いつものように窓から忍んだ部屋の中が、違う匂いに満ちていて、犬夜叉はすんと鼻を鳴らした。
 優しい匂いを隠すような甘い香り。
 それは決して嫌ではないものの、胸の奥底がざわついて思わず眉根を寄せた。
 そんな訝しげな仕草に、犬夜叉を招き入れるかごめは首を傾げる。

 「どうしたの?」

 「これ、なんの匂いだ?」
 
 初めて井戸を越えたとき、広がる世界の違いに驚いた。
 どこもかしこも雑多な匂いや音に塗れ、不思議なほどに夜でも明るい。
 けれどもかごめの住まうこの家はいつでも穏やかな空気に満ちていて、中でも彼女の部屋は常に変わらない優しい匂いで溢れていた。
 それはかごめ自身の気配とともに染み入り、ほろほろと犬夜叉の心を和ませる。
 窓を開け、足を踏み入れる前にひと呼吸。
 かごめの匂いで胸をいっぱいにすると、張り詰めていた糸がふっと緩んで心が凪ぐ。
 無意識の内の行動で、かごめの存在を感じると同時にその表情が随分と優しくなることに、きっと犬夜叉自身は気づいていない。
 そんな大切なものの変化を、犬夜叉がわからないはずがなかった。
 問われた言葉にかごめは、あぁと合点がいったように頷く。
 そしてドレッサーに置かれた小瓶を犬夜叉へと見せた。

 「これじゃない?」

 手のひらに収まるほどの小さなそれからは、確かに鼻に触れたものと同じ香りが漂う。
 それを手にするかごめの身体からもふんわりと。
 犬夜叉はすんすんと鼻を鳴らして、眉間の皺を深くした。

 「……いやだった?」

 「いやじゃねぇが……」

 歯切れの悪い犬夜叉に、かごめはそっと眉を下げる。
 『かごめに合うんじゃないかしら』
 そう母からもらった香水は、甘く優しい花の香りのするものだった。
 つけてみれば凛とした清潔感も感じられて、少しばかり大人の女性に近づけた気がした。
 少女性と女性らしさ。
 可愛らしさと清楚さと、ほんの少しの色っぽさ。
 そんな香りを、犬夜叉はどう思うだろうか。
 心ばかりのおしゃれをした自分を、犬夜叉の眼はどう映すのだろうか――――そんな期待は難しげな仕草に敢えなく砕かれた。
 (そうよね、やっぱり香水なんて犬夜叉にはつらいだけだわ……)
 花のような唇から悲しげなため息が零れると、犬夜叉は怪訝な表情をかごめへと向けた。

 「んな顔してどうしたんだよ」

 「だってこの匂い、いやなんでしょ?落としてくるわ……」

 「いやなんて言ってねぇだろ」

 きょとんとしたその眼は、まっすぐにかごめを見つめる。
 澄んだ金色に嘘でないことはすぐにわかった。
では一体、あの歯切れの悪さはなんなのか。
 そうかごめが問うと、犬夜叉は一瞬だけ言葉を詰まらせてそっとかごめの手首を掴んだ。

 「別に嫌いじゃねぇよ。ただ……」

 「ただ?」
 
 そして鼻先を近づけるとまた鼻を鳴らした。

 「お前の匂いが、わかんなくなっちまう……」

 ぽつりと言い零す姿はどこか拗ねているようにも見えた。
 かごめはそれにどきりとしながらも、細い手首から首筋へと移りゆく鼻先に首を竦めた。

 「や、ねぇ、犬夜叉、くすぐったい」

 髪を分け入る鼻先はひやりと項に触れながら、かごめ自身の匂いを探す。
 花や果実の甘ったるい香りのその奥に、優しく甘い柔らかな匂いを見つけて、犬夜叉はそれを胸いっぱいに吸い込んだ。
 違和感に揺れた胸がほろほろと解れていく。
 何者にも代え難い彼女自身に奥の奥まで抱かれているようだ。

 「なぁ……やっぱ、落としてこいよ」

 ねだるようにぎゅうと細い身体を抱きしめる。
 仕方ないなぁと微笑む声が心地いい。
 擦りつけた鼻先にまた、かごめの匂いがそっと触れた。



  抱いて香れよ


犬かご香水に寄せて。







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