旅は終焉へと向かい、冬の寒さは厳しさを増す。
 歩みを止めることがない中での、束の間の休息。
 犬夜叉と同じ木に背を預けるかごめは、真剣な眼差しで羅列した文字を追っていた。
 先日、どたばたとしながらも漸く受験は終わり、かごめが勉学を理由に井戸を跨ぐことも少なくなった。
 けれどもその後も合間を見ては書物を読み耽る、その姿は変わらないでいた。
 細い指先が静かにページを捲る。
 犬夜叉が横目にちらりと見遣れば、そこには整列した文字とともに、小さな写真が添えられている。
 そのひとつの白い花は、紙の上で平坦に咲きながらも、花弁は今にも零れ落ちそうに露を抱えていた。

 「……なぁ、何読んでんだ?」

 犬夜叉がまじまじと覗き込みながら訊ねる。

 「ん?薬草の本よ。ほら、みんな怪我することが増えたでしょう。向こうの薬だけじゃ間に合わないときとかに、少しは役立つかなって」

 以前は眉を垂らし、時には顰めながらも机に齧り付く姿に、それならば止めてしまえばいいのにと思ったことも多々ある。
 けれどもこうして楽しげな姿を見ると、どうやら彼女は元来学ぶことが好きなようだ。
 殊勝なことだ、とそれを眺める犬夜叉の鼻を、ふと甘い匂いが擽った。
 それは隣に座るかごめから漂っているようで、風が吹くたびに彼女の柔らかい匂いに混じり、ふわりふわりと香る。
 再び書物に目を落としたかごめの横顔を眺めていると、口元が小さく動きからりと音がした。
 犬夜叉は誘われるように近づき、すん、と鼻を鳴らすと、それに気づいたかごめが顔を上げる。

 「なぁに?」

 振り向いた鼻先が意外にも近くて思わず胸が跳ねる。
 まん丸な薄茶の瞳は冬の薄い陽射しのなかでも柔らかく輝く。
 犬夜叉は胸の高鳴りを誤魔化すように、もう一度、今度は少しだけ態とらしく鼻を鳴らした。

 「なんか、あめぇ匂いがする」
 
 「あぁ。あんたやっぱ鼻いいのねー」

 感心したように言いながら、かごめがごそごそと側に置いたリュックサックを探る。
 そして右側の小さなポケットから、いくつか包みを取り出すと、それを犬夜叉に渡した。

 「飴。あげるね」

 白地に赤と緑で描かれた絵は、以前かごめの実家で食べた果実に似ていた。
 つるりとした包み越しに鼻を鳴らせば、かごめから漂うものと同じ匂いがする。
 その中の三角形をした薄桃色の飴を口へと放れば、瞬く間に甘い匂いと味が広がった。

 「……あっめぇ」
 
 眉間に皺が寄るほどの甘さ。
 かごめの国の食べ物はどれも輪郭がはっきりとした味ばかりだと思ってはいたが、中でもこれは一際だ。
 匂い以上の甘さが舌に纒わりつく。

 「そう?おいしいんだけどなー」

 微笑むかごめの口内で、またからりと音が鳴る。
 同じ匂いの元を眼で辿った先には、口に放った飴と同じ色をした唇が、ふっくらと瑞々しさを湛えていた。
 犬夜叉はまた、どきりと胸を鳴らす。
 身体が染まりそうなほどに甘ったるい。
 深いところから溶けてしまいそうだ。
 くすくすと笑う声を聞きながら、犬夜叉は口の中でからりころりと飴を転がした。

   * * *

 まだ瘴気の残る森を抜け、漸く清浄な場を見つけると、犬夜叉は広がる緑の中に歩を進めた。
 楓に頼まれた遣いは、そのどれもが瘴気や傷を癒す薬草だった。
 犬夜叉は鼻を頼りにひとつひとつ摘み取り根を掘る。
 やがて籠も一杯になり始めた頃、最後のひとつを見つけると手を伸ばした。
 けれども緑の中にあるそれを見て、犬夜叉はぴたりと動きを止めた。
 手を握って、開いて、躊躇いがちに触れる。
 そうして他よりも丁寧に摘み取ったそれは、あの時かごめが読み耽っていたものと、同じ花を咲かせていた。

 件の戦いは幕を引き、強大な敵は姿を消した。
 けれども平穏な日々にはまだ遠く、楓の村は瘴気に蝕まれ、元の形を失くしていた。
 共に戦った仲間も、今はまだ床に伏せている。
 数日前の惨事は、最小限に留められたとはいえ、多くの人や物に害を成した。
 無論、犬夜叉も数え切れない程の傷を受けたが、流石というべきか、その大半が跡形もなく治癒していた。
 しかし胸の奥底の深く重たい、喘ぐような苦しさだけはどうしたって消えない。
 それがなんなのか。今の犬夜叉にはしかとわかっていた。
 けれどもそれはもう、どうにも仕様がないことなのかもしれない。それにも。
 暗雲に陰る気持ちを、奥歯を軋ませやり過ごす。
 ここ数日の僅かな時間。たったそれだけの間に癖になった。
 摘み取った花が、傍に置いた籠の中で風に揺れる。
 それが犬夜叉には震えているように見えた。

 「かごめ……」

 自らが作る影が花を覆う。そこに向かって名前を呼んだ。
 こうして時折襲う無力感に膝を折るのは何度目か。
 項垂れ、深く深くため息を零すと、袖の底でかさりと音が鳴り、次いで甘い匂いが漂った。
 覚えのある匂いに犬夜叉は鼻を鳴らす。
 そして袖の中を探ると、手にしたものに息を呑んだ。
 白地に赤と緑で描かれた、見覚えのある果実の絵。
 その包みはつるりとしていて、中からは甘い甘い匂いがする。
 犬夜叉は気づかないほどに小さく震えながら、近づき小さく鼻を鳴らした。
 ゆっくりと包みを開き、取り出した薄桃色の飴は、僅かにべとりとしている。
 それを気にも留めずに口へと含めば、あの時と同じ、眉を顰め、喉の奥の方まで纏わりつく、あの甘さが広がった。
 気怠いほど甘さに、犬夜叉は背を丸めた。
 かごめの匂いのしない甘さが、虚無を抱えて身体中に広がる。

 「っ、」
 噛み締めた奥歯に、転がる飴ががりりと割れる。
 歯の軋むような甘さの中に、あの時は気づかなかった酸味が広がった。
 矢鱈と鼻の奥が痛む。眼の奥が熱くて重い。
 眼裏のかごめが、あの時のように微笑む。
 本当にいなくなって思い知る。それはあまりにも大きい。

 「────」
 声にならない言葉が、甘さに混じり舌の上で溶けて消える。
 今は上手く呼吸もできない。
 柔らかな陽射しが凪いだ風に煌めく。
 足元で咲く白い花が、そっと優しく犬夜叉を撫でた。



  






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