こぶしの蕾が膨らみ、震えるように花を咲かせる。 牛馬が犁を引き、ひとつ奥の畑では村人たちが鍬を振り上げ鋤き返すのを、かごめは手庇の先に見つめた。 柔らかな陽射しが降り注ぎ、緑の山々を背にしながら、赤くはためく衣が映える。 これ以上にない男手と、犬夜叉が借り出されたのは二日ほど前からだ。 相変わらずの仏頂面を貼り付けながら、鍬を振り上げる様は、けれどもなかなかに馴染んでいた。 今年の豊穣を願いながら田を掘る作業は、あちらこちらから歌や笑い声が聞こえ、この時代の明るさと逞しさが垣間見える。 ふと面を上げた犬夜叉に、かごめは大きく手を振った。 それに気付いた犬夜叉が手を振り返すことはなかったが、数拍の後に、逡巡しつつも頷くと再び鍬を振り上げた。 ここからよくは見えないものの、きっと夫の頬はうっすら染まっていることだろう。 かごめはそれを想像し、くすりと微笑むと小さな子らの手を引きながら、ほど近くの野原へと足を向けた。 頬を汚した犬夜叉がかごめの元へ帰ったのは、子どもらが母の元へと戻った頃だった。 僅かに上がった息は、恐らくかごめにしか気付かない。 どこか落ち着かない雰囲気を漂わせる犬夜叉の頬を、かごめは柔らかな指先で拭った。 「おかえりなさい。どうしたの?そんなに慌てて」 「いや……」 ふわりと微笑むそれに、どきりと胸が鳴る。 共に暮らし始めてそろそろ季節はひと巡りするというのに、いまだ慣れぬことは多々あった。 犬夜叉は触れられた頬に熱が灯るのを感じながら、視線を反らす。 かごめはその様に首を傾げた。 ここ数日の彼は、どうにも落ち着きがない。 今朝は尚のこと。 起き抜けに隣に彼がいなかったのも気に懸かる。 朝食どきも出掛ける際も、意識は外へと向いていた。 かごめは微かに揺れる黄金の瞳をじっと見つめると、犬夜叉は何かを決意したようにようやく口を開いた。 「あのよ、」 連れていきたいところがある――――逢瀬など慣れぬ誘いの答えを、かごめはひとつしか知らなかった。 ふたりで過ごすことは数え切れぬほどにあるが、逢瀬となれば別のこと。 いつもより少し熱い犬夜叉の背で春風に吹かれながら辿り着いたのは、村から幾らも離れていない野原だった。 なだらかな斜面は緑の絨毯が柔らかく息吹、所々に生える花には蜆蝶が羽根を休めている。 そして抜けるような青空とゆるゆると流れる雲を背に聳え立つのは、見事なまでに花を咲かせた桜木だった。 「わぁ!」 それを認めるや否や、かごめは感嘆の声をあげた。 丸い瞳をいっそう大きくしながら映した花が、その中でもちらちらと輝くように光を零す。 頬を紅潮させはしゃぐ姿を、犬夜叉はどこかほっとした面持ちで見つめた。 「犬夜叉、ありがとう」 眩しいほどの満面の笑みが桜に映える。 犬夜叉はそれに心の深いところをきゅう、と締め付けられるのを感じながらぽつりと口を開いた。 「……かごめと、見てぇと思ったんだ」 どっしりと根を下ろし、けぶるように咲くこの桜を見つけたのは、かごめが井戸の向こうに消えた翌年のことだった。 嘗ては、ふたり仲間と共に旅をし、様々な物事に触れてはきた。 その中で以前は気にも留めなかった季節の移ろいが、いつの間にか犬夜叉の眼にも色鮮やかに映るようになっていた。 緑萌ゆる春の後、空が泣くような時期を越えれば、暑さのなかで 黄金色に輝く稲穂が夕焼け空に溶けていく景色に物悲しさを感じては、雪降りしきる季節にはすぐ傍に柔らかな温かさを感じた。 そうしてかごめと過ごしてきた月日を、離れた後も追いながら、淋しさと呼ぶには重すぎるものを仕舞いこんでいた。 それは自身が思うより大きかったということを、犬夜叉はこの桜を見た瞬間に自覚した。 枷が外れたように滔々と溢れる気持ちは、抑えようもなく、行き先もなくただ流れ続ける。 それこそ枯れてしまうのではないかと思うほどに。 けれどもそれはいつまで経っても枯れることなく、犬夜叉の隅々までを侵しては時に優しく、時には残酷に、その心身を包み込んだ。 そうして迎えた昨年の春、もう葉桜が輝く頃。 ようやく再び、かごめをその腕に抱き締めた。 そこから一年、暮らしを共にしながら、今まで以上に心通わせ、肌をも触れ合わせた。 かごめの傍らで移ろう季節を感じながら、ふと思い出すのは淡く色づく景色。 犬夜叉が思いつく限りでただひとつ、かごめと見たことのない風景―――― かごめのいない数々の景色を思い出し、軋む胸に犬夜叉は眉根を寄せた。 はらはらと、桜が散り流れていく。 静かに。音もなく。 「私もね……ずっと、見たかったの、犬夜叉と」 握りしめた拳を、かごめはそっと包み込む。 解かれたそこに手のひらを重ねると、緩やかに指が絡み合う。 ふわりと笑んだその奥に同じ淋しさを見つけて、思わず犬夜叉はきつくきつく握りしめた。 それにかごめは声をあげることもなく、結んだそこをもう片方の手で撫でる。 そして柔らかな春の陽射しのように眩く笑った。 「あとね、桜だけじゃなくて、もっといろんなものを見ていきたい。犬夜叉と。一緒に」 吹いた風が花びらと共に艶やかな黒髪を撫で攫うと、そこからまた光が零れ、それが犬夜叉の目にはスローモーションのように映った。 すると、すとんと心の奥底が、ようやく平らかに納まった気がした。 はしゃぐかごめが犬夜叉の手を引く。 優しい匂いが豊かに香り、ぶわりと吹いた風が賑やかに花を揺らした。 踏みしめた緑が素足を撫でていくのが擽ったい。 切なさはただ影を潜めただけ。 けれどももうきっと、ここに淋しさはない。 あの時は見えなかった景色に、犬夜叉はそっと頬を緩めた。 colors |