職員室から鞄を取りに教室に戻ったときには、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。 ここ最近はすっかり夏は遠のいて、半袖のシャツでもいられなくなった。 少し前であれば、まだ明るかった空も、あと三十分もすれば暗くなってくるだろう。 日が暮れる前に早く帰りたくなるのは、肌寒いこの季節がそうさせているのか。 僕は物悲しいような寂しさを見せる、誰もいない教室を後にした。 先程、先生に言われた言葉を反芻して、ため息をつく。 成績が足りないのも、僕の頭では志望校に沿わないことも重々承知している。 だけども仕方ないじゃないか。 それを望んでいるのは、僕じゃない。 これから先のことを考えて、憂鬱に染まる心を払拭するように、もう一度深々とため息をついた。 東側の階段からふたつめの教室に差し掛かったとき、人影を認めてふと目を向けた。 見遣った先には、僕が知る女性がひとり。 まぁ知っているとはいっても、話したこともないのだけれど。 入学当初から噂になっていた。 かわいくて、きれいで、優しくて。 遠巻きに見ていた笑顔は、いつでも花が咲くようだった。 けれども時折見せる切なげな表情が、息を呑むほど儚くて、きっと誰もがそのアンバランスさに魅力されたのだ。 しかし彼女は誰の声にも振り向かない。 もう卒業してしまった百戦錬磨の先輩にも、校内一と言われるカッコいい同級生にも、誰もがかわいいという後輩にも。誰にも。 それが僕が知る、日暮かごめという彼女だった。 彼女――――日暮さんは、窓際の真ん中の席に座り、手にしたプリントをじっと見つめる。 少しだけ開いた窓の端で、穏やかに揺れるカーテン。 薄暗い教室の中で、彼女は夕陽の影になりながらも、くっきりとその線を濃くする。 そんな彼女が形のいい眉を寄せてついたため息は、先程の僕のものと同じ色をしていた。 あぁ、きっと、あれは調査表なのだ。 これから先のことへの。 彼女はどこへ行くのだろうか。 優秀な彼女が悩むだなんて、一体どこなのだろう。 オレンジ色を濃くする空を理由に、思いきって声をかけてみようか。 そして何食わぬ顔をして訊いてみようか。 教室へと向かわぬ足を残して、気持ちと想像は完全に彼女のほうへと向かっていた。 悩み始めてしばらく。 “よし!”と喝を入れ、迷った足先を彼女のほうへと向けたとき、窓の外の銀杏の枝が一本だけ緩くしなった。 彼女が見開いた目で、弾けるようにそちらを振り向く。 その視線の先には烏が一羽。 『カァ』と鳴くと、再び枝をしならせながら飛び立った。 黒い影が夕焼けの向こう側へと飛んでいくのを見て、彼女は静かに前へと向き直る。 そして丸い瞳を萎ませて、呆れたように微笑むと、柔らかそうな前髪をくしゃりと握り潰した。 一度は緩んだ口元が、きつく噛み締められていく。 遠目にも痛々しい姿に、かける言葉も、向けた足先の行方もわからずに、僕は立ち尽くした。 この止まったような時間と空気に、指先ひとつも動かせない。 するとまるで、それを壊すかのように突然大きな風が吹いて、枝葉が揺れた。 銀杏の葉が擦れる音を立てながら、夕陽に照らされちらちらと輝き、流れ落ちていく。 同時に彼女の黒髪も舞い上がり、掻き乱される。 それでも俯く彼女は気にも留めずに、細い腕の中に顔を隠した。 窓から差す夕陽が教室を燃えるように染めながら、ぽかりと彼女だけを残していく。 その姿があまりに切なくて、苦しい。 悲しくて、美しい。 崩れそうな光景は、息することも怖くなる。 僕の中にも彼女の想いが乗り移ったように、胸が締め付けられた。 声もあげずに、誰もいない教室で涙を見せることもない。 そんな彼女の小さく震える肩を抱くのは、決して僕ではないのだ。 この世界の誰でもないのだ。 例えその腕が、彼女に触れられることがないとしても。 きっと触れられるのは、ただひとりだけなのだ。 その行く先を、彼女はずっと探している。 目を閉じて、震える肩を視界から消した。 背けた視線の先では、空が夜の色を濃くしている。 外では銀杏の葉が、慰めるように散っていた。 秋風が攫う |