高くなった空を薄い雲が緩やかに流れる。 桜の時期を過ぎ、わずかに湿度を増した風が、玄関先の簾を静かに揺らした。 昨日までに山ほどに摘んだ薬草の下処理を終えたかごめは、簾が透かす柔らかな陽射しを眩しそうに見つめる。 麗らかと言える季節は過ぎたものの、穏やかな昼下がり。 湿り気を含んだ爽やかな風が肌を心地よく撫で去る。 思わず零れてしまった欠伸は誰が見ることもないが、かごめは土で汚れた手でそっと隠した。 夕餉まではまだ遠い。 隣村まで遣いに出掛けた夫も、まだ暫くは帰ってこないだろう。 かごめは隅に畳んだ布団に凭れると、もうひとつ欠伸を零した。 鼻を掠めた指先がいつもより青々と強く香る。 きっと犬夜叉は目敏くこれを見つけては、丹念に丁寧に自分の指を洗う。 かごめはそれを想像すると、静かに微笑み目蓋を閉じた。 *** それを見たのは、初めてではなかった。 もうずっと昔から、犬夜叉と出逢うよりも前から。度々、忘れた頃に見る夢。 数ヶ月だったり数年だったりの時を隔てながら。 幾度となく繰り返し見る夢はぼんやりと霞み、その奥で自分を見つめる誰かはいつも優しげだった。 とはいえその誰かは声も表情も、姿かたちさえも分からない。 ただひどく懐かしく、何よりどうしようもなく愛しい気持ちになるのだった。 「……め、かごめ」 軽く肩を揺らされて、かごめはゆるゆると目蓋をあげた。 「ん……犬夜叉……?」 少し気だるげに目を擦る姿は夫婦となった今でも、あの頃と同じく幼げだ。 穏やかな目覚めに犬夜叉はほっと息をつくと、今度は眉根を寄せた。 「お前な、昼寝するのはいいがまた閂もかけねぇで。不用心だぞ」 昼寝のたびに繰り返される小言は、何より大切な妻を思えばこそだ。 (また、見た……) かごめは夢の誰かを思い出しながら、うん、と返事をすると、まだ眠気の残る瞳で犬夜叉を見つめた。 そして渋面に微笑みかけ、舌っ足らずに口を開いた。 「おかえりなさい」 *** 梅雨も終わりを迎え、時折射す陽は森のわずかな隙間を縫って地を照らす。 今朝までの雨に打たれた草花は、踏みしめる足を静かに濡らした。 かごめは空の籠を抱えながら、目的の場所へと歩を進める。 ひっそりとした森を抜けた少し先。 これから来る夏を誘うように青く匂う草花が一面豊かに生い茂る小高い丘は、遮るものを何も持たずにかごめたちの住まう村を広々と見渡せた。 その高くにあるどこか御神木にも似た木が、ここ最近の彼のお気に入りだった。 向かう足が急いでしまうのは、頼まれごとのせいではない。 現に弥勒に伝え頼まれたのは明日の仕事のことだ。 薬草詰みのついでに声をかけるとは言ったものの、その本音はただ二人きりになりたかった。 少しずつ忙しなく成りゆくなかで、束の間の逢瀬のようなひと時を味わいたかった。 かごめは小走りに森を抜けると、そっと息を整える。 駆けて来たことが知れぬように。 そして歩調を整え始めてすぐ、そびえ立つ木の上に彼を見つけた。 犬夜叉、とかけようとした声は、その姿に喉の奥へと忘れられた。 幹に背を預け目蓋を閉じる彼を柔らかな陽が包む。 温もりを吸い込んだような緋が、青空の下で鮮やかに映える。 そして犬夜叉の白銀が風の道筋を描くように、さらさらと流れきらめいていた。 それはどこか厳かさすら漂うような光景だった。 (あれ……?) その姿をかごめは手庇の先に見つめると、ふと脳裏にいつかの景色が思い浮かんだ。 見上げた眩しさの奥にいる彼は、かごめが来ることを知っていたかのようにゆったりと目蓋を上げると、物言わずに視線を向けた。 静かに、そっと微笑むように。 (あ――――) その瞬間、かごめの中で何かが弾けて瞬いた。 夢の誰かはあの木の傍にいた。 ひたり、と寄り添うように。 年月を経てくすんだ緋い衣を纏うその姿は静かで、風に遊ばれる髪がどんなものより綺麗に見えた。 そして自分のことを見つめる瞳がどこまでも優しく深く、金に透けて、それと視線が結び合うたびに、なぜかもわからず胸が締めつけられた。 そうだ、あれは夢ではなくて、あれは―――― 「かごめ?」 見開いた瞳に映る犬夜叉は首を傾げる。 応えることもできずに微かに震える手を伸ばせば、空いた距離を縮めるようにしかと握られた。 からからに引き絞られた喉の奥で、声にならない彼の名を呼ぶ。 あんなにも遠い先まで寄り添ってくれていた、彼の名を。 かごめが強請るように犬夜叉へと腕を広げれば、そのままふわりと抱き留められる。 じんわりと伝わる温もりに切なさが込み上げ、息もできない。 「どうした?」 憂わしげな声にかごめは面を上げると、金の瞳を真っ直ぐに見つめた。 その色は今もあの時も、少しも変わらない。 それにまた胸が潰されそうになりながら、かごめは小さく首を振り微笑んだ。 「犬夜叉がね、好きだなって思って」 「な、なんだよ、いきなり」 「うふふ、あのね」 思ってもない突然の言葉に、戸惑いながらもその頬は赤く染まる。 出逢って結ばれて、もう随分と経つのに少しも変わらない様にかごめはころころと笑うと、犬夜叉を思い切り抱きしめた。 「ずっとずっと、ずーっと、大好きよ」 とくとくと、生命の音が穏やかに響く。 背に優しく添う手はどこまでも温かい。 ぽろり、と零れた涙がひと筋、緋い衣に小さな跡を残した。 『かごめ』 誰よりも何よりも愛おしげに呼ぶ声が、遠くで聞こえた気がした。 きっと、あの夢はもう見ない。 豊かに広がる青葉と共に靡く銀糸が、柔らかな光を零すのを、かごめは涙の淵で見つめた。 寧日 |