緑を縫う陽のきらめきが水面のように地で揺れる。
 くちなしの甘い芳香と共に、あの優しい匂いが鼻を掠めて犬夜叉は目蓋をあげた。
 背を預けた大木の上から、匂いの筋を辿るように目を向ける。
 その深く輝く目が捉えた小さな背中。
 いまだ求め続ける彼女が、そこにいた。
 まだ幼い、あの頃の犬夜叉が知らぬ姿で。
 それでも噎ぶようにふるりと心震えるのは、きっと無邪気な笑顔も、澄んだ瞳も、柔らかな気配も、かごめそのものだからだろう。

 「――――」

 犬夜叉は乾いた唇をそっと動かした。


 もうあれから、数えきれない夜を過ごして、朝を迎えた。
 いつだったか、かごめが話していた時の流れを見つめながら、いくつもの時代を越えてきた。
 最後にかごめを背に乗せたのは、いつだったか。
 懐かしむには遠すぎるほど記憶は古びているのに、匂いも声も姿形も、すべて。
 指先や髪ひと筋が描く曲線さえも、その眼裏には鮮明に思い出せた。

 「……かごめ」

 ようやく紡いだ名前が静かに風に乗る。
 小さな足が踏み鳴らす玉砂利の音や、朗らかに響く声が耳に優しい。
 犬夜叉がひっそりと枝葉に隠れるように見つめていると、転がるボールを追いかけていた少女が、ふと緑の奥を見上げた。
 聞こえるはずのない、呼ばれた名前に呼応するように。
 視線が合ったと気づいたときには、茶がかった瞳は丸くなり、風にたなびく銀糸を映す。
 そして満面の笑みを携え、きらきらと零れる光の屑を掴むように、そこへと手を伸ばした。

 「きれーね」

 はっきりと聞こえたひと言に、犬夜叉のなかの何かが音を立てた。
 硝子が割れたような隙間から、募った想いが溢れ出す。
 かごめを看取り、再びあの瞳に映れることを願いながら、遠すぎる時のなかを生きてきた。
 それはおとぎ話のような夢だと思いながら。

 「かごめ……っ、」

 人と妖の命の差など、結ばれる前から知っていた。
 残す者の苦悩も、残される者のつらさも、想像しなかったわけではない。
 ただそれでも、永い人生のほんのひと握りの時間だったとしても、かごめと共に生きたいと思った。
 かごめの傍にいたいと、かごめに傍にいてほしいと思った。
 もちろん彼女と最期の最後まで、共にいきたいと思うことがなかったわけではない。
 ただ、かごめが残した数々に、前を向くことの背中を押された。
 あのとき、切なげに微笑んだかごめは、きっとこうなることをわかっていた。
 わかっていて尚、縛り付けてはいけないと、それを口にすることをしなかった。

 『犬夜叉にはね、いっぱい笑ってほしい。幸せでいてほしいの。誰といても、どこにいても。ずっとずっと、ずーっと』

 犬夜叉はいつかの言葉を思い出し、唇を緩ませた。

 「……馬鹿だよな……もうとっくの昔から、おれはお前のものなのにな……」

 今ではあの言霊すらも愛おしい。
 もう抱きしめることも、呼び合うことも叶わない。
 滾々と溢れ続ける想いのまま念珠に口付けると、いつかの温もりに触れた気がした。


 緑輝く御神木を目の前にぴたりと動きを止めた少女が、何かに向けて手を伸ばす。
 ふと見えた横顔は少女というには大人びていた。
 その様に首を傾げた母が視線を辿れど、そこにあるのは穏やかにそよぐ枝葉ばかり。

 「かごめ、どうしたの?」

 「ママー、おにーさんがねー」

 母の元へと駆けながら幸せそうに綻ぶその姿を、犬夜叉は溢れさす眩さの奥に見つめる。
 ちらりとこちらを見た瞳には、あの頃と同じように優しく幸せそうな姿が映る。
 母には見えぬ誰かを話す小さな唇から、『犬夜叉』と紡がれた気がした。

 「かごめ」

 掠れた声が葉擦れのなかに消えていく。
 生い茂る緑が古びた緋色をそっと奥へと隠す。
 もうきっと、誰の目にも映ることはないだろう。
 見上げた青空が、あの日と繋がる。
 優しく髪を交ぜる風のなかで、温かな腕に抱きしめられた気がした。



  寧日






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