と水音。
祭りの後の静けさとはまさにこの事。
「ふー……。いやあ、結局手伝ってもらっちゃって、ごめんねー」
キッチンで大皿を洗い終えたマスターが、リビングを片付けていたカイトに声をかけた。
「大丈夫、もうすぐ終わるよ。そっち、手伝う?」
「いや、こっちもあとケーキ皿くらいで終わるよー」
再び、しばらく先程と同じわずかな物音だけになる。
「さーて、洗い物は終わったよ」
「マスター、窓ガラスのスノースプレー、どうする?」
白い塗料で描かれた飾り文字。少し力を加えれば削れてしまう程度のもの。
「メリークリスマスに変えたいんだけど……、まあいいや、明日で。朝、手伝ってくれる?」
「もちろん。イルミネーションは、これ、どうやって消すの? 消えない?」
「ツリーの裏のコンセント抜くと、全部消えるよ」
どういった配線になっているのか一目ではわからないが、確かにコンセントを抜くと光が消えて、夜の闇が濃くなったような錯覚を起こさせた。
「あー、ハクちゃんに家の鍵返してもらわないと……」
マスターはわたわたと携帯端末をいじっている。
「そうだ、カイト、星取って」
「星……?」
青い瞳が都会のくすんだ空を見やる。手が届くとしたら、むしろ、空の星を消すほどの明るさの地上にばらまかれた天の川だろうか。
「こっち、こっち」
携帯を左手で弄びながら、右手で指差すのはクリスマスツリー。
「ああ……」
カイトは目線より少し高いところにある、ツリーのてっぺんを飾る星を手にとる。
「開けてみて」
よく見れば継ぎ目があり、強く引っ張ると綺麗に2つに割れた。中から小さな銀色がこぼれ落ち、慌てて拾い上げる。
「……指輪?」
「そ。ピンキーリング。右手の小指にはめると幸せが入ってくるらしいよ。まさかルカと被るとはなー……。いる?」
カイトは笑って首を振って、小さな指輪を返した。
「う〜ん……、今回は最後の最後で完敗だなー」
「だから晩酌も譲った……?」
「え。ああ、うん」
狐につままれたみたいな顔をしているマスターに、カイトは言葉を重ねる。
「ルカちゃんに渡さなかったワインあるでしょ? あれパッと見は普通の輸入ワインだけど、正確にはワインじゃなくて、フランス直輸入のブドウジュースだよね」
「なんだ、全部お見通しかー」
「酔わせて、どうするつもりだったんです?」
その質問に、マスターは笑って取り合わなかった。
「恋はね、思い通りにならないから面白いんだよ」
「俺も、本当にそう思いますよ」
二人は顔を見合わせ、お互いに歯を見せて笑った。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
背を向けて、振り返ることなく自分の部屋へと戻っていった。
草木も眠る丑三つ時。酒気の満ちる部屋で、さまざまな酒ビンに囲まれ床に座り、独り眠らない自分。
背中を預けているベッドではメイコさんが寝息をたてている。
「メイコさん、寝ちゃったんですか?」
何度目かの呼び掛けにも返事はない。
「襲っちゃいますよー……?」
返事は、ない。
振り返って手を伸ばし、短い髪に手櫛をいれてもぴくりともしない。
どうにもできないし、どうにでもできる、とも思う。
でも。
目の前の開封後のてんでバラバラな種類の酒類が嫌でも目に入る。どこかの酒造だ杜氏だの日本酒や泡盛、こだわりの芋焼酎、少数製造の地ビールに、いかにも高そうな雰囲気のワインやウィスキー。せっかくだからと全部開けて、もちろん飲みきれなかったけど、メイコさんはその全てを味わった。
『アルコールが苦手で、てんで門外漢なマスターが、一生懸命ネットだなんだで調べて選んでる。そんな姿を想像するだけで面白いでしょ?』
そう言って、メイコさんはとても楽しそうに呑んでいた。
酔わせたのは、自分じゃない。
「メイコさーん」
もう一度呼び掛ける。返ってきたのはだらしない笑み。
「どんな夢を見てるんですか?」
そこに私はいますか?
ううん、VOCALOIDは夢を見ない。
現実しか、見えない。
「おやすみなさい、メイコさん」
寝る前にシャワーでも浴びようかとも思ったけれど、階下に行かなければならないと考えると気が重い。
まさか、まだ起きているということはないだろうけど。
舌打ちでもしたい気分だった。しても、誰も咎めないだろうし。
無理矢理立ち上がると、ふらつく足元に今度こそ舌打ちが出た。
私はメイコさんに毛布を掛けてから、そっと、家の誰も起こさないように自分のベッドに戻った。
日付はとっくに11月6日になっているだろう。
fin.
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