しとしとと降る雨は、月のない夜をしっとりと覆う。
 玉のような粒が艶やかな葉に触れ弾かれては、先をつたい落ち、いくつもの淀を作る。
 時折細く吹く風が狭い穴蔵まで雨を忍ばせると、犬夜叉は顔を顰めながら真っ暗な空を見上げた。
 昼ならば春に色づく木々も、今は黒く不安定に揺れる。
 その奥の空は星ひとつ見当たらず、厚い雲に覆われて今にも迫り落ちて来そうだった。
 まるで何かに責め立てられているようで、思わずふるりと震えた肩を、犬夜叉は静かに抱いた。

 もう幾度も過ごして来た夜は、いつだって冷たく寂しかった。
 母の腕に抱かれて過ごした日など、遠い昔だ。
 人の目も、耳も、鼻も、非力な身体も。
 月のない夜には、あまりに頼りない。
 今宵のような星すらない日には、殊更。
 不安や恐怖にざわつく胸では息すら儘ならない。
 そんな途方もない長さの夜から、ようやく救われたと思ったそれも、たったの一年で終わりを迎えた。

 『犬夜叉』

 柔らかく微笑みながら呼ばれた名前は、人の耳にも優しく馴染む。
 ふわりと漂う匂いは甘く、寄り添う温もりに自然と心は凪いだ。
 それが、あの時突然に。
 本当に突然に失われたものは、心を根こそぎ抉っていき、代わりとばかりに、そこをなみなみとした闇が満たした。
 それまで、そんな“もしも”を想像しなかったわけではない。
 ただそれはあまりに恐ろしすぎて、想像し得なかっただけだ。
 それから失くしたものを求めて古井戸へ飛び込んだことなど、もう数えることなどできない。
 あの木枠から見上げた四角い空は、例え星が瞬いていようとも、先を見る光にはなりそうにはなかった。


 「犬夜叉」

 ぼんやりと昔に思いを馳せていると、ふと袖を引かれた。

 「どうしたの?そんな表情して」

 濡れてる、と懐から出した手拭いで頬を拭うと、かごめはそこを手のひらで包み込んだ。
 つい今しがたまで濡れていた肌はひやりとしていて、 春といえどもこんな夜では震えてしまいそうだ。

 「冷たい……風邪ひいちゃうわ」

 柔らかな温もりがじわりとにじむ。
 心細さに重ねた己の指先が意外と冷えていたことに、犬夜叉はほんの少し驚きながら、小さな身体を抱え込んだ。
 湿った春の匂いと共に愛しい匂いが香る。
 ふわりと優しく頭の奥の方を撫でていくそれに、犬夜叉はうっとりとため息をついた。

 「犬夜叉?」

 腕の中からは戸惑うような声が聞こえる。
 けれどもそれに答えることなく、犬夜叉は暫くの間柔らかな肌や優しい温もり、甘い匂いを味わった。
 すると間近でふ、と綻ぶ気配がして、そっと背を抱かれる。
 それがこそばゆくて頬ずりすれば、今度はくすくすと微笑む声が聞こえた。

 「なんだよ」

 「ううん、甘えてくれて嬉しいなぁって思って」

 「……うるせぇ」

 犬夜叉は隠すように赤くなった頬を細い首筋に埋めた。
 細雨を吹く夜風が今は心地よい。
 空の深くではちらりと星が輝く。
 かごめは微笑みながら、もう一度犬夜叉の名前を呼んだ。
 その声は今も昔も、同じように優しい。



  花雨







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