梢から零れる陽射しは強く、少し動けば額には汗が滲む。
 夏はもう目の前とはいえ、まだ梅雨の最中。
 ここ数日降り続いた雨間の今日は特別に暑かった。
 湿気を孕んだ空気が、大きく開けた窓から通り抜けると、ゆったりと肌を撫でていく。
 そんな折に、彼女が押し入れの整理をし始めたのは、昼食もとうに摂り終えた頃だった。
 テレビを眺める視界の隅に映った襖が、なぜだか気になった。
 開き見て、時折舞う埃を手で払う。
 手前にあったものたちを避けて、奥まで手を伸ばしてみれば、そこは実に懐かしいものたちで溢れていた。
 もうあったことさえ忘れていた洋服に、いつだったか探していた小物入れ。
 今はもう開くことさえなくなった絵本は、いつまでたっても手放せないでいた。
 思い出に浸りながらひとつひとつ手に取っていくと、一冊のアルバムに心惹かれた。
 薄いピンク色の布地で覆われた表紙は、いくらかくすみ隅は僅かに傷ついている。
 ずっしりとした重さの分だけ、ここにはいくつもの思い出が詰まっているはずだ。
 撫でた表紙は柔らかく、その指先を誘った。
 彼女はぱらり、ぱらりと、噛み締めるようにページを捲る。
 もう色褪せた写真にあるのは、今よりも賑やかだったあの頃。
 哀愁に浸るつもりはないものの、ひとつの家族は幸せそうに笑う。
 もう記憶の中ではいくらか朧ろになってしまった夫も、写真の上では鮮明で、その姿を見ればじんと心が鳴いた。
 そんな夫の腕に抱かれる娘も、屈託なく笑っている。
 決して今が足らないというわけではない。
 けれどもやはり、寂しさは影を見せる。
 玄関に並ぶ靴の数だったり、囲んだ食卓だったり、笑う声だったり、おやすみなさいの言葉だったり。
 ふとしたときに。


 娘が遠く遠くに嫁いだのは、桜が綻び始めてしばらくした頃だった。
 三年という娘にとっては長かったであろう時間は、母である彼女にしてみれば、あっという間に過ぎ去った。
 深く深く悩みながらも答えを出したその背を押したのは、他でもない彼女自身だ。
 長くも短い時間は、ずっと側で見守ってきた娘が何を選ぶのか、それを理解するには十分で、受け入れるには足らなかった。
 それでも笑顔で送り出したのは、その背が真っ直ぐに伸びていたからだ。
 彼女はほんの僅か昔を思い出し、慈しむように平たい中で笑う娘に触れる。
 そして込み上がるものを堪えるかのように、またページを捲った。
 すると、はたと目に留まった一枚の写真。
 明るい空色の下で、豊かに葉を茂らせる御神木。
 今はもう、物言わぬ井戸が眠る煤けた祠。
 よく知った境内。
 何気ない景色を写した写真の真ん中にいる娘は、いたく幸せそうに目を細めながら、枝葉の奥に手を伸ばしていた。
 ともすれば何か、愛おしいとでもいうような。
 幼い少女にしては、やけに大人びた表情だった。
 はて、と彼女は首を傾げる。
 娘は一体、何を見ているのだろうか。
 どうしてこんな表情をしているのか。
 珍しい鳥か何か止まっていたのだろうか。
 いや、そうではない。
 もっと違う、何か――――
 探るように緑豊かなその奥をじぃっと見つめていると、ふと記憶の筋に明かりが灯る。
 途切れた糸が丁寧に繋がるように。

 「あ、」

 真っ赤な上下の衣服に長い髪。
 頭の上にはあるものは耳だと言っていた。
 当時、娘が描いた幼い絵。
 あれはどこにいってしまったのだろう。
 記憶が抜け落ちていたように、あの絵もどこかへ消えてしまったのか。
 そもそもなぜ今まで忘れていたのだろうか。
 幼い娘が話していた、クレヨンで描かれた“誰か”のことを。
 こんなにも大切なことを――――
 あの時、娘は御神木を見上げていた。
 満面の笑みで嬉しそうに頬を染めて。
 どうしたのかと尋ねれば確かにこう言ってた。

 『お兄ちゃんがいるの。かみのけがね、きらきらしてきれーなの』

 物心ついてしばらくの間、寄り添うように御神木の傍にいた娘は、いつしかそこに微笑みかけることも、手を伸ばすこともなくなった。
 七歳までは神のうち、ともいうのだから、もしかしたらほんの少し、あちらの世界が見えたのかもしれないと、神様の指先に触れたのかもしれないと、夫ともそんなふうに話していた。
 けれども違った。
 確かにそこにはいたのだ。
 神様ではないけれど、きっと今も昔も、娘に変わらぬ想いを注いでくれている、彼が。

 眩しい陽射しのなかで煌めく御神木は、ただ静かに聳え立つ。
 そういえば娘の部屋へと忍ぶ彼は、よくあの枝葉を揺らしていた。
 今となってはぬるい風が葉を揺らしても、その奥にはためく緋色は微かにも見えない。
 気が遠くなるような時代を越えて娘を見つめていた彼と、想うよりも昔から彼に手を伸ばしていた娘と。
 静かで透明な想いは永いこと、さも当たり前かのようにふたりの間にあったのだ。
 (犬夜叉くん、あなたって本当に……)
 自分の知らない世界へと、娘を手放すことが怖くなかったわけではない。
 未だに不安も心配も山ほどある。
 青空の見える古井戸に飛び込み行く背中を、何度も何度も夢に見る。
 けれどもその度、続く夢の先には幸せそうに寄り添うふたりがいる。
 それが夢ではないと思えるのは、娘が娘として生まれてくるよりも前から、不器用に優しく、どこまでも想ってくれている彼がいるからだ。

 『ママ』

 呼ぶ声も、笑顔も、泣き顔も、引いた手の感触も。
 全て、今でも忘れることはない。

 「かごめ……」

 そういえば、彼といるときの娘の頬は、写真のこの子と同じ色をしていた。
 彼女は御神木へ目を向けると、ずっと昔を生きるふたりを見つめるように目を細めた。
 あの他愛ないやりとりが眼裏に浮かぶ。
 色褪せたなかで屈託なく笑う娘は、きっと今も遠く遠い昔であの頃と同じように彼に手を伸ばし、幸せそうに笑っている。



  寧日






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