古びた井戸の淵を細い指がそっとなぞる。
 切なげに、静かに、愛おしげに。
 もう幾度も撫でられた淵は、そこだけが黒く鈍い色をしていた。
 まるで諦めきれない想いがふつふつと募り、色濃くしているようだった。
 そして淵を掴めばそれまでしっとりと手に馴染む。
 かごめは深く息をすると、目を閉じたまま井戸の中を覗き込んだ。
 そこに、向こうの景色が見えることを願って。
 ひっそりとした祠の中。
 まだ陽が差しきらない暗がり。
 もしかしたら、よくは見えないかもしれない。
 何度も想い描いた。何度も夢に見た。
 三年前は当たり前だった光景。
 閉じるよりもゆっくりと目を開く。
 けれどもやはり、願い、祈って見たものは、結局ただの底土だった。

 「犬夜、叉……」

 だんだんと、呼ばなくなった名前を口にする。
 あの頃、数え切れないほどに呼んだ名前が、今はもう遠い。
 それなのに思い出す暇がないほどに、彼を想う。
 縺れた舌にかごめは喉の奥からせり上がるものをくっ、と堪え飲み込んだ。
 振り切るように井戸に背を向けると戸を開いた。
 見上げた空は柔らかなピンクと鮮やかな水色が混じった、まるで夢のような色をしていた。
 雲間の影さえ淡く光っている。
 そろそろ、夜が明ける。
 閉じた戸の向こう側で、そっと底土に風が吹いた。



  







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