着慣れない黒い袴に草履の足元をじっと見つめて、憂さを晴らすように近くの木の上へと飛び乗った。
 かごめのためだと耳にタコができるほどに言われながら、愛用の鎧代わりの衣を脱いで、履き慣れない草履を履いた。
 それでも窮屈極まりない足袋だけは、決して履かないと断った。
 容易に脱げてしまいそうな草履を落とさぬように、枝の上で腰掛ける。
 春と初夏の間の柔らかで暖かい陽射しに包まれて、思わずくありと欠伸が零れた。
 いくらかごめのためだと言われても、なぜ自分までこうも着飾らなくてはならないのか。
 面倒くさいし、納得がいかない。
 何よりもそれらを上回る気恥しさに、犬夜叉はへの字に曲げた唇を軽く突き出した。
 (あーー……めんどくせぇ……)
 気怠げにため息すると、ようやく馴染み始めた我が家へと視線を向ける。
 ふと見た格子窓の隙間からは、きゃっきゃと女たちの楽しげな声が漏れる。

 「よし、あとは化粧だね」

 「かごめさま、素敵です!」

 「ほんに、よう似合っとる」

 犬夜叉の気分とは正反対のところにある言葉と、その後に小さく礼を言う恥ずかしげな声が聞こえる。
 それに犬夜叉は胸の奥底に重たい雲のようなものを少しだけ抱えて視線を逸らした。
 自分だって分かってはいるのだ。
 女にとってのこの日が、どれだけ大切なものなのか。
 喜ばしいものなのか。
 幸せそうに準備を進める姿を、犬夜叉はずっと傍で見てきた。
 大切にしてやりたい。誰よりも一番に。
 それがかごめともなれば尚のこと。
 もちろん今日という日を、共に祝いたい気持ちがないわけではない。
 けれども自分のこの性格が邪魔をする。
 への字に曲がった唇も、皺の寄った眉間も、口を開ければ出る文句も、ないほうがいいことなど知っている。
 犬夜叉は足から滑り落ちそうな草履を直すと、もう一度格子窓へと目を向けた。
 ひとつ二寸ほどの隙間。
 人であれば輪郭が見えるくらいの距離。
 そこから見えたのは真白に包まれたかごめだった。
 緩く伏せられた長い睫毛が、白粉と紅を差した頬になだからな影を描く。
 うっすらと開いた唇に触れた珊瑚の指先が、滑った後を追うようにして鮮やかな朱が差す。
 その内側から滲む玉虫色は、光り輝いて艶を帯びていた。
 まるで澱みなく誰にも染まらない彼女の色に、自分の奥の方が少しずつ包まれるように色を変えていく気がした。
 珊瑚の指が丁寧に柔らかそうな唇を彩り終える。
 すると唇は優しく結ばれ、睫毛はゆっくりと上を向く。
 開かれた薄く茶がかった瞳は、鏡を見ると幸せそうに煌めいた。
 全てが流れる時を変えたように、ゆっくりと動いていくのを、犬夜叉は息をするのも忘れて見つめた。

 「綺麗だよ、かごめちゃん」

 「ありがとう」

 「犬夜叉も惚れ直すんじゃないかい?」

 「本当?――――犬夜叉も、綺麗って思ってくれるかな」

 そう思ってくれるといいな、と微笑む姿が眩しくて眩暈がする。
 あんなにも美しく化けるだなんて。
 あんなにも幸せそうに微笑むだなんて。
 あんなにも素直に想われるだなんて。
 かごめが喜ぶのであれば、『綺麗だ』などとは口が裂けても言えないが、せめてこの唇はへの字から真一文字に、眉間の皺は薄くして、文句ではなく『あぁ』と頷くことはしてみせようか。
 犬夜叉は柄にもなくそんなことを思ってみた。
 惚れたが負けとはよく言ったものだ。
 どちらが先に惚れたのか、そんなことは分からないが、少なくとも今だけは自分が先に惚れたのだ。
 きっとこの先、こんなことが幾度となくあるのだろう。
 そんな確信めいた予感が、犬夜叉の頭を過ぎった。

 「っあ゛〜〜…………」

 もうかごめに勝てる気など、花びら一片もありはしない。
 胸いっぱいに詰め込まれた、言葉にならない想い抱えて、犬夜叉は力なく空を仰いだ。

  ***

 慣れた緋色の衣に身を包み、床の上で大の字に寝転がると、犬夜叉は大きくため息をついた。

 「あ゛〜〜、疲れたー」

 どんなに屈強な相手と組み合うよりも、慣れない衣に身を包み、厳かな雰囲気に身を置くほうが、犬夜叉にはよほど堪えたようだった。
 染みひとつない天井を仰ぎ見て、そっと目を閉じれば、昼間の光景が目蓋の裏に鮮明に描かれる。
 静々と歩くかごめは真白に身を包み、いつもの快活さとは程遠い貞淑さを醸し出していた。
 珊瑚に施してもらった化粧は、綿帽子がすっぽりと覆う。
 いつものかごめは見えないけれど、そこからは白粉に紛れて確かなやさしい匂いがした。
 凪いだ森の中で、楓が読み上げる祝詞を聞きながら盗み見た横顔を、犬夜叉は決して忘れないだろう。
 すらりと伸びた睫毛が淑やかに伏せられ、その隙間からは煌めく瞳が穏やかに揺れる。
 白い頬には熱が滲み、ふっくらとした唇は紅色の中に複雑な光を携えていた。
 慎ましく揃えられた指先は桜色に染まる。
 幸せのなかに、とっぷりと身を沈めたような姿。
 自分とは明らかに違うこの人の隣に、これからずっといられるのだろうか。
 不安と期待と、焦燥感と幸福感と。
 犬夜叉は名を呼ばれたことにも気づかずに、しばらくその姿を見つめ続けていた。
 ふと横目に見えた布団の白が、そのときのかごめと重なって、犬夜叉はそわそわと座り直した。
 けれども居住まいが落ち着くことはなく、しきりに辺りを見回す。
 慣れない家屋は犬夜叉とかごめのために、と弥勒を筆頭に村人たちが誂えたものだ。
 部屋の隅の家具も、横に敷かれた布団も、灯りのともる蝋台も、すべて。
 慣れない光景に、慣れない匂い。
 そして慣れない雰囲気。
 身の回りのどれもが、犬夜叉の身体を固くさせた。
 すると、その雰囲気を崩すようにして、からりと戸が開く。
 襦袢に着替えたかごめは、昼間とは違い肩の力が抜けたように、犬夜叉に労いの声をかけた。

 「お疲れさま、犬夜叉。今日はありがとうね」

 「、あぁ」

 朗らかないつもの笑みを見せるかごめに、犬夜叉はほっと息をつく。
 それは息を呑むほどの美しさはないけれど、安心する犬夜叉が一番好きなかごめだった。
 力を抜いて胡座を掻き直すと、にこにこと笑うかごめを見つめた。
 結局、『綺麗だ』と言ってはやれなかった。
 言えるはずもないと知っていたし、かごめもそれをわかってはいたようだったが。
 それでも女たちで話していたときの、かごめの言葉が胸を引っ掻く。

 “綺麗って思ってくれるかな?”

 「ったりめぇじゃねぇか……」

 「なにが?」

 ぽつりと呟いた声はふたりしかいない室内で、存外大きく響いた。
 首を傾げるかごめに、犬夜叉は慌てて首を振る。
 なんだって今日はこんなにも落ち着かないのか。
 疲れに背中を丸めると、犬夜叉はちらりと見えたかごめの口元に目を止めた。

 「おめぇ、まだ化粧してんのか?」

 昼間に香っていた白粉の匂いはほとんど消えてはいたが、色づく唇はその色をうっすらと残していた。

 「え、あ、うん…………珊瑚ちゃんが、その……は、初めての、夜だからって……あの、少しだけ……」

 もじもじと擦り合わせる指先がやんわりと染まる。
 俯く視線はふたりの間を彷徨う。
 あまり見たことのないかごめの姿に、犬夜叉は胸をどきりと鳴らした。

 「そ、そうか……」

 “初めての夜”

 その響きの意味がわからないほど、子どもでもない。
 そうだ、自分たちは夫婦になったのだ。
 祝言を挙げ、夫婦になったとしても、この関係性が変わることはないだろうと思っていたが、決してそんなことはなかった。
 その証拠に、かごめの言葉にも姿にも、こんなにも緊張している。
 初めてとも言えるような緊張に、犬夜叉は両手をきつく握った。
 そして落としていた視線をそろそろと上げて、かごめを見つめる。
 化粧ではない頬の赤みに、犬夜叉の身体まで熱くなりそうだ。
 艶めく唇は玉虫色をやんわりと残しながらも、赤みを増していた。
 ふとそこに甘い匂いを感じて、犬夜叉は鼻を鳴らす。

 「なんかつけてるか?」

 「え?」

 「甘い匂いがする」

 かごめも犬夜叉の声に、はたと視線を持ち上げる。
 犬夜叉が蜜のような甘い匂いを辿って、目の前の唇に目をやると、思い出したようにかごめが口を開いた。

 「あ、なんか艶が出るからって蜜を」

 紅と一緒に塗ったのだ、とかごめは言った。
 朴念仁の犬夜叉に初めての夜に紅を差し、艶を出す女心がどれだけ理解できるのか。
 けれどもかごめの匂いと相まって香る、その匂いがたまらない。
 犬夜叉は酔ったようにうっそりと身を動かすと、かごめへと手を伸ばした。

 「犬夜叉?」

 熱い頬を包むと、指先に柔らかな黒髪が絡みつく。
 冷たい髪が犬夜叉の手肌をそろりと撫でる。
 自分の名前に形を変える唇が、内側から光りながらその色をちらちらと変えた。

 「すっげぇいい匂いがする……」

 うっとりと細めた目は、もうただひとつしか見ていない。

 「かごめ」

 「っ、はいっ」

 「嫌だったら、言ってくれ」

 紅を落とさぬように、唇の輪郭を親指の腹でそっとなぞる。
 一瞬震えた唇が、きゅっと結ばれてから、拗ねたような瞳を向けられた。

 「……そんなこと、言うはずないじゃない」

 『ばか』と言う唇は、その色艶に反して少し子どもっぽい。
 そこにいつものかごめを見た気がして、肩の力を抜くと、犬夜叉は幸せそうに微笑んだ。
 項に回った細い腕に、銀髪が優しく絡む。
 月明かりがふたつの影を、柔らかくひとつに重ねた。



  紅姻







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