秋も色めき、夜ともなれば肌寒い風が通り抜ける。 何かと理由をつけて、どちらかの家でしている酒盛りも、とうに両手で数えられる数を超えていた。 一番最初の酒盛りはかごめが戻ってきたからと、村で挙げた祝杯の後に小ぢんまりと。 三年の空白を埋めるように話に花を咲かせた。 注がれた酒は決して悪いものではなかったが、慣れぬそれをひと舐めして、かごめはすぐさま盃を犬夜叉へと渡した。 それを事も無げに、くい、と飲み干す犬夜叉が、急に今までになく男らしく見えて、かごめの胸はどきりと跳ねたのだった。 二度目はそれからひと月ほど経ってから。 犬夜叉と弥勒が大きな仕事を片付けたからと。 十日ほど留守にした後、たくさんの礼の品を馬で引いて帰ってきた。 少し草臥れた、けれども怪我なく元気なふたりの姿に、かごめも珊瑚も胸を撫で下ろした。 そして、労いの意を込めて、いつもより豪華な食事を共にした。 弥勒が珊瑚やかごめのために貰ってきたという酒は、前に飲んだものなど忘れるほどに甘く、以来ふたりのお気に入りになったのだった。 三度目はふたりの祝言のときだった。 村総出の祝い事を不躾とは思いつつも早めに切り上げ、ふた組の夫婦は月が真上を過ぎるまで盃を傾けた。 そのときの甘く幸せな、初々しいふたりのやり取りは、未だに皆の胸を温める。 待ち望んでいた光景が目の前にある――――そのことに目頭が熱くなったのは皆同じだった。 そうして何かにつけて設けてきた席も、これでもう何度目か。 いい酒が手に入ったから、漬けた果実酒がおいしくできたから、夕餉を作りすぎたから。そうして回を重ねてきた。 此度の理由はなんだったか。 珊瑚とふたり、厨に立ちながら話す内に、このまま皆で食事をしようとなったのだった、とかごめは思い出した。 とろりとした酒をちょこっと飲んで、酒気を帯びた息を吐く。 小さなお猪口に二杯ほど。 三人に比べれば、さした量ではないものの、かごめが頬を赤くするには十分すぎる量だった。 ふわりと浮くような感覚に、少し飲みすぎたかとかごめは両手で頬を包む。 枯葉色の床で冷えた手のひらが気持ちいい。 甘く、ほぅ、と吐いた息との温度の違いに少しばかり驚いた。 「かごめちゃん、大丈夫かい?」 「うん、大丈夫……。でも、少し飲みすぎちゃったみたい」 慣れてきたとは言え、あまり強くはないのだ。 以前にそうして少しばかり過ぎてしまい、気付けば布団の中だったことがある。 きっちりと着付けられた襦袢も、被った布団も記憶にない。 ただ頭の痛さと気だるさに顔を顰めながら、犬夜叉に渡された水を飲み干すと、二度とあんなに飲むな、と眉根を寄せてきつく言われたのだった。 結局、何があったかは未だに知らない。 けれども具合の悪さと恥ずかしさ、それと何となく感じた後ろめたさに、もう二度とあんなには飲まないとかごめは心に決めたのだった。 ちらりと目を向けた夫は、底に薄く残った酒をぐいと飲み干す。 晒されたくっきりとした喉仏はほんのりと桜色に染まっていて、あの時のように胸が跳ねた。 はぁ、と吐いた息の分厚さに、犬夜叉も随分と酒が進んでいたのだと知る。 「ちょっと、犬夜叉。大丈夫?」 「あ?」 「飲みすぎなんじゃない?」 真っ赤な顔に、とろりとした眼は存分に水気を含んでいた。 半分ほど伏せられた目蓋までほんのりと染まる。 これを酔っ払いと言わずして、何というのか。 かごめとてそれなりに酔っている自覚はあるが、今の犬夜叉はそれ以上だった。 普段より強い酒を口にしたわけでも、杯を進めたわけでもなかろうに、なぜそんなにも酔っているのか。 かごめはぼぅっとした頭でそんなことを思いながら、自分が飲んでいた水を差し出した。 犬夜叉はそれを受け取ると、酒と同じように一気に煽る。 ため息のような吐息はまだ重たいが、熱さはいくらかよくなったように感じた。 かごめがほっと息を吐き、茶碗を受け取ろうと手を差し出すと、その手をぐいと引かれた。 そして細い肩にことりと熱い額が触れる。 そのままぐりぐりと額から鼻先にかけてを首筋に擦り付けられて、擽ったさに思わず震えた。 「ちょ、犬夜叉!」 引き剥がそうにも、頑丈な両手足の檻の中に囲われて、振り返ることすら叶わない。 酔っているにも関わらず、なんという馬鹿力だ。 かごめがもがきどうにか抜け出そうとする姿を、ひとつの親子が面白いものを見るように見つめていた。 「いやぁ、まさに犬ですな」 「弥勒様!そんなこと言ってないで助けてよっ」 「はぁ、しかし、その馬鹿力には誰も適いますまい」 そう言われ、かごめも続く言葉を持ち合わせてはいなかった。 弥勒が駄目なら―――のと、縋るように左へ視線を移しても、頼みの綱の珊瑚も静かに頷くだけだった。 そしてふたりの間からはひょっこりと顔を出した双児がじぃとそれを見つめている。 小さなふた組の、ビー玉のような瞳とかち合って、かごめは押し返す力を更に強めた。 「ちょっと!ホント、いい加減にして!」 ここはふたりの家ではないのだ。 幼子もいる、弥勒と珊瑚の家なのだ。 ふたりきりであればいくらでも、と言える戯れも、今この場では許すことはできない。 そして幼子にまで見られているという気まずさと羞恥がかごめを襲った。 「犬夜叉!」 じたばたと動かす手足を、いっそう囲うように犬夜叉は力を込めると、擦りつけていた首筋からもそりと顔を持ち上げた。 「……なんで、逃げようとすんだよ」 「なんでって」 「おれが嫌いか……?」 まさかと否定しようとした矢先、遮るように犬夜叉は言葉を重ねた。 「おれは、こんなに好きなのに……」 「え?」 聞こえた言葉に目を丸くする。 たった一言に、酔いなど醒めた。 かごめは動きをぴたりと止めると、腕の中で犬夜叉を見つめた。 「お前は知らねぇんだ……おれが、どれだけお前を想ってるかなんて」 知らないわけではない。 犬夜叉がかごめをどれほど好いているか、愛しいと想っているかなど。 『犬夜叉はかごめ様にぞっこんだから』 ふたりを僅かでも知る者は皆そう言う。 そんな風なのだから、もちろん当事者であるかごめが知らないはずがない。 けれども犬夜叉の深く深い想いを、かごめが本当の意味で知ることは、恐らくないだろう。 「犬夜叉……?」 表情は髪に隠れて見えない。 見てみたい。ほんの少しだけでも。 自分への想いを語るその表情を。 かごめが犬夜叉の名を呼ぶと、腕の力が強まった。 うっそりと持ち上がる眼は想いが溢れるように揺れている。 そこから目が離せない。吸い込まれるように近づく――――と、その時、こほんと態とらしい咳がひとつ。 かごめは、はっと意識を戻して、そちらを見遣れば澄ました表情の弥勒と、顔を赤くしながらも、きらきらとした視線を送る珊瑚と目が合った。 弥勒の隠した双児の目は辛うじて覆われてはいたものの、残念ながらもその耳は犬夜叉の告白を遮ることはできなかったようで、小さな口元は、おぉ、と感心したように形作られている。 それにすべてを見られていた、聞かれていたのだと知って、かごめはもう死にかけの金魚のようにはくはくと口を開けては閉じた。 「いいいい犬夜叉!!!ダメ!離れて!!」 これはほぼ間違いなく、明日の双児の遊びのネタとなるだろう。 弥勒と珊瑚のそういった場面を、双児を通じて何度見てきたか。 火照った身体にひやりとした汗が背中を伝う。 かごめは叫ぶと、渾身の力で犬夜叉を突き飛ばした。 *** 「ごめんね、弥勒様」 甘さを纏った夜風が、時折優しく通り抜け、火照った頬を心地よく冷ましていく。 かごめは眉を垂らして、弥勒に担がれた犬夜叉を見遣った。 同じ村に家を構えてはいるのものの、ふたつの家はそれなりに距離がある。 しかもこんな夜半に、女ひとりと酔っ払いを放り出すなどできるはずもなかった。 「いえいえ、よいのですよ。こんな酔っ払いと一緒など何が危険かわかったものではありませんしね」 弥勒は柔和な笑みで答えては、『それに、』と付け足すと言葉を続けた。 「いいものを見させていただきましたから」 「っ、弥勒様!」 笑みを深めた弥勒に、かごめは先ほどの身体の熱を思い出す。 牽制しようと声を上げても、どう言っていいのか分からない。 かごめも口が回る方ではあるが、こういうときの弥勒には到底勝てる気はしなかった。 まぁ、牽制せずとも言いふらすようなことはしないだろうが。 再び顔を赤くしたかごめに、ふふ、と笑うと弥勒は諭すように言った。 「かごめ様とてよかったのではないですか?犬夜叉の気持ちが聞けて」 「そう、なんだけど……できれば、素面のときに言ってほしかったわ」 むぅ、とむくれて見せると、かごめは熱を冷ますように両手で頬を包んだ。 その仕草は歳より幼く見えるのに、突き出された唇は夜の中では矢鱈と艶やかだった。 彼女のこういうところも、男たちを惹き寄せるひとつなのだろう。 番犬のごとくそれを牽制するのに、好きだ惚れたとひとつも口にできない男を弥勒は細めた目でちらりと見た。 「まぁ、そうですなぁ……しかしながらこいつには、あれが精一杯なのでしょう」 「そうなんだけど……」 かごめは諦めたようなため息を零すと、小さな爪先で石ころを蹴っ転がした。 犬夜叉を布団の上に転がすと、かごめの礼に会釈して、弥勒は早々に帰路へつく。 見上げた月は、天頂で輝いていた。 振り返った家の仄灯りは、すでに消えている。 「あれしきの酒で、あいつが酔うはずないのですがねぇ」 担ぎながらちらりと見遣った犬夜叉の、流れる銀糸の隙間から見えた、睨むような眼。 あれで酔っているなどよく言ったものだ。 好きだ惚れたと、言ってやりたいけれども、言ってやれない。 素直でないながらも純粋な悪友の、男の狡さを垣間見て、弥勒はそっとその眼を心の内に仕舞い込んだ。 愛より深い |