秋晴れの高い空に乾いた音が鳴り響く。
 もう聞き慣れたその音を合図に、小鳥たちが囀りながら飛び立つのを、犬夜叉は欠伸を零して眺めていた。
 まだ色づく葉も少ない木の枝から下を見遣れば、苦笑を浮かべる弥勒と目が合う。
 こちらは見事に色づいたようで、摩る左頬はほんのりと腫れていた。

 「あぁ、いたのか」

 すぐそばにいることなど知っていただろうに、弥勒はわざとらしい笑みを浮かべながら歩み寄ると、そのまま木の上で寝そべる犬夜叉を見上げた。

 「またやってんのか。よく飽きねぇな」

 厳しさを増す戦いの中の、束の間の休息。
 幾度か通ったことのある村の外れで見つけた大木で、つい先程まで犬夜叉はうたた寝をしていた。
 それを知ってか知らずか、後から来た弥勒と珊瑚が何やらいい雰囲気を醸し出しながら話し始めたのは、ほんの四半刻ほど前。
 当初は穏やかに、仲睦まじく話をしていたものの、しばらくするとそれは徐々に雲行きを変えた。
 きっかけは何であったのか。
 大方、弥勒が出したボロに珊瑚が気づき、それを誤魔化そうとしつつ尻やら何やらを触ったのだろう。
 見るのも聞くのも飽きた。いつものことだ。
 それなのに足音を荒くしながら立ち去る珊瑚の名を呼ぶ声は、ちっとも懲りてやしなかった。
 犬夜叉はため息しながら、呆れた視線を弥勒へ寄越す。
 女の扱いにも慣れていて、聡い男だ。
 ああも浮気性なのは元の性格だけが理由ではないことは知っているが、もう少し上手くはできないものなのか。
 もしかしてそうされることが好きなのかと疑ったこともあるが、以前にそれを問うてみれば『馬鹿を言うな。まぁ女子を叩くよりは叩かれる方が幾倍もいいが』と言われて終わったのだった。

 「……つーか、んなもん触って何が楽しいんだ」

 犬夜叉がぽつりと呟くと、今度は弥勒が心底呆れたように、腹の底からため息を零した。

 「はぁ……お前は私と同じ男ですか……?」

 「おめぇと一緒にすんな」

 こういったことで同じ扱いをされたくはないが、それ以上に可哀想なものを見るような目付きに腹が立つ。
 むっと唇を突き出した犬夜叉に、弥勒はさめざめとしながら言った。

 「まぁ、毎日のようにかごめ様の肌に触れられるお前にはわかるまい」

 「はぁ?」

 かごめの肌に触れる、などとはどういうことだ。
 全くもって心当たりが――――いや、ないわけではないのだが……
 思い出す限りそのどれもが邪な心を持ってのものではない。
 まぁ抱き竦めたり、ふっくらとした膝を借りたり、事故で念珠を光らすことがないわけではなかったが。
 むしろそんな心を持ち合わせて触れようものなら、この身はぎしりと固まり、何も知らぬ無垢な瞳に罪悪感を感じてしまう。
 過ぎた年数だけであれば人の寿命を遥かに超えても、その心根はまだ思春期を走り出したばかり。
 邪な心持ちでは、指先ひとつ掠めることもできないのだ。

 「触れているではないか。その背に背負ってぴたりと」

 「あ、あれはちげぇだろ!」

 「何をそんなに吠える。あぁ、それともあれか、何かほかに心当たりでもあるというのか?」

 「なっ、ば、馬鹿言ってんな!」

 あわあわと熟れた柿のように赤くなった顔では、一寸の説得力も持ち合わせてはいない。
 犬夜叉は枝からずり落ちそうになるのを堪えながら、にやりと笑う弥勒を睨みつける。
 けれどもそれは仔犬がきゃんきゃんと吠えるほどの気迫しかなかった。
 枝にしがみつくようにしながら威嚇を続けていると、陽射しをたっぷりと含んだ風に乗って、嗅ぎ慣れた匂いが近づいてきた。
 それはあまくて優しくて、犬夜叉の一番好きな――――そして今、何よりも一番避けたい彼女の――――

 「あ、いたいた。犬夜叉ー」

 呼ばれた名前にびくりと肩を揺らす。

 「おや、かごめ様。どうされました」

 「ちょっと向こうに忘れ物しちゃって……犬夜叉、悪いんだけど連れてってくれない……?」

 困り顔で両手を合わせる姿はひどく可愛らしく、犬夜叉の胸を撃つ。
 いつもであればひとつふたつボヤきつつも、この背に乗せて駆けていくところではあるし、そうすることはほかの誰にも譲るつもりはない。
 けれども、だけれども――――

 「え、あ、き、今日はダメだ!!雲母に頼め!!」

 弥勒とあんな話をした後に、おいそれと背負えるわけがない。
 背負ってしまえば、ふたつの膨らみはこの背で柔らかく潰れ、首筋には静かな息遣いが触れ、愛らしくも落ち着いた声はいつもよりも近くで聞こえるのだ。
 そしてこの手は柔らかくもハリのあるあの腿に触れ、ともすればその奥の滑らかな薄布に包まれた丸い尻に触れる。
 いつもは意識しないその感触が、今はやたらと鮮明に手のひらに甦る。
 そういえば薄布越しにじんわり伝わる体温は、ここ最近の寒さもあってか以前よりもほんのり冷たくなっていた。
 感触は相も変わらず柔らかなままだが――――とそこまで思い出し、犬夜叉は大きく頭を振った。
 そんな犬夜叉の様子に首を傾げるかごめの姿が、目に、胸に痛い。
 痛くて痛くて、居た堪れない。

 「どうした犬夜叉。“いつものように”送って差し上げればよいではないか」

 全てを理解した弥勒が、今は彼の宿敵よりも憎らしく見えてくる。
 涼やかな音を立てる錫杖にまで遊ばれている気がして、犬夜叉は活路を見出せぬまま、風に揺れるスカートの裾を睨みつけた。



  Peach








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