戸口にかけられた簾が静かに揺れる。
 辺りを照らす陽射しは、初夏を思わせるほどに眩い。
 季節が駆け足したような、少し身体を動かせば、額にうっすらと汗が滲むほどに温かな日和だった。
 温くも爽やかな風が頬を撫でて、かごめは面を上げた。
 簾が揺れるたびにきらめく陽射しが、嫌というほど綺麗に見える。
 針を止め、ふぅと小さく息を吐く。
 そしてその先を眺めるように、目の前のきらめきをぼんやりと見つめた。

 微かな衣擦れのなかでぷつりぷつりと布を刺す音がふと止み、そよ風にも負けそうなため息が聞こえると、犬夜叉は薄く片目を開けた。
 見遣ったかごめの手は繕う単の中に完全に埋まり、光の弱まった瞳は瞬きもせずに、どこか知らないところを見つめている。
 その姿はまるで糸が切れた人形のようで、もうしばらく動くことはなさそうだった。
 犬夜叉は苦しげに眉を顰めると、今度はしかと両目を開けてかごめを見つめた。
 かごめが戦国の世に舞い戻り、ひと月と経たないうちに周りに急かされるようにしながら、一緒に暮らし始めた。
 急かされたとは言え、互いに望んでいたことではあったし、ずっと想像していた“いつか”が形になったことに歓び奮えた。
 あの頃とは違う雰囲気にお互いそわそわしながらも、懐かしさと愛しさに胸を打たれては、穏やかに過ごしていた。
 そしてかごめと暮らし始めて、ひと月と半分ほど。
 ここ最近、かごめが遠くを見つめることが多くなったことに、犬夜叉は気づいていた。
 その度に胸をきつく握られるような感覚を覚えて、枯れた井戸に出向いては、そこにかごめの匂いがないことに安堵しながらも顔を歪ませていた。

 幸せの裏にある影に心の内で舌打ちすると、犬夜叉は苦々しく口の端を噛んだ。
 そうしてしばらくすると思い出したように、緩慢にかごめが動き始めた。
 未だ少し遠い目は、定まらないながらも針先へと視線を落とし、ゆるゆると細かく波打つように針を進める。
 するとその先が柔らかな指の腹をぷつりと突いて、かごめが小さく震えた。

 「っ、」

 みるみると玉のように膨らむ血に慌ててかごめは繕っていた単から手を放すと、今度ははっきりとため息をついた。
 そしてその指先を口に含もうとした時、端から伸びてきた大きな手にがしりと手首を掴まれた。

 「刺したのか」

 「あ……うん、ごめん」

 「別に、謝るな」

 艶やかな赤い玉は、その形を崩す寸前のところで指先に留まる。
 少しでも動けば垂れてしまいそうなそれを、犬夜叉は躊躇うことなく、己の口の中へと迎え入れた。
じわりと広がる鉄の味。
 そこに舌先を押し付けながら軽く吸うと、細い腕は微かに震える。
 やがて鉄の味が消えて、指先を確認すれば、ほんのりと滲む程度まで傷は治まっていた。

 「止まったみてぇだな」

 「うん……ありがとう」

 くせのある柔らかな髪が静かに表情を隠す。
 力なく項垂れるかごめを、苦しげに細めた瞳で犬夜叉は見つめた。

 「かごめ」

 隙間から見える桜色の頬を優しく包むと、変わらない温もりが犬夜叉の手に馴染んでいく。
 そのまま優しく上を向かされて、戸惑うように揺れる瞳が犬夜叉を写した。

 「どうかしたのか?」

 「……どうも、しないわ……」

 いつもは真っ直ぐに犬夜叉を見つめる瞳が、心を隠すようにそっと伏せる。
 影を作る睫毛の奥は不安定に揺らぐ。

 「かごめ」

 犬夜叉は掴んだ指先をしかと絡めて、気持ちを伝えるように握った。

 「頼む、無理はしないでくれ」

 犬夜叉の言葉に、かごめははっと目をやる。
 その表情はまるで、かごめの心の内を代弁するかのように悲しげに歪んでいた。
 頬を包む手のひらが微かに強ばっている気がして、かごめは思わず手を重ねる。

 「違うのっ、無理なんてしてないのっ」

 「かごめ……?」

 「違うの……」

 重ねて言う声は弱々しく消え失せる。
 再び俯いたかごめが、縋るように犬夜叉の胸元を掴んだ。
 小さな身体を抱えると、細い腕が首に絡む。
 嗚咽が聞こえるたびに、涙が犬夜叉の肩をしっとりと濡らした。

 「無理なんかじゃ、ないの……」

 いつもは自分を包み込む彼女の、幼子のような姿が胸に痛い。
 堪らず犬夜叉が抱きしめると、かごめは噎ぶ声をこらえがらも、ぽつりぽつりと話し始めた。

 「も……自分、が……や、になっちゃ、うの……っ、」

 料理も洗濯も、巫女の仕事も読み書きも。
 現代では当たり前のようにできていたことが、何ひとつとして満足にできない。
 どこかへ出かけるにも、ひとりでは儘ならない。
 齢を考えればおんぶに抱っこの時期はとうに過ぎた。
 それなのに自分は未だ、掴まり立ちさえできない赤子のようだ。
 誰かの、何よりも犬夜叉のお荷物にはなりたくないのに、現実にはそうなってしまっている。
 それが辛くて苦しい。

 「昨日も……お鍋、焦がしちゃうし………今だっ、て、あんたの着物、汚しそうに、なるし……っ、」

 「…………」

 いつまでたっても焦がしてしまう鍋が恥ずかしくて、犬夜叉にも黙って、こっそりと朝早くから洗いに出かけた。
 ひとり川辺にしゃがんで、藁を握りしめながら、なかなか取れない焦げを睨んだ。
 その惨めさを思い出す。
 鍋の汚れを落とすたび、心がこそげていくような気がした。
 爽やかな季節のなかで、花は咲き乱れ、緑は青々と輝くのに、ただひとり自分だけはくすんだ所に取り残されたようだった。

 「ごめ、ね……っ、なにも、うまく、できな、て……っ」

 かごめの噎ぶ声が犬夜叉の胸を抉る。
 こんな苦しさをかごめは抱えていたのだろうか。
 なぜ、もっと早くに抱きしめてやらなかったのだろう。
 犬夜叉は小さな頭を撫でる余裕もなく、柔らかな髪を乱すように引き寄せた。
 擦り合わせた頬は冷たい涙に濡れる。

 「かごめ、かごめ……っ、そんなこと言うなっ」

 鼻の奥が痛んで、金色の瞳に薄い膜が張る。
 かごめに、いい妻になってもらいたいわけではない。
 ましてや女中のように、世話を焼いてほしいわけでもない。
 ただ、傍にいてほしいだけだ。
 穏やかに緩やかに、共に時間を紡いでいきたいだけだ。
 犬夜叉は真摯にかごめを見つめた。
 ひたひたと涙を携える瞳が苦しげに歪む。

 「かごめ、聞いてくれ。なぁ。鍋が焦げたならおれが洗ってやる。お前が作るならなんだって食ってやる。洗濯だって読み書きだって、なんだって手伝ってやる。しょっちゅう怪我されちゃあ堪らねぇが、衣に付いた血だってお前のなら全然構わねぇ。なぁかごめ。頼む。頑張るだけならいいが、無理はしないでくれ」

 普段は言葉少なな犬夜叉が、ゆっくりとひとつひとつ、言葉で撫でるように語りかける。
 静かな声や歪んだ表情からは、かごめと同じ苦しみが見て取れた。

 「っぅ……っ、いぬゃ、しゃぁ……っ」

 携えた涙は大きく膨らみ、ぼろぼろと零れ落ちる。
 思いきり抱きついた首筋で、犬夜叉の耳を切るように噎ぶ。
 穏やかに吹く風が陽のきらめきを届けながら、ふたりの頬を優しく撫でた。


 「落ち着いたか?」

 「うん……」

 小さくしゃくりあげる背中を軽く叩くと、恥ずかしげにかごめは俯いた。
 あんなに泣いてしまったのはいつぶりだろう。
 つい先ほどまでの自分の姿に、かごめは頬を染めた。

 「大分赤くなっちまったな」

 そう言うと犬夜叉はかごめの目元をそっと撫でる。
 いつもは澄んだ瞳もうさぎのように真っ赤になり、目蓋も目尻も、涙が伝った頬さえもほんのりと赤くなっていた。
 その跡を柔らかく包み込むと、かごめが犬夜叉の袖口を握りしめた。

 「犬夜叉、ありがとうね」

 微かに腫れた目蓋は痛々しさを残す。
 けれども微笑んだその表情は、久しぶりに見た、犬夜叉の一番好きなかごめだった。

 「あぁ」

 乱れた髪を優しく梳くと、擽ったそうに目を細める。

 「目、冷やしたほうがよさそうだな」

 「うん。あ、でもそろそろご飯作らなきゃ」

 傾き始めた陽を見て、はたと思い出したようにかごめが言った。
 そんなかごめに犬夜叉は、わざとらしくため息を吐き窘める。

 「飯の前に少し休め。まだ時間はあるだろ」

 「でも、時間かかっちゃうし……」

 「あのなぁ、手伝うっつったろ」

 何事にも一生懸命なところが、かごめの長所であり短所でもある。
 先ほど散々伝えた言葉はもうすでに忘れられているような気がして、犬夜叉はもう一度、今度は呆れた声で言って聞かせた。
 するとかごめはひとつ瞬きをして、真っ赤な瞳で犬夜叉を見つめた。

 「犬夜叉が?」

 「あぁ」

 「料理を?」

 「……なんだよ」

 「……そっか」

 犬夜叉が襷をかけ、包丁や鍋を持つ姿を想像する。
 噴いた鍋や細かな調理の手順に、彼は慌てるだろうか。
 もしかしたら意外と包丁捌きは上手かもしれない。
 そこまで考えてかごめはくすりと微笑んだ。

 「じゃあ甘えちゃおうかな」

 「おう、そうしとけ」

 先ほどまでの不安げな様子から一転、穏やかなかごめの表情に犬夜叉はほっと胸を撫で下ろした。
 そして軽く頭を撫でると、ぎゅっと抱きしめたそのままで、ごろりと横に寝転がった。

 「犬夜叉も一緒に寝てくれるの?」

 「あぁ」

 「そっか」

 囲われた腕の中は、初夏を思わせる日和のなかでは少し暑い。
 けれどもそこは、ほかのどんな場所よりも心地いい。
 かごめは犬夜叉の胸に顔を埋めると、その匂いに安堵した。
 優しく頭を撫でられるたびに、うとうとと目蓋が落ちていく。
 意識が途切れてしまいそうななかで、かごめはもうひとつ、犬夜叉に甘えた。

 「ねぇ……犬夜叉」

 「ん?」

 「今日の夜も、こうして寝てくれる……?」

 思わぬ申し出に犬夜叉は目を見開くと、すぐに目尻を垂らした。

 「んなもん、いつだってしてやるよ」

 『ありがとう』の言葉は聞こえたかどうかわからない。
 幸せそうなかごめの口元がもにょもにょと動くのを見て、犬夜叉は円やかな額にそっと口づけた。

  ***

 「かごめちゃーん」

 太陽が空の真上を過ぎ、頬を差す陽射しも強くなり始めてしばらく。
 珊瑚は先日、土産にもらった甘味を手に、かごめと犬夜叉の住まう家の前にいた。

 「かごめちゃーん。…………いないのかな?」

 確か今日は家にいると言っていたのだが――――。
 掛けた声には少しの反応も見せない。
 そよぐ風がただ簾を揺らし、辺りの木々が葉を擦り合わせる音が聞こえるだけだった。
 どうしたものかと頭を捻っていると、聞き慣れた涼やかな音が聞こえて、振り返ればそこにはやはり夫が立っていた。

 「どうしました?」

 「いや、かごめちゃんと食べようかと持ってきたんだけど……」

 珊瑚は手にした包みに目をやると、今朝のことを思い出した。
 空が紺を薄くして淡い紫から桃色へと色を変えていく頃。
 夜が遠のきつつも、まだ空気の冷えるなかで、かごめを見つけた。
 川辺でしゃがみ込み必死に鍋を擦る様に、珊瑚は喉元まででかかった声を寸でのところで飲み込んだ。
 まるで辺りに生い茂る草のなかに、隠れるようにしていたから。
 普段の明るく優しいかごめを忘れさせるような、何かを噛み締めた表情に、今声をかけてはいけないと知ったのだ。
 珊瑚はその場から静かに立ち去った後も、滅多に見せない彼女の表情が頭から離れないでいた。
 かごめが気を落としていることは、なんとなく気づいていた。
 辛いとき、あんなにも支えになってくれた彼女の、僅かながらも支えになりたい。
 女同士だからこそ、分かることも話せることもあるはずだ。
 そのために甘味を理由に、話でもしようかと訪れてみたのだけれども――――

 「いないのか?」

 「うん」

 肝心のかごめがいないのだ。
なんなら犬夜叉も。
 何度か名前を呼んではみたものの、物音ひとつ返ってこない。
 ふむと考える様を見せた弥勒が、ちらりと簾を持ち上げると、ふと笑みを作った。

 「珊瑚」

 そして妻を手招きしながら呼び寄せて、覗いた先をほらと指差した。

 「あ」

 そこには静かに目蓋を伏せるかごめと、そんなかごめを至極大切そうに、がしりと抱きしめる犬夜叉がいた。
 ずっと心配していた彼女は、ぎゅうっと音が聞こえそうなほどに回された腕の中でも、苦しそうな素振りなど全く見せずに、むしろ幸せそうに眉尻を下げて眠っていた。
 白衣から覗く細い腕は犬夜叉の背を掴み、一寸たりとも彼から離れようとしないでいる。
 細く差す陽射しがひっそりとふたりを照らす。

 「こんな日和に暑いだろうに」

 「そうですね。しかし、仲睦まじいことではありませんか」

 穏やかなふたつの寝息が風に乗って聞こえてきて、弥勒と珊瑚は頬を緩めた。

 「今宵は我が家に招きましょうか」

 「そうだね」

 今日の夕餉はいつもより腕によりを掛けて作ろう。
 甘味もそこで楽しみながら、こっそりと女ふたりで話をしよう。
 きっと嫁いだばかりの頃の自分の話をすれば、彼女の頬も緩むはずだ。
 珊瑚は夕餉の献立を組むべく、得意になった料理の数々を思い浮かべた。

 ふたつの影は村へと向かう。
 その足音を聞きながら、そっと下ろされた簾の奥で、犬夜叉は照れくさそうに口元を曲げた。
 穏やかな寝息は、まだ途切れることはない。



  






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