意図して入り込んだ森の中、犬夜叉はすぐ目の前を歩くかごめをじぃっと見つめると、静かに名前を呼んだ。

 「かごめ」

 「ん?」

 再び時代ときを越えてきたときよりも、少しだけ伸びた黒髪が、振り向きざまに柔らかく風にたなびく。
 そこから光が零れると、犬夜叉は眩しそうに眼を細めた。

 「なぁに?」

 歩みを止めたかごめの後ろからは、もう嗅ぎなれた村の匂いがする。
 覆われた木々でその形は見えずとも、あとほんの少し歩けば、もうそこは村の入口だ。
 帰ってしまえば、いつものように賑やかしい声や気配が、ふたりを迎えるだろう。
 犬夜叉はその様子を思い浮かべて、僅かに眉根を寄せた。

 かごめが犬夜叉の元へ戻ってきてしばらく。
 懐かしさや珍しさから、常に、と言っていいほど、彼女は誰かしらに囲まれていた。
 やはり奈落を滅した稀代の巫女の名は、三年などという僅かな年月で忘れ去られることはなかった。
 むしろ舞い戻ったというそれがまた奇跡だと、あっという間に武蔵の国を越えて知れ渡り、落ち着かない日々を過ごしていた。
 すぐ隣村からどうかお祓いを、と頼まれることもあれば、遠くの城主から怪しげな声をかけられることもあった。
 事が起き始めたのは犬夜叉とかごめが共に暮らし始め、“夫婦”と呼ばれる関係になるよりも少し前のことだった。
 きっと、ただ珍しいのだ、一時のことだ。そう話していたのは誰だったか。
 なかなか落ち着かぬ暮らしに――――正確にはかごめとふたり静かに過ごせぬことに、犬夜叉はふつふつとした苛立ちを募らせていた。
 ころころと変わる表情を、飽きることなく見つめていたい。
 紡ぐ言葉の数々に、静かに耳を傾けていたい。
 細い指に指を絡ませ、皺のひとつひとつまで合わさるように触れていたい。
 手を伸ばし抱き寄せて、柔らかな匂いに包まれていたい。
 あとそれと、もっと――――もっと近くに、あの肌にこの熱が添うほどに近づきたい。
 今なら自分のなかの邪な想いも否定しない。
 枷が綺麗さっぱりなくなったわけではないが、かごめはそれをも善しとして、犬夜叉を丸ごと受け入れてくれている。
 それなのに欲を体現できないことは、犬夜叉にとって、ただ苛立ちの糧でしかなかった。
 だから、少しでもふたりきりになりたくて、遣いの帰りはわざとけもの道を選んだ。
 迷うはずのない道を、わざと迷ってみせた。
 いつもなら背負って帰るところを、わざとゆっくりと歩いた。
 それももう、あと少しで終わってしまう。
 犬夜叉は首を傾げたかごめの頬を、そっと包んだ。

 「どうしたの?」

 眼下に作られたクマは、昨日より薄くなっている。
 かごめに無理をさせてはいけない。
 彼女は唯一無二なのだ。皆、だけではない。何よりも、誰よりも、自分にとっての。
 犬夜叉は親指の腹でやんわりとクマを撫でる。

 「少し、薄くなったな」

 「犬夜叉?」

 「無理すんなよ」

 そうだ。無理をさせてはいけない。
 だけれども、このまま、やさしく口づけるだけなら、許されるのではないだろうか。
 そっと、触れ合わせるだけ。すこしだけ。
 くっ、と包む手で上を向かせると、薄茶の瞳が震えて、滑らかな目蓋の幕が降りる。
 もうそれだけで、許された気がした。
 ふっくらとした唇に、想いの一端を委ねるように、それを合わせる。
 柔らかく、そこだけで熱が合わさるくらいに。静かに、そっと。
 有り余るほどの名残惜しさを抱えて、もたつくように唇が離れる。
 仄かに染まった頬をひと撫ですると、犬夜叉は振り切るように口を開いた。

 「……行くか」

 背を向けて、そろそろ見え始める村の入口を目指す。
 一歩、また一歩と歩みを進めるごとに、足が重たくなる気がした。
 どこかの家で飯を炊く匂いがする。
 子どもがはしゃぎ、それを窘める誰かの声がする。
 あの賑やかしい声や気配のなかに帰るのだ。
 犬夜叉が自身ですら気づかないような溜息を零すと、ぐぃと袖を引っ張られた。
 そして近くの木に背を預けるように押し付けられる。
 目を丸くして見たかごめの表情は、怒ったようにも拗ねたようにも見えた。
 どうした、と犬夜叉が口を開くよりも早くに、袷を引かれて口づけられる。

 「っ、」

 先ほどの口づけなど、比べものにならないほどに強く合わせた唇が、掴まれた袷とは反対に柔らかく犬夜叉のそれを食んで、すぐに離れた。
 呆気に取られて、ぽかりと開いた口が塞がらない。

 「かご、」

 紡ごうとした名前をそっと細い指が制した。
 俯き顔が戸惑うように犬夜叉を見つめる。
 その瞳は優しく、つい今しがたの表情など、微塵も見当たらなかった。

 「……こういうことしたいのは、あんただけじゃないんだから……」

 犬夜叉が口づけたときより、頬も目尻も朱に染まる。
 しっとりとした唇は無防備に赤い。
 絡む視線はいつになく揺れていた。
 その様に犬夜叉は思わず息を呑む。
そして唇を制する人差し指をそっと手に取り、そのまま指を絡めた。

 「かごめ」

 「ん、」

 細腰を引き寄せると、かごめの腕が犬夜叉の項に回った。

 「かごめ」

 「なぁに」

 頬を包んで撫でて、吐息が混ざり合うほど近くに。
 かごめが踵を持ち上げ、犬夜叉に身を寄せると、落ち葉が密やかに音を鳴らす。
 その音よりも小さく、犬夜叉は囁いた。

 「帰るの、少しだけ遅くなってもいいか?」

 「少しだけ、ね」

 悪戯に微笑むと、声が犬夜叉の唇を震わせる。
 妙な擽ったさに犬夜叉の奥底で熱が芽生えた。
 もう、頷くことすら惜しい。
 あぁ、と呟いた気がしたその声は、唇の間で潰れて消えた。



  抱擁







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